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この白い空の下、君とみだらな海に溺れたい。

作者:ナムラケイ
 イスラム教徒へ祈りの時刻を知らせるアザーンが鳴り響き、アパートの窓から覗く空は夜明けへ向けて白み始めている。
 翔子は身を起こして、ベッドサイドのグラスに手を伸ばした。
 口に含んだマッカランはすっかりぬるくなっている。

「こら。これから出勤だろ」
 とっくに目を覚ましていたのだろう。
 横から真木の手が伸びてきて、グラスを取りあげた。
「いいじゃないの、一口くらい」
「今、飲みほそうとしてただろ」
 図星を刺され、翔子は頬を膨らませた。
「そんなことないわ」
「翔子さん、嘘つくときいつもそう言うんだよな」
 薄く笑うと、真木は寝そべったままウィスキーを煽った。
 その腕や喉の線がひどく美しく見え、翔子はひそかに顔を赤らめる。

「人のこと言えないじゃない」
「俺は今日は代休」
「あ、そうだったわね」
 真木は土日返上でバリ島に出張に行っていたのだった。

「ご機嫌はなおったみたいだね」
 真木が揶揄うように顔を覗き込んでくる。翔子は澄まして言い返した。
「素敵なセックスのおかげでね」 
「お褒めに預かり光栄です」
 ふざけて手の甲にキスをしてくる真木に、
「・・・話、聞いてくれてありがとう」
 と礼を言った。
 昨夜、散々仕事の愚痴をぶちまけたのだ。
「どういたしまして。翔子さんの弱音なんて珍しかったからね」

 古沢翔子は在インドネシア日本大使館で勤務する外交官で、真木智則は日本一の売り上げを誇る全国紙のジャカルタ特派員だ。
 二人はたまたま同じアパートメントに住んでいて親しくなった。
 恋人同士、なのではなく、時々酒を飲んでベッドを共にするだけの関係だ。
 二人ともそれぞれ彼氏彼女が別にいる。ただし日本に。

 正直なところ、翔子は彼氏-神田の出版社に勤めている-とはほぼ自然消滅状態だ。
 自分だけがセカンドになるのが怖く、引き止めるようにラインやスカイプで連絡を取っているが、相手の気持ちもとうに冷めているのは気づいている。


 二人の身体を包む真っ白なシーツは、昨夜の余韻と湿り気を含んでしっとりとしている。
 真木の部屋が高層アパートメントの最上階であることをいいことに、カーテンを開け放したままの窓の下には、屋根の鮮やかなオレンジの濃い緑が入り混じったジャカルタの風景が広がっている。
 昇りつつある太陽は既にまばゆい光を放っている。
 今日も暑くなりそうだ。


 いたずらっぽい笑みを浮かべながら、真木がシーツの中で翔子の脚をなぞる。
 その愛撫を受けながら、翔子は昨夜の会話を反芻する。

 翔子は大使館で経済協力の仕事を担当しているが、現在進行中のダム開発プロジェクトに関するインドネシア政府との交渉で、大きな失敗をやらかしてしまったのだ。
 結果として大使の機転と謝罪で事なきを得たものの、下手すれば、工事を受注している日本企業に多大な損害を発生してしまうところだった。

 ヤケ酒を飲みながら猛省して弱音を吐く翔子に、真木は駆け出し記者だった頃の自分の失敗談を面白おかしく聞かせてくれ、その後、とても丁寧で優しいセックスをしてくれた。

 おかげで、今日も前向きに働ける。
 真木の存在はいつも翔子を救ってくれる。


 繊細な真木の指が脚の付け根まで上がってくる。
 その指をシーツの上から押さえた。
「仕事行かないと」
「まだ6時だよ。あと1時間半ある」
「その1時間半は、シャワーと着替えと朝食の時間」

 翔子にとって真木がそうであるように、真木の慰めであり誇りでありたいと願っている。
 そのために必死に働く。働いて得たお金で精一杯遊ぶ。体調と体型をきちんと管理する。
 自分に自信を持っていられるように。
 彼が誇らしく思ってくれるように。

 同僚で親友のカナコにその思いを打ち明けた時、カナコが放ったのはずばりの一撃。
「とっくに好きになってんじゃん。うだうだ言ってないでさっさとコクってひっつくなり別れるなりすれば? 今のあんたたち、相当不健全だからね」

 真木に恋をしていることなんて、とっくに気づいている。
 この関係が卑怯で脆弱で不健全なことも。

 真木には東京に婚約者がいる。
 負けが分かっている勝負に出るくらいなら、健全さなんていらない。
 それに、今の中途半端な関係が翔子は案外気に入っている。
 もう少し、このみだらで背徳的な海に溺れていたい。


 そんなことを頭の半分で思いながら、残りの半分では今日の仕事の段取りを目まぐるしく考えつつ、翔子はベッドから出た。
 その腕を真木が掴んでくる。
「離して。支度したいんだから」
「冷たいなあ」
 真木は肩をすくめて、ねだるような表情で見つめてくる。

 とくんと胸が鳴った。
 年下の男のこの甘えるような顔が、翔子は好きだ。
 一瞬、世界のすべてがどうでもよくなってしまう。

「仕方ないわね。じゃあ、そのウィスキー飲んでいいかしら」
 心得ている真木は、にやりと笑ってグラスのウィスキーを口に含んだ。
 左手で翔子の手首を掴んでベッドに引き倒すと、右手で頭を優しく支えてくれながら、素早く口づけてくる。
 強くあたたかい液体が口の中に流れ込んでくる。

