第三章 1.3
研究所を後にしたダーリは、そのまま、繁華街に足を向けた。
ヒューメルの記録は、ダーリが見た限り思っていたほど収穫がなかった。それよりも、ヒューメルの日常を垣間見てしまった歯痒さと後ろめたさが頭に付いて離れなかった。さすがに女性との逢瀬場面は、オーパと二人で顔を赤くした。だが、マックスウェルはそんな場面でも、眉一つ動かさず黙ってヒューメルの記憶が映る壁を見詰めていた。
そのヒューメルの相手が仕事場で良く顔を合わす女性警羅だったのも、さらにダーリの顔を熱くした。ダーリの脳裏にその場面が過ぎり、頭を掻く。
「――どんな顔して会えばいいんだ。ったく、ヒューメルの奴、明日会ったら……」
そう言い掛けて、口をヘの字に曲げる。ヒューメルはもういない。ダーリの頭が自然と沈み、足が止まる。
自分に何が出来るのか。いったい何をすればいいのか。
夜の帳が下りている通りを見詰め、ダーリは足を進めた。
警羅の中で自分とミルーナしか、本当のあらましを知っている者はいない。ヒューメルの事は自分しか知らない。ミルーナは規則で夜半の捜査は出来ない。だったら自分しか動ける者がいない。
ダーリは繁華街に向かいながら、ヒューメルの記録を再び思い返した。
いたって普通の独身警邏の日常に過ぎなかった。ただ、警邏王と呼ばれるだけの事はあり、仕事はかなり精力的にこなしていたのは、ダーリにも分かった。ヒューメルは行方不明者の足取りを執拗に溯っていたようだった。
ダーリはヒューメルが顔を出していた酒場の入口に立つ。ふと、脳裏にミルーナの言葉が浮かんできた。
『今回の山は普通の山とは違うんだよ。お願いだから、自分の保身も考えて』
「って言われてもね。俺もミルーナと同じ警邏なんだよ」
ダーリはそう呟き、舞戸に手を掛け店に入っていく。
ダーリはカウンター席に着き、適当に酒と摘みを頼む。ここはヒューメルの記憶の内、最後の三日間毎晩通っていた店だ。一日目の店側の対応からして、常連ではない事が伺えた。
カウンター内にいるバーテンダーもヒューメルの記憶にあった。
バーテンダーはダーリの左人差し指を見て、肩を竦ませる。
「あれ。兄さんも健康促進研究の実験台?」
「まあね」
「お上は何考えてるんだろうね。こんな治安が不安定なのに、健康促進もないだろうに」
バーテンダーは肩を竦ませ、治安の悪さを口にする。
ダーリは苦笑いを浮べ、頷いた。
「回復する努力はしてるんだけどね」
バーテンダーはダーリの言葉に首を傾げた。
「あれ、兄さん、戦士か警邏?」
「うだつの上がらない警邏」
バーテンダーはダーリに肩を竦ませた。
「それを言うなら、俺だって、うだつの上がらないバーテンダーさ。そういや、昨日来てた警邏王とは全然雰囲気が違うよね」
ダーリはヒューメルの顔を思い出し、肩を竦ませた。
「何をとっても優秀さ、あいつは」
「確かに顔も良かったもんなあ」
バーテンダーは顎を撫でながら、ヒューメルを思い出していた。
ダーリは木のカップの縁を見詰め、もう会う事が叶わないヒューメルの笑顔を思い出す。
「――お兄さんも綺麗な指輪してるのね」
ダーリは隣りを見て、少し目を丸くした。いつの間にか、女性が隣りに立っていたのだ。
「あれ、いらっしゃい、イーナ」
バーテンダーはその女性に微笑み、カップを出した。
ダーリはそのイーナと呼ばれた女性の言葉に引っ掛かった。
「君はこの指輪を見た事あるの?」
イーナは片目を瞑り、ダーリに微笑んだ。
「そんな綺麗な指輪、忘れないわよ。昨日来てたヒューメルさんも同じのをしてたしね。ヒューメルさんに見せて貰ったわ。私はイーナ。一緒に飲んでいい?」
イーナはそう言ってダーリの腕に軽く腕を絡ませた。ダーリの二の腕に柔らかい感触が広がる。
