アル中の女には、気をつけろ!!
「あなた刑事でしょ?」
すべては、この一言から始まった。
僕は、お客さんの接待を終えて、かなり疲れていたので、ほっと一息つきたくなり、ミナミにある小さなショットバーに立ち寄った。
そこは、飯田という、僕の悪友でもある同級生がやっている店だった。
その日は、金曜日ということもあり、めずらしくカウンターは、ほぼいっぱいになっていたが、飯田がなんとか席を作ってくれて、無事に飲み直しの時を得ることができた。
僕は、ヨレヨレのカーキ色のコートを後ろの壁にかけて、そのこじ開けられたスペースに座った。右隣は、2人連れの不倫っぽい男女が座っていた。何やら特に親密な感じがして、僕に話しかけてくる気配はなかった。左隣は、ワインを飲んでいる、すごく色気のある、1人で来ている年齢不詳の女だった。横顔しか見えなかったが、初めて見る顔だったから、一見さんなのかもしれない。その女は、ただ一点を見詰めて、何か深刻そうな雰囲気がしたので、ちょっと残念だが、こっちもたぶん話しかけてこないだろうと思った。
飯田とは、店が混んでいる時は、あまり話をしない。それが、一種の暗黙の了解のような形になっている。
僕は、カナディアンクラブのオンザロックを頼んで、寡黙にそれをチビリチビリやり始めた。
僕が来ると、飯田がよくかけてくれる曲がある。映画『ゴッドファーザー』のテーマ曲だ。あの切なさは、バーの薄暗い空間を、一段と幻想的な場所へと深めてくれるのだ。
今日も、ボサノバの曲が終了したタイミングをみて、飯田がその曲をかけてくれた。
僕は、思わず心の中で、曲に合わせて♪タラリ タリラリ タラリララ~♪とハミングした。この曲に浸ると、いろんな疲れが一気にどこかに消えていくような気になる。そして、僕は、小さくため息をついた。
その時だった。左隣の女が急に僕の方を見て言った。
「あなた刑事でしょ?」
僕は、ものすごくビックリして彼女を見た。僕の中で『ゴッドファーザー』のテーマ曲が急に止んでしまって、現実に戻された気分になった。
そして、彼女を見て、もっとビックリした。正面に向き直った顔を見ると、程よく離れた目をしていて、不思議なバランスの作りであったが、横顔以上に、とにかく艶っぽかったのだ。横顔や後姿が艶っぽい女が、正面を向いた時にもっと艶っぽいなんて、僕は経験上、あまりお目にかかったことがない。すぐに、僕の弱い心臓は、ドキドキし始めた。
「えっ?ちゃいますよ。」
僕は、ユーモアのかけらも持ち合わせない男なので、普通に驚いて、普通に答えた。
「じゃ、何やってる人なの?」
「ただの商社の営業マンですよ。」
彼女は、今度は何も言わずに、後ろの壁にかかっている僕のヨレヨレのコートをしばらく見ていた。上から下まで入念に。僕は、こんなコートを着てきてしまって、なんだか気恥ずかしくなって、自然に、いろんなポケットに手を突っ込んで名刺を探したが、途中で会社においてきたのを思い出した。
「名刺を渡そうと思ったんやけど、会社においてきてしまったわ。」
すると彼女は、こちらに向き直って、
「もう、いいのよ。わかったから。」と言った。
僕は、彼女が、僕の職業を認知してくれたと安堵して、少し湧いてきた下心の命ずるまま、何か気の利いたことを話そうと頭を回転させた。
すると、彼女の方が先に切り出した。
「商社の営業マンが、あんなヨレヨレのコートを着ているわけがないわ。名刺を忘れたなんて、見え透いた嘘よ。」
と真面目に言ったので、僕は、少しこの女は危険だという直感が働いて、心の中で、頭を出しかけていた下心に、首を引っ込めるように命じた。
その時だった。
「お姉さん。きっと、思ってる通りですよ!」
なんと、飯田の奴が、余計な一撃を彼女に食らわせて、そして、「マスター!」と呼びかけたお客さんの方に行ってしまったのだ。
すると、彼女は、
