第三章 1.5
壁に映るダーリの記録をミルーナは真剣に見詰めていた。エルファンドもオーパもダーリの三日間を早送りで流れる壁を見詰めていた。
「オーパ、止めて」
背凭れに身体を預けていたマックスウェルが素早く体を起こし声を上げた。
壁の映像は鏡越しのダーリで止まった。
「鏡に映る前まで戻して、通常の早さで再生して」
ミルーナは首を傾げた。
「朝の支度でしょ?」
「オーパ」
マックスウェルは彼女を無視し、オーパを促した。
ミルーナは口を尖らせ、エルファンドを見た。彼は彼女に苦笑いを浮かべ、肩を竦ませる。
「気になる事があったんだよ」
「どう見ても朝の支度でしょ? 髭面のダーリが映ってるだけじゃない」
「たぶん、それだけじゃないはずだよ」
エルファンドはそう言って、通常の速度で再生されたダーリの記録に目を向けた。彼女も仕方がなしにダーリの記録を見始め、マックスウェルが記録再生を止めた訳を理解した。
鏡越しのダーリの口が常に動いている。一見、歌を口遊んでいるように見えるが、鏡越しのダーリの視線は真剣だった。
ミルーナがマックスウェルを見ると、口元に両手を組み、ダーリの記録を真剣に見詰めている。その真剣さに彼女の背中に何か得体の知れない寒気が走り抜けて行った。
ダーリの長い朝の支度が終わると、青褪めたオーパが記録を慌てたように止め、マックスウェルを振り返った。
「マックスウェル様」
マックスウェルが頷くと、オーパは転がるように部屋を出ていく。
その急変ぶりに少し目を見開いていたミルーナは、慌ててマックスウェルを見た。彼は自席を離れオーパが座っていた席に座り、ダーリの記録を再生させた。
「――ミルーナ。ダーリは助からない」
彼女はマックスウェルをしばらく見詰め静かに頷いた。
「――分かってる。ダーリもヒューメルもヤーシャも、他の拉致られた警羅も区民達も生きて帰ってこれない。ダーリに教えられた。ダーリは口にしなかったけど、その覚悟があった」
彼女はダーリの記録を見詰め涙を流した。
「許さない。絶対に許さないんだから」
「ミルーナ。もう警羅の手に負える事件じゃない。警羅には手を引いてもらうよ」
彼女はマックスウェルを睨み付けた。
「何言ってるの! 区民が理由もなく攫らわれているのに、のほほんと指咥えて見てろってっ! 冗談じゃないわ! 区民の安全を生活を守るのがあたしらの仕事なのっ!」
マックスウェルは彼女にゆっくりと笑い掛けた。
「分かってるよ。だが、ミルーナも区民だ。僕達はその区民達を、区を、国を外敵から守るのが仕事」
彼女はマックスウェルの言葉に、微かに感じた緊張を唾と共に飲み込んだ。
「――事態がさらにデカくなったって事?」
マックスウェルは再び彼女に微笑んだ。
「さすが警羅姫。話が早い」
「茶化さないで! 国がやばいって事なの?」
「元々その要素は大いに含んでいたんだけどね。ダーリがもたらした情報はそれ以上だった。今回ばかりは後手後手に回っているみたいだ。下手をしたら魔光界との衝突は免れないかもしれない」
今まで黙って聞いていたエルファンドは驚いたようにマックスウェルを見た。
「まっ、待って下さい! そんな事が起きたらっ!」
マックスウェルは彼に笑い掛けた。
「だから、最悪な筋書きを辿ったらって事だよ。僕の瞳が黒い内はどんな事があろうと、させない、させやしない。魔光界との均衡は永久に守られなければならない。プロトは永遠に理想郷として、この地に有り続けなければならないんだ」
ミルーナはマックスウェルの言葉を聞き、ある特定の緊張と感覚が背筋を走った。今まで付き合ってきた彼の輪郭がその語感で崩れていく。
マックスウェルは彼女を軽く一瞥し、さらに笑い掛ける。
「――って事だから、ダーリの記録を見たら、退室してもらっていいかな?」
彼女はマックスウェルに穴が空きそうなほど凝視した。今の笑みを浮かべる彼にはあの感覚がない。
ミルーナはゆっくりと手を上げた。
「質問」
「なに?」
「マックスウェルさんは高貴な血筋なの?」
エルファンドは彼女を黙って見詰めた。
マックスウェルは彼女の問いに軽く吹き出し、小首を傾げた。
「なんでいきなり?」
「今さっき魔光界との均衡うんちゃらって言ってたマックスウェルさんに、ロウ様と同じ感触を覚えたから」
マックスウェルは顎を撫で、口の端を上げた。
「光栄だねえ、帝王陛下と同じなんて…… でも、ミルーナの勘はハズレ。僕はいたって普通の人間だよ。ミルーナと同じ普通の人間さ」
ミルーナはしばらく彼を見詰めたが、首を振った。
「ウソ。どう考えてもあたしと同じって事はない。エルファンドよりも絶対に高貴だよ。やっぱり同じっていったらロウ様しか考えられない」
「そう? じゃあ、誰か高貴な人のご落胤かもしれないね」
マックスウェルはそう彼女に笑い掛けた。ミルーナは小首を傾げ、彼を見る。
「ホントに高貴な出じゃないの?」
「僕はミルーナと同じ人間だよ」
そうマックスウェルに言われても彼女は納得出来なかった。
「はいそうですかって、頷けないんだよねえ…… 策士でもあるマックスウェルさんの言葉、そのまま鵜呑みに出来ないんだよねえ、特にこういう時は……」
ミルーナはしばらく彼とエルファンドを交互に見ていたが、肩を竦ませた。