ダーリは明らかに色目を使うイーナに苦笑いを浮かべた。
「ごめんね、イーナさん。俺、妻子持ちなんだ」
イーナはダーリに笑い掛ける。
「そういう落ち着いた大人の男って新鮮だわ。ヒューメルさんもいい男だったけど、貴方も好み」
ダーリはイーナに笑い掛けたまま、固まった。頭にヒューメルの記憶が蘇ってくる。
「どうしたの?」
ダーリは首を傾げるイーナの顔を見詰めた。このイーナは、ヒューメルの記憶にはなかった。いくら時間外とはいえ、うだつの上がらない警羅とはいえ、職務感覚が身体中に染み付いた自分が、隣りにきた人間の気配に気が付かない訳がない。現に出入口の舞戸が開く度に、頭の隅でその人物を確認している。
ダーリは唾を飲み込み、イーナに笑い掛けた。
「は、初めて言われたよ。お世辞でも嬉しいもんだね」
「お世辞じゃないわよ、ホントの事だもの。その指輪って、あれなんでしょ? 健康促進研究の参考人の証なんでしょ? どんな事聞かれたりするの?」
「別に普段の生活習慣やその日の食事内容とかだよ」
ダーリはそう言って、カップを口にした。
「ふうん。私ね、ちょこっと術を囓った事あるんだけど、その指輪、術が掛かってるね」
ダーリは指輪を見て、苦笑いを浮かべた。
「報告日を忘れないように、時限報時の術が掛かっているんだよ。その日時になると石が光るようになってるの」
イーナは興味深そうに、ダーリの人差し指を見詰めた。
「へえ。それって研究所が配付したんでしょ? 健康研究所っていうのかな?」
ダーリはイーナを見詰めた。区民なら研究所がどんな所か良く知っている。研究所といえば『帝国立幻魔術総合研究所』しか、ない。
ダーリはイーナに笑い掛けた。
「イーナさんって、直轄区に来てまだ日が浅いでしょ?」
イーナの片眉が一瞬だけ上がったが、ダーリにまた笑みを浮かべた。
「すっごーい! なんで分かるの?」
「研究所といえば、直轄区には一つしかないからね。俺だって分かるさ」
バーテンダーがイーナに笑い掛けた。
「そうなの? どんな研究所なの?」
イーナはバーテンダーとダーリを交互に見た。
ダーリは唾を飲み込み、イーナを見詰める。
「イーナさんは術を囓った事あるんだよね?」
「そうよ」
「研究所と呼ばれる機関は、帝国立幻魔術総合研究所しか、直轄区にはないんだよ」
ダーリがそう口にすると、イーナの笑顔が少しだけ強張った。
「え……」
「帝国立幻魔術総合研究所。この国の最高機関の一つ」
イーナはダーリの顔をしばらく見詰めていた。ダーリはイーナから視線を外し、バーテンダーに笑い掛ける。
「いくら?」
「中小銀二、六」
ダーリはバーテンダーに中銀貨を三枚カウンターに置いた。
「釣りはいい。美味しかったよ」
「毎度。また、いらして下さいね」
ダーリはバーテンダーの顔を見詰め、ゆっくりと頷いた。
「事件が解決したら、また、飲みにくるよ」
ダーリはイーナを見詰めた。
「イーナさん」
「ちょっとしか話せなかったけど楽しかった」
イーナはダーリに微笑んだ。ダーリはイーナをしばらく見詰め、左手を差し出した。
「――俺はダーリ。また、会ったら声掛けてよ」
イーナはダーリに満面の笑みを浮べ、ダーリの左手を包み込むように握り返した。
「嬉しい。ダーリさん、またね」
イーナがゆっくりとダーリの左手を離すと、ダーリはいきなり踵を返し、舞戸を出た。
ダーリはしばらくゆっくり歩いていたが、路地を曲がった瞬間、走り出した。
頭の中にミルーナの言葉が繰り返されていた。
『今回の山は普通の山とは違うんだよ』
『なんかとてつもなく大きい流れが、動いている気がするの』
ダーリはミルーナの家の近くまで来ていた。だが、その足が止まる。
まだ、自分が時限術に掛かった確証はない。