「まぁ、いいわ、本物の刑事だったら、自分が刑事だなんて言わないものよ。商社の営業マンっていうことにしといてあげるわ。でも、ちょっと残念だわ。私、今夜は、刑事と寝てみたかったのよ。なんとなくそういう気分だったの。」
と言って、また、一点を見詰めるような素振りに戻った。
僕は、思わず、唾を飲み込んだ。そして、この状況をどこに進めていけばよいか、思案した。女に対する危険という信号は、さらに強まったが、「寝てみたかった」という言葉を聴いて、下心の暴れ方も抑えが利かない状況になりつつあったのだ。
しばらく、無言のまま、お互いに煙草を吸って時間が過ぎた。
僕が2本目の煙草に火をつけた時だった。
「私は、『ゴッドファーザー』のアル・パチーノは、好きじゃないの。『スカーフェイス』や『カリートの道』なんかの悪役も好きじゃない。私が好きなのは、『シー・オブ・ラブ』の時のような、刑事役の彼。」
いきなりの話だったから、僕は何を言っていいかわからず、ちょっと間をおいてアル・パチーノについて思い出してみた。僕なりに、だいたい思い出せたところで、彼女に返してみた。
「俺は、アル・パチーノって言ったら、悪役しか思い出せへんけど、刑事役もやってたんや?なんかイメージが湧かへんなぁ。」
「本当の刑事っていうのは、きっとああいう感じなのよ。日本のドラマや映画に出てくる刑事なんて、みんな作りものの刑事よ。あんなに綺麗でかっこいいなんて、絶対にリアルじゃないわ。刑事は、ズルくて、汚くて、かっこ悪いはずよ。だって、そういう世界で商売してる人たちなんだから・・・。だから、悪役が似合う彼がやるとリアルに見えるの。でも、そういう悪みたいな正義や汚い清潔さみたいなものが、セクシーなのよ。」
僕は、「汚くて、かっこ悪い」という言葉が、妙に引っかかった。僕を刑事だと思ったのは、要するに僕が「汚くて、かっこ悪い」ということから判断しただけじゃないかと・・・。
「あなた、奥さんは?」
「昔はおったけど、今は独り。つまりバツイチなんや。」
「へぇ~、やっぱりね。」
僕は、やっぱりというのが気になったが、危険信号が、黄色から赤に変りそうな雰囲気を感じたので、また、沈黙を守ることにことにした。
しかし、静かになればなるほど、彼女との距離が近くになっていく気がした。普通は、沈黙すれば『面白くない人』という風に、女が離れていくのを感じるものだが、今回は妙な感覚がする。
程なく彼女は、
「マスター、彼と同じもの下さい!それから、彼にも、もう一杯!」
と飯田に言ってから、僕の方に向き直って、
「おごって下さる?」
と言った。
僕は、自分で頼んだのだから、てっきりおごってくれるものと思ったのに、拍子抜けみたいな感じになった。
でも、こんな場合こう言うしかなかっただろう。
「ええ、いいですよ。」
「ありがとう、意外に優しいのね。私は、男の人は意外性がある人が、好きなの。」
彼女は、初めて笑った。笑うと、艶っぽさが、さらに増して、僕の下心はついに完全に頭を出してしまった。しかし、同時に危険信号もついに赤に変った。
もう、なるようになれ!それが、その時の僕の心境だった。
そうなると、意外に僕は饒舌になった。
「君は、どこに住んでるの?言葉は、関西弁やないから、もしかして、大阪とちゃうんちゃうの?」
「さすが、勘がいいのね。商社マンには、もったいないわ。はっはっはっ。ええ、東京から来たの。」
「営業も刑事みたいなもんで、勘が大事やからね。そっかぁ、東京から来たんや。旅行?いや~、そんな感じじゃないなぁ。仕事か何かで・・・?」
「うん、旅行じゃないわ。正解。でも、仕事でもない。」
だんだん乗ってきた僕は、当てずっぽうで、適当に被せた。
「旅行でも、仕事でもないっていうことは・・・・?う~ん?人探し?」
その一言は、僕の運命をも左右することになろうとは、その時思うわけもなかった。
彼女は、顔色を変えて、今度は、沈黙を作る側になってしまった。
カナディアンクラブがそれぞれの前に置かれてから、今度は、煙草2本分の少し長い沈黙があった。
