第二章 1.1
最頭部からの萌葱色の三つ編みを揺らし、路地を走り抜け表通りに飛び出すミルーナの姿があった。だが、その顔は険しい表情をし、目は獲物を狙う雌豹のように鋭く光っている。
「あたしらから逃げられると思うなよ!」
その声に振り返った男に四方から錘の付いた荒縄が巻き付き、男は地面に倒れ込んだ。
それでも逃げようと、必死にもがいている男に、物陰から四人の警邏が走りより、荒縄で男を縛り上げる。
「スリの現行犯で逮捕する!」
男は四人を見渡し、今にも泣き出しそうな情けない表情をした。
「頼む。出来心だったんだ。見逃してくれよ」
「無理だな。出来心で常習になるヤツがいるか」
警邏の一人が荒縄を引っ張り、無理やり立ち上がらせた。
「頼むよ! 今回だけは見逃してくれよ! 生活が苦しいんだよ!」
「生活が苦しいのはあんただけじゃない! それにあんたが苦しいのは、酒と博打で散財するからでしょ! 裏は取れてんだからね!」
男はミルーナを見て、ギョッとした。
「ミルーナ……」
ミルーナは男を睨み付けた。
「あんたと同郷だってだけで反吐が出る! 塀の中でアナンナに謝るんだね!」
男は呆然とミルーナを見詰め、肩を落とした。
男は二人の警邏に引っ張られ、近場の警邏詰所に向かって歩き出した。
ミルーナはその背中を睨み付けていた。
「いつまでも眉間に皺を寄せてんと、警邏姫の名が泣くぜ」
ミルーナはその言葉に振り返り、肩を竦ませた。
「ヤーシャ。だから、その冠有り難くないんだけど」
残った二人はミルーナを挟み、ゆっくりと歩き出した。
「しかし、いつもながら上手く追い詰めるよな」
「そう? 勝手に犯人がそこに逃げ込んで行くだけよ」
ミルーナは右側を歩く同僚のヤーシャの言葉に肩を竦ませた。
「ところでエルマの産後の肥立ちはどうなの?」
ミルーナの左側を歩き、同僚のエルマと結婚をしたダーリが、その言葉を聞いた途端、表情が崩れた。
「母子ともに至って健康さ」
「ハルマちゃんだっけ? ダーリのとこのお姫ちゃまは」
ヤーシャが、ますますダーリの顔を破顔させる事を言う。案の定、ダーリの顔はますます崩れた。
「初め見た時は猿かと思ったけど、最近、めっちゃ可愛くてねえ」
「親バカな顔してる」
ミルーナが口の端を上げる。
「うっせい。俺とエルマの子だ、可愛いくないはずないだろ! ハルマは世界一可愛い!」
「親バカじゃなくて、バカな親だ」
「お前も産んでみりゃ分かるさ。エルマなんて、毎日可愛いって言ってるぜ」
ダーリの言葉にミルーナは苦笑いを浮かべた。
「さいで。あたしの場合はまず相手探さないとね」
ヤーシャがミルーナの肩に手を置き、ミルーナに微笑んだ。
「なんなら、俺なんてどう? 今すぐにでも結婚するよ?」
ミルーナはその腕をすり抜け、二人の前に踊り出る。
「あたしは剣を振る人じゃなく飾る人がいいの。あたし直帰するよ。あとはよろしくね」
ミルーナはそう微笑み、路地を折れ曲がって行った。
ダーリは隣りに立つヤーシャを見詰め、肩を竦ませた。
「――本気だったんだ」
「振る人より飾る人ね。今、一緒に暮らしてる奴の事好きなのかな」
「あの熊みたいな奴か?」
ダーリは驚いたようにヤーシャを見た。
「その熊みたいな奴、装飾鍛冶なんだよなあ。聞いた話じゃ国内で五本の指に入る装飾鍛冶だとか。あの小山が細かい装飾作るんだぜ、考えられるか?」
「まあ、普通は考えられないよな」
ダーリは通りを見渡し、ふと、視線を止めた。少し前を歩く男の後ろ姿が目についたのだ。
道行く人々はそのボロ切れを纏ったような男を、自然とよけて歩いている。
「乞食か?」
ヤーシャの言葉に、ダーリは判断に困った。