イーナという記録に残らない女が、ヒューメルに接触していた。なぜ、記録に残らないのか。それはミルーナに話しても答は帰ってこない。
ダーリは研究所がある方角を振り返った。研究所なら、マックスウェルやオーパなら、自分の疑問に答が出せるだろう。だが、もし、自分が時限術に掛かっていたとしたら、相手にバレるかもしれない。いつ連れ去られるか分からない。
ダーリの頭にバーテンダーの言葉が過ぎる。ダーリの口に自虐的な笑みが浮かんだ。
「実験台か…… だったら全うするまでだな」
ダーリはミルーナの家を振り返った。
「ミルーナ。俺も根っから警邏なんだな」
ダーリは辻篝に照らされた通りを再び走り出した。
ミルーナは驚いたように振り返り、幼子ハルマを抱いたエルマを見た。エルマの表情は家に向かい入れた時からさらに強張っていた。
「は? ダーリも今日は休みでしょ?」
ミルーナの言葉に、エルマの強張っていた表情が崩れ、今にも声を張り上げて泣きそうな顔になった。
ミルーナは慌ててエルマの隣りに座り、ハルマごと抱き締めた。
「どうしたの、エルマ。ダーリと喧嘩したの?」
エルマは首を振った。
「ダーリ、別れようって」
「は? あのバカ一体何考えてんのよ!」
ミルーナは思いっきり目尻を吊り上げた。エルマは胸元で寝ているハルマの頭を撫でる。
「――ダーリ、好きな人でも出来たのかな」
「何言ってんの! ダーリはずっとエルマの事好きだったのよ! 昨日だってあんたとハルマちゃんの惚気話聞かされたんだから!」
エルマは憤慨しているミルーナを見詰めた。
「ミルーナ…… 今追ってる山ってそんなに重大事件なの?」
ミルーナはエルマを思わず見詰めてしまった。幼い頃からずっと寄り添うように歩んできた二人だ。
再三、話を聞いてきた。自分がまるでもう一人の幼馴染みのように、二人の過去の様々な情景が浮かぶほどにだ。そんなエルマは自分以上にダーリの性格を知っている。
ミルーナはエルマに頷いた。
「詳しい事は話せない。でも、重大事件な事は変わらないわ。何者かが城下の男だけを狙って、拉致してるのよ。目的も攫う方法も分からない。ただ、いきなり目の前で消えてくの」
ミルーナは先日偶然にも拉致現場を目標していた。
同僚が目の前で消えていく。どんなに解除術を唱えても解錠術を掛けても、同僚を囲った術壁は破れる事はなかった。ダーリが言っていた壁が出来る直前に現れる乞食もいつの間にか消えていた。
エルマは胸元で寝ているハルマの頭を撫でた。
「噂では耳にしてたけど…… ダーリ、危ない橋渡ってないよね?」
「何言ってるの。あたしと組んでるんだよ? ダーリに危ない橋なんて渡らせないわよ。あ」
ミルーナはエルマの顔を見て思い出した。エルマの顔が途端色悪くなる。
「なにか思い当たるの?」
「別れるとかの理由には全くならないけど、一昨日、深夜外勤務が出来ないって愚痴ってね。ダーリ、一人で動いてるんじゃないかって、思ったの」
エルマはミルーナに苦笑いを浮かべた。
「一昨日も昨日も朝帰りだったよ」
「やっぱり。とにかく、ダーリに問い質してみるよ。もし、浮気とかだったら、殴ってやる」
エルマは不安げにミルーナを見詰めた。
「ホントにダーリは危ない橋、渡ってないよね?」
ミルーナは満面の笑みで自信満々に大きく頷いた。
「大丈夫、渡ってないし、渡らせない。あたしを信じなさい」
エルマはミルーナの笑顔にやっと顔に色が戻ってきた。
「うん。ミルーナがそういうなら信じるよ」
ミルーナはエルマの頭を撫でた。
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小説『グロッサム』後書き
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