僕は、まだ、新しいグラスに口をつけていなかったが、変化が欲しくて、グラスに手を伸ばした。
その瞬間、女は急に言った。
「どうして私が人探ししてるってわかったの?」
彼女があまりに深刻そうに言うから、僕は咄嗟に、
「いやいや、冗談で言っただけやん。」と返した。
すると彼女は、
「出ましょ!」と言って、椅子を引いて立ち上がった。
僕は、思わず、飯田を見たが、奴は、グラスを拭く振りをして、わざと無視をした。なぜわざとだとわかったかというと、奴はグラスを見ながら笑っていたからだ。拭いているグラスを見て笑うバーテンなんて、見たことも聞いたことがないから、わざとに決まっている。
仕方なく、僕も立ち上がって、コートを取って着ようとした。
その時、飯田が白々しく、
「お帰りですか?・・・・ご一緒に?」
と言ってから、
「お姉さんの分は、有田さんにツケとくからいいですよ。じゃ有田さん、今度!」
と、余計なことを付け加えた。
僕は、このやろう!と思ったが、女が先に出て行ったので、飯田を睨みつけながら、店を出て、後を追った。
女に追いついた僕は尋ねた。当然のことだ。
「どこに行く気なん?」
女は、極自然に答えた。長年連れ添ったカップルの自然の会話のように、さらっと流れるように。
「あなたの家よ。でも、その前に私のホテルに寄って!荷物を取りに行くの。堺筋のワシントンホテルよ。でも、その前にコーヒーが飲みたくなったから、喫茶店に行きたいわ。どこかにあるかしら?」
その言葉は、自然過ぎて、しかも重みがあって、僕には抗える隙が全くなかった。訳のわからない展開に混乱しただけだった。しかし、僕の家に来る?とかなんとかは、まぁ、喫茶店で話をつければいいやと思い、仕方なしに、深夜料金で一杯700円の喫茶店へ、彼女を案内した。きっと、1400円は、僕が払うことになるのだろうと意気消沈しながら・・・。僕は、刑事どころか、それくらいのことで、一々クヨクヨするような救われたい側の小市民なのだ。
席に着くと、やる気のなさそうな、50代のおっさんボーイが注文を取りに来た。
僕は、一応、彼女にメニューを見るように差し出した。すると、彼女は、
「メニューはいいわ。お兄さん、ブルーマウンテンあるかしら?」
と言った。
僕は、メニューを見て目が点になった。
深夜料金含めて『1300円』。嗚呼。
僕は当然、ブレンドを頼んだ。
こんな細かいことは、この際、どうでもいい。この物語の枝葉なのだ。それより、この後に起きた、僕の人生に関わる一大事を早く語らなければ、今回で終わらなくなってしまう。
おっさんボーイがさがって行くのを待って(おっさんだからゆっくりだった)、僕が切り出した。
「人探しって、どういう種類の人探しなのかな?例えば、恩ある人に、何かを返したいとか、昔好きやった人に会いたいとか・・・。」
彼女は、ちょっと間を置いて答えた。
「私を手伝ってくれるの?」
「場合によったらやけど、俺にできることならええよ。」
「個人的に頼んでもいいの?」
「意味がよくわからんけど、当然個人的にだよ。公的にじゃない。」
「私、男を追って大阪に来たの。好きだった男よ。私、その人と結婚しようと思っていたの。それなのに、突然、彼は私の前から消えてしまったの。それで、いろいろ調べたら大阪に転勤になったことがわかって、それで、今日飛んで来て、会社を一日探しまくったわ。でも、手がかりも掴めなかった。でもこんなこと警察に頼んでも相手にしてくれないだろうし・・・。」
「会社の名前は?」
「イタチ物産。昔、彼が大阪の本社の地名だって言ってた。でもそんな地名は地図にはないわ。」
「誰かに聞かなかったの?」
「私、人にもの聞くの嫌なの?なんで?」
「大阪人なら、誰でもすぐに答えられたからやん。立売堀って書いてイタチボリって読むんや。」
僕は、テーブルにあった紙フキンにペンで書きながら説明した。
「大阪は、読み方が変な地名多いわね。外国みたいな気がするわ。」