「――まあ、いいわ。今の情況からしてあんまり関係ない事だし。で、警羅が手を引かなきゃなんないのは、確実なのね?」
マックスウェルは頷いた。
「国内問題から国際問題に質が変わったからね。敵は取りあえず魔光界に精通、いや魔光界の人間だって事が分かったから」
ミルーナは彼の言葉に大きく頷いた。
「分かった。この後のダーリの行動はあたし知ってるからいい。パールモラで知り合った女性と一日一緒に過ごしてるから。例え仕事だとしても、そんなダーリは見たくない」
ミルーナはそう言って立上がり、マックスウェルを再び見た。
「マックスウェルさん。もう一度聞いていい?」
「何を?」
「国内事件から国際事件になったんだよね?」
マックスウェルは彼女に頷いた。
「そうだよ」
「分かったわ、ありがとう」
ミルーナは彼らに満面の笑みを浮かべ、部屋を出て行った。
扉が締まった途端、部屋に残った二人の眉間に皺が寄った。
「ミルーナの奴、何考えてるんだ」
エルファンドは額に指を当て、首を振った。
マックスウェルは軽く肩を竦ませた。
「どう考えても手を引く素振りじゃなかったね。まあ、ミルーナの事は取りあえずいい」
エルファンドは真剣な眼差しで、マックスウェルを見詰めた。
「ダーリが言っていた事は本当なんですか?」
マックスウェルは自席に戻り、溜め息と共に背凭れに寄り掛かった。
「間違いないよ。確かに今は動きがないとはいえ、魔光界の内戦が解決したわけじゃない。そもそもその内戦も七年前の流行病が発端でもある。その一端がプロトに飛び火してるとはね…… もしくは内戦自体、それを狙っていた作戦の内かもしれないが」
エルファンドは顎を撫でた。
「という事は、プロトと魔光界の双方を潰そうとしていると、考えられますね」
「潰すのではなく、プロトを手に入れたいんだよ。プロトを手に入れ、新魔光界帝王を立てるのが敵さんの狙いだろうね」
エルファンドは肩を竦ませた。
「マックスウェル様はずいぶんと悠長に構えてますね」
マックスウェルの視線がいきなり鋭くなり、エルファンドを射抜いた。彼はその視線だけで、背筋が凍る。
「――申し訳ありません、軽口を叩き過ぎました」
マックスウェルはいつものように笑みを浮かべた。
「分かってくれたならいいよ。エルファンド、これからお前は魔光界とプロトを行き来してもらう。私の使者としてね」
彼はマックスウェルの突然の命令に目を丸くした。
「いきなりですか」
「なに、魔光界帝王にこちら側の報告と、向こうさんの詳しい状況を他の頭や帝王陛下に伝えて欲しいんだよ」
彼はマックスウェルの笑顔をしばらく見詰め、顎を撫でた。
「えーっと…… そうですねえ…… 私一人では心許無いので、ハルシとダニエの同行許可、願えませんか?」
マックスウェルはゆっくりと口の端を上げた。
「話が早くて助かるよ。あと、何人かは他の頭達と決めてくれていいよ」
「分かりました。では、さっそくジルナ様達と話を詰めてきます」
エルファンドはマックスウェルに一礼をし、部屋から出ていった。
マックスウェルは扉が完全に閉まるまで眉一つ動かさず、顔に笑みが張り付いていた。
小さな音が静かな部屋に響く。その途端、彼は深く眉間に皺を刻み溜め息混じりに背凭れに寄り掛かった。
「ジンシャル」
「お側に」
マックスウェルの背後に、いつの間にか白髪の策士長ジンシャル・ネルバーグが頭を垂れて立っていた。
「最悪な事態は絶対に免れなければならない。お前はこれからエルファンドと共に動いてくれ」
「あの方も必要とされているのですね」
マックスウェルは肘掛けに肘を付き、眉間に皺を寄せたまま蟀谷に人差し指を当てた。
「――必要かどうかは分からない。だが、あの魂は惜しいと思うよ? 固めるに損はない逸材だろう」
「確かに。して、マックスウェル様は如何なさいます?」
マックスウェルは壁を見詰め、ゆっくりと口を上げた。
「そうだねえ…… 不穏分子がどこまで潜り込んでいるのか分からないからね。それと不安分子もまだまだ居てね、その動向次第かな」
ジンシャルはすでに前へと思考し始めた彼の薄茶色の髪に微笑んだ。
「左様でしたか。くれぐれも過ぎないようにしてください」
「分かってるって。無茶はしないよ」
マックスウェルはそう言って手を上げた。ジンシャルはその手を一瞥し、床に沈むように消えていった。
マックスウェルは書机に両肘を乗せ、口の前で指を軽く組んだ。そのまま壁を見詰める。
短かった日陰が部屋の角まで伸びるほど、マックスウェルはその体制のまま時間を費やしてた。茜色に染まった部屋で人形のように動かなかった彼の指越しに見える口元が、ゆっくりと動く。その刹那、徐に立上がり部屋を出て廊下を歩きながら手を軽く叩いた。
「オーパ」
「はい」
背後に現れたオーパをマックスウェルは振り返りもせずに歩みを進める。
「分析は?」
「あらかた終わっています」
「研究室で話を聞こう」
マックスウェルは軽くオーパを振り返り、笑みを浮かべた。
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小説『グロッサム』後書き
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