「確かにボロを来ているが、乞食とはちょっと違うような気がする。それにあんな奴前歩いてたか?」
ヤーシャは首を傾げた。
「んー…… 歩いていた気がするようなないような」
ヤーシャが一瞬顔を顰め、鼻を擦った。
「んだよ。なんでこんなトコに防御壁があるんだよ」
ダーリは首を傾げ、ヤーシャを見た。
「は? 防御壁? そんなものないぞ」
「ほら、俺の目の前にあるじゃないか」
ヤーシャはそう言って、掌を不可視な壁に当てた。ヤーシャの掌は確かに、何かに触れているように、圧力が軽く掛かっていた。
「解除すればいいだろ?」
「俺が掛けた訳じゃないし」
ヤーシャが真横に動こうとすると、腕が不可視な壁に当たった。
「な」
ダーリは慌てて、ヤーシャの周りを叩いた。ヤーシャは透明な壁に囲われていた。
「ダーリ、なんだこれ!」
「ヤーシャ、解除術唱えろ!」
ダーリとヤーシャは知っている限りの解除術、術を無効する文言を唱え始めたが、一向に透明な壁が消え去る事はなかった。
ダーリはヤーシャの足下を見て、顔が青くなった。
ヤーシャもダーリの視線で足を見て、透明な壁を叩き出す。ヤーシャの足首から下が消えてなくなっていた。
「だっ、出してくれ! なんだよ! 俺が何したんだよ!」
ダーリは周囲に声を張り上げた。
「誰か! 術士はいないか! この術を解いてくれ!」
数人の男が走り寄ってきた。
「どうしました!」
ダーリはその男達の姿を見て、胸を撫で下ろした。男の額と腕には、帝国立幻魔術総合研究所の正研究員の証が輝いている。術士と同じ術のエキスパートだ。
「頼む! ヤーシャを助けてくれ! いきなり変な壁に囲まれて」
研究員達はヤーシャを見て、顔が青ざめた。
ヤーシャの太股から下がすでに消えている。
研究員はダーリの腕を引き、ヤーシャから遠ざけた。
「退いていて下さい」
男達は相次いで、様々な印を結び始めた。術が波動する度に、男達の髪が靡くが、壁に青白く波紋が広がるだけだった。
ヤーシャは喚きながら、壁を必死に叩いている。すでに胸から下は消え、拳は赤く腫れ上がっていた。
「頼む! 助けてくれ!」
「ヤーシャ!」
研究員達は額に汗を掻きながら、必死に文言や印、方陣を壁にぶつけるが、全て、壁に吸収されてしまう。
「ダーリ、たす」
ヤーシャの声が途絶えた。ヤーシャは血塗れの両手で頭を抱え後ろに逸し、眉間に深い皺を寄せた。最後の絶叫すらすでにダーリには聞こえなくなっていた。
ダーリは腕だけがまだ残っている壁内を見詰め、その場に力なく崩れた。
「もう…… いいです」
ヤーシャの指先が消えた瞬間、ダーリの口から研究員を止める言葉が零れる。青白く輝く粒子と共に、壁が消えて行くのが分かった。
騒然とし始めた周囲を余所に、ダーリはヤーシャが消えた場所をいつまでも見詰めていた。
騒ぎを聞き付けた同僚達がダーリを支え、立ち上がらせる。
「ダーリ、何があったんだ?」
「ヤーシャが消えちまった」
「は?」
「ヤーシャが目の前で消えちまったんだよ! 俺にも何がなんだか、分かんねえんだよ! でも、ヤーシャは消えちまった!」
同僚達は顔を見合わせ、大粒の涙を零し泣き出したダーリを、歩かせた。
ダーリは詰所の休憩室に腰を降ろし、頭を抱え込んだ。
同僚達から事情聴取をされたが、ダーリにさえ、全く理解出来なかった。見たままを話してはみたが、同僚も首を捻るばかりだった。
「ダーリ」
そう呼ばれ、ダーリが顔を上げると、緊急召集で呼び出されたミルーナが立っていた。
ミルーナはダーリの隣りに座り、休憩室を黙って見詰める。
「――ヤーシャ、俺に助けを求めてたのに、何にも出来なかった。ただ、消えていくのを指咥えて見てる事しか出来なかった」