「ほな、インターネットで調べてみよう。きっと、すぐにわかるよ。」
「でも、もういいの。」
「えっ?すぐにわかるって・・・。」
その時、おっさんボーイが、ブルーマウンテンとブレンドを運んできた。ゆっくりとした足取りで。僕らは、自然に話を中断してテーブルに置かれるのを待った。
おっさんボーイがゆっくり去って、彼女が続けた。
「本当にもういいのよ。さっき言ったでしょ。『好きだった男』って過去形で。その彼は、フットボールのコーチをしてたの。いや、最初、私がそう思っていただけなんだけど、実際は、地域の少年サッカーの臨時コーチ。でも、それがわかってもよかったの。その人は、『エニー・ギブン・サンデー』の時のアル・パチーノみたいな人だったから。刑事の次に好きなアル・パチーノの役。これがその彼よ。どう?」
彼女は携帯電話の写真を僕に見せた。
僕は、驚いた。衝撃的な風貌だったのだ。目の下には、写真でもわかる隈があり、もさもさ頭に、シックな服(きっと彼女が用意したものだろう)を天然のラフさで着ていた。確かに、どことなくアル・パチーノっぽいと言えばそうかもしれないが、ちょっと崩しすぎじゃないだろうか?とたぶん誰でも思うはずだ。これじゃ、(アルパチーノ+泉谷しげる)÷2だ。でも、彼女の感じるアル・パチーノは、きっとこんな感じなんだろう。その辺は、自由なのだから、他人の僕には何も言えない。
「個性的やね。」
それが僕がやっと言えた言葉だった。
彼女は、しばらくその写真を見ていたが、何を思ったか、消去ボタンを押して、携帯電話を閉じてしまった。
「私ね、さっきも言ったけど、『シー・オブ・ラブ』のアル・パチーノが一番好きなの。それで、結婚するならそんな人とって決めてたの。だから、さっきの彼は、妥協の産物だった。それで、そういう私の気持ちが彼にも伝わって、彼が離れたんだと思う。彼、いつも、嫉妬してたわ。私が毎日、『エニー・ギブン・サンデー』じゃなくて『シー・オブ・ラブ』のポスターの彼にキスしてたから。」
僕はだんだん疲れてきて、眠くなって黙っていた。いや、実際寝かかっていたかもしれない。
でも、次の瞬間一気に目が冴えるパンチを食らった。
「ねぇ、さっきあなたが、『う~ん?人探し?』って聞いたでしょ。あれ、、『シー・オブ・ラブ』のアル・パチーノが絶対に言いそうな言葉なの。間違いないわ。だから、私と結婚して頂戴!!」
僕は、一瞬、間を置いてから、彼女の言葉が耳に届いて、また間があって、言葉が認知できて、また少し間があってから仰天した。当然のことだ。
「えっ?!」
目を開いたその時、また魔が悪いことに、彼女が少し前かがみになっていて、胸の谷間に目がいってしまったのだ。
結局、一度失敗した人生の一大事の状況判断を、下心が決するような始末になってしまった。
僕は、その夜、彼女を自宅に連れて行き、そして、寝た。
一年後
僕の家には、可愛いベビーがいる。あの夜に授かった子供だ。
僕は、毎夜家に帰ると、その日の捜査について、妻に語らないといけない。
何々電工や何々化成などの、会社名は、何々組と呼び、僕の商談のメインの相手は主犯で、その取り巻きは容疑者であり、商談成立は、口を割らせたとか、大きい物件に至っては、裁判で勝訴したと言う。
会社では、いつももさもさ頭に、ヨレヨレのコートしか着てこない僕を、特に女子社員達は、変人扱いにして、たまに、「課長って、いつも汚いわね」って笑い声まで聴こえる始末だ。
アルパチーノは、それでカッコ良いから良いのであって、僕が大好きな泉谷しげるのような風貌の僕は、社会では、もっときちんした格好をするべきなんだ。
今日は、飲みたくなって、飯田の店に立ち寄った。
金曜日ということもあって、店は混んでいた。いつものように、飯田が席を作ってくれるだろうと思って中にズカズカっと入った。すると飯田が、ニヤッと笑って言った。
「刑事さん、今日はいっぱいなんです。」
店にいたお客さん全員の会話が止まった。そして、一斉に僕の方を見た。