 早朝、酒類を禁忌とする国で、恋人ではない男の唇から飲む酒。
 こんなに背徳的なものを翔子は他に知らない。

 真木がそのまま深く口づけ、既に十分潤っている場所へその指が触れた時、枕元のスマートフォンが震えた。

 翔子の体勢からは見えないが、ホーム画面にはメッセージが表示されているはずだ。
「読んで」
 翔子が乞うと、真木は視線を動かした。
「各位 先ほど、スナヤン地区の日系企業A製紙の工場で爆発があったとの連絡あり。関係者は至急大使館に参集願います。 経済部 村岡」
 二人は目を見合わせて苦笑する。
「仕事ね」
「ですね」


 お互い時間が命の仕事だ。身支度は手早い。
 交互にシャワーを浴びて服を身に着けるまで10分もかからなかった。

「先に出るわね」
 在留邦人の入居率が高いアパートメントなので、時間差出勤が鉄則だ。
 玄関を出て、プライベートエレベーターのボタンを押した翔子を真木が後ろから抱きしめた。
 代休返上で現場取材に行く真木はサマースーツを着込んでいる。
 背が高く、肩幅が広い真木はスーツがとてもよく似合う。
 生地の上からでも分かる、厚い胸板と筋肉に覆われた腕。

 自分とは違う、オスという生き物。
 その魅力にくらくらしながらも、翔子の頭はすでにこれからの仕事で頭がいっぱいだ。


 エレベーターが到着し、扉が開いた。
「ちょっと、もう行かないと」
 真木の腕が緩んだので、翔子はエレベーターに飛び乗る。
 自動扉を片手で押さえながら、真木は真顔で言った。
「翔子さん。昨日、翔子さんが会いたいって電話くれて、散々愚痴って弱音吐いてくれたとき、嬉しかった。バリバリ仕事して、年上ぶって偉そうにしてる翔子さんも素敵だけど、弱ってる翔子さんもすごく可愛かった」

 出かけのコラテラルな攻撃に、翔子は絶句する。

 ナニソレ。なんの最終兵器よ。

 硬直する翔子に、真木は更に追い打ちをかけてきた。

「俺、東京の彼女からはとっくにフラれてます。翔子さんにカレシさんいるの知ってますけど、横取りするつもりです。だから、覚悟しておいて」
 真木は余裕の表情で言うと、翔子の背中を玄関から押し出した。
「いってらっしゃい」

 いってきます、と返そうとしたが声が出なかった。
 真木が手を離した。扉が閉まる。

 動き出した小さな箱の中で、翔子はへなへなと尻もちをついた。
「びっくりした・・」
 心臓がまだばくばく鳴っている。
 顔が熱い。きっと真っ赤になっている。


 徒歩圏内にある大使館までの道のりを翔子は足早に歩く。
 手に持ったスマートフォンは断続的に震える。爆発事故の対応と情報に関するメールの応酬だ。
 古沢、あと15分で出勤しますと手早くメールを打った。

 木々の緑は深く、平屋の屋根のオレンジ色とのコントラストが眩しい。
 通り一本を挟み、近代的な高層ビルと昔ながらの古い平屋が共存している。
 ジャカルタの南北を貫く目抜き通りのタムリン通りでは、慢性化している交通渋滞で車がゆるゆると動いている。
 深刻な大気汚染と眩しく暑い太陽の光で、空は白くけぶっている。
 舗装が行き届かずブロックが割れた歩道には、揚げ物を売る粗末な屋台がぎっしりと立ち並び、プラスチック製のテーブルで現地の人々が手を使って料理を口に運んでいる。
 どの人も笑顔でおしゃべりに興じている。
 時間は熱い空気と共にゆったりと流れる。


 真木の言葉を反芻し、思わず笑みが漏れた。
 笑いかけられたと勘違いしたのだろう、道端でバスを待つヒジャブ姿の女性が微笑みと挨拶を返してくる。

 今日の夜、君に会ったら、なんて答えよう。
 素直に私も好きだと言うのは簡単だけれど。
 答えずに、もう少しこの甘く背徳的な関係を楽しむのは不誠実だろうか。


 タムリン通りを歩き進めると、灰色の堅牢な建物が見えてくる。翔子の居場所であり、戦場だ。
 翔子はスイッチを切り替えると、足早に大使館に駆け込んだ。
 まずはお仕事。働いて、昨日の失敗を挽回しないと。
 イロコイはその後だ。

 オフィスで事故の情報をまとめたり、関係各所からの問い合わせに対応しているうちに、数時間があっという間に過ぎていく。
「古沢さん。警察から立入許可出たから、これから事故現場に行きましょう」
「はい!」
 経済部長に呼ばれ、翔子はバッグを掴んで立ち上がった。


 経済部専門調査員の野田加奈子は、部員のデスクに新聞切り抜きのコピーを配って回る。
 古沢翔子一等書記官の机にコピーを置いた時、ラップトップの横のメモ帳が目に入った。
 翔子は毎日その日にやるべきことをTo Do Listとして作成している。
 メモ帳には、4/14という日付の下にいくつもの仕事が走り書きしてある。
「真面目なんだから」
 呟いてメモ帳をさっと眺めた翔子は、最後の一行に目を止めて微笑んだ。

 神田に電話して、ケジメをつける。

 経済部の窓のブラインドを開けると、南国特有のぎらつく白い光が差し込んだ。タムリン通りを見下ろすと、ちょうど部長と翔子の乗ったセダンが正門を通るところだ。
 黒塗りの車は、すぐに渋滞する車の列に溶け込んでいく。
「頑張んなさいよー」
 加奈子はエールを送って、ブラインドを閉じた。
「RPGの脇役たちは毎日何をしているのか?」という、恋愛・友情あり、コメディあり、お仕事ありの小説を連載しています。
お気に召しましたら、そちらも是非ご覧ください。

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