「研究員でも歯が立たなかったんでしょ?」
「全く効かないんだよ」
ミルーナは肩を竦ませた。
「効かないと思うよ」
ダーリはミルーナを驚いたように見た。
「なんでだよ! あいつらはエリート中のエリートなんだぜ!」
「だって、防御壁だったんでしょ?」
ダーリはミルーナの顔を見詰めた。あんまり術が使えない自分でさえも、防御壁だと感じていた。術壁といえば、防御壁しか思い浮かばなかった。
「あたしが見た事ある防御壁ってさ、三通りあるのね。攻撃術をただ跳ね返す壁と、攻撃術をそのまま相手にし返す壁と、術を相殺しちゃう壁。ダーリが見た壁はどれ?」
「たぶん、最後のヤツ。俺らや研究員達が掛けた術はみんな青白い波紋になってた」
ミルーナは確証したように大きく頷いた。
「やっぱりね。相殺しちゃう壁なら、どんなに術を唱えても効かないよね」
「もし、それなら掛けたら一生解けないじゃないか」
ミルーナはダーリに笑い掛けた。
「掛けた本人以外はね。マックスウェルさんに聞いた事あるんだけど、相殺系術は必ず錠が仕込まれるんだって。だから、鍵を持っている人間か錠破りが出来た人間しか、解けないらしいよ」
「なんだ、その術」
ミルーナは肩を竦ませた。
「だってそう言ってたんだもん、マックスウェルさんが」
ダーリは顎を撫でた。
「もし、その術を他人に掛けたら拘束術にもなるって事か」
「そうだね。ヤーシャはそれを掛けられた。で。研究員から聞いたんだけど、やっぱり錠破りの術をいろいろと掛けたらしいんだけど、時間がなかったって言ってたよ。ヤーシャが消えてしまうまでに解かなきゃいけなかったからね」
ダーリは唇をかみ締めた。
ミルーナはダーリを一瞥して、休憩室を再び見詰めた。
「これに関して今あたしらに出来る事は何にもない。研究所の解析結果が出ない限りね。ヤーシャがどこに連れ去られたのか、どんな術系統だったのか。研究所と合同捜査だって」
ダーリはミルーナを見た。
「合同捜査?」
「ヤーシャの他にも分かっているだけで、五人、警邏が連れ去られた」
「なんで警邏だけ?」
ミルーナは肩を竦ませた。
「さあ。その辺は犯人じゃないから、良く分からないけどね」
ミルーナはダーリの顔を見て、立ち上がった。
「ミルーナ。なんでそんな情報を」
「ん? 緊急召集で呼び出された後、マックスウェルさんに会ってきたの。誰も知らない情報よ。どうする? あたしと組む?」
ダーリはミルーナの誘いが嬉しかった。ヤーシャ消失に指を咥えて見ているしか出来なかった自分に、警邏なりの救いの手を差し出してきたのだ。
「――やっぱり十年間連続警邏姫は伊達じゃないね」
「だから、その冠嫌だっていってるじゃない。いつまでもボケッとしてないの。行くよ!」
ダーリは両頬を叩き、立ち上がった。
「警邏姫直伝の仕事っぷりを盗んで、来年の警邏王は頂くぜ」
ミルーナはダーリに頷き、笑い掛けた。
「盗めるもんなら盗んでみな」
「おう! で。どこ行くんだ?」
ダーリは扉を開け、ミルーナを通した。
ミルーナはダーリの肩を叩き、颯爽と歩き出す。
「まずはマックスウェルさんのトコよ! 今なら研究所用の意識体がじゃなく、本体が研究所にいるはずだから」
ダーリはその言葉に目を見開いたが、そんな小さな疑問は吹き飛ばし、ミルーナの後を追いかけた。
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小説『グロッサム』後書き
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