夢幻劇
夢を、みた。
「アカリ! 漫画ばかり読んでないで、ちょっとは勉強しなさい!」
読むともなく見つめていた漫画から、顔を上げる。怒られるのは嫌い。
「もうやった」
言い訳のように言えば、見せてごらん、と返ってきた。
もちろん何もやってないから、今日の授業中に終らせた算数の練習帳を手渡す。まだ丸付けをしてないページを開いて。
一通り眺めて満足したらしいお母さんが、改めて口を開いた。
「塾の予習は?」
「いま息抜き中」
「あんたはいつもそれじゃないね。」
呆れたような吐息とともに、いつも通りの言葉が続く。
「いい? アカリ。勉強は、やったらやるだけあんたの力になるんじゃけんね。お金やら物はなくなっても、努力して身につけた資格やら知識やらはなくならん」
「はぁい」
返事だけはお行儀よくノートを閉じながら、耳にタコが出来るほど繰り返された言葉を聞き流す。
お母さんは、いつも正論を言う。言ってることは、分かるのだけれど。その通りにできた試しがない。
晩ご飯を食べ終えて、並べて敷かれた布団に潜りこむ。お母さんのそばを妹が独り占めしてて、なんとなく泣きたくなった。
もうすぐ中学生になるのに、みっともない。笑おうとして、笑えずに。ごまかすように、目を閉じる。おひさまのかおりがする布団に、ほっと息をついた。
真っ暗な、空間。
ここはどこ、と自問して。
魔王の城だ、と気づいた。
幾重に連なる魔族の彼方に、魔王の姿。
その正面で催される、暇つぶしの座興。
……つまらぬ
声とともに、演者が消えた。
これも、また。
いつものこと。
……たぞ、おらぬか
魔王の声に、空気が凍る。
退屈を嫌う魔族にとって、快楽は何より重く。
快楽に慣れた身にとって、消滅は何より忌まわしい。
静まりかえった闇に、クク、と魔王が嘲った。
……褒美を、一つ。くれてやろうと言うに。
尊大な物言いに、ざわめきがまきおこる。
欲望と保身の秤が、そこかしこに透けた。
「アカリ、アンタは行かないのか?」
振り返れば、鈍くひかる角をもつ黒犬。見知った顔に、顔をしかめた。
話しかけられるのは、苦手だ。
「誰が。めんどくさい。オマエこそ」
「まだ、消えるつもりもないんでな」
「そ」
『僭越ながら申し上げます』
凛、と響いた声に目をやる。
煽情的なドレスを身に纏った、人型魔族。
紅い唇が、誘うように揺れた。
シャラシャラン
滑らかに動く白い手首で、灰色の腕輪が金属音を立てた。
艶やかに舞う黒髪と、流れる紅い視線。
チラチラと、舌のようにうごめくドレスが、視線を惹き付ける。
あちこちで巻き上がる、感嘆。
シャララン
闇に響く澄んだ音色が、終幕を知らしめた。
……見事
耳が痛くなりそうなほどの静寂を、破ったのは魔王だった。
どよめきが、城に満ちる。
魔王が褒めるなぞ、滅多にあることではない。
「申し上げまする」
しゃしゃり出た声の主は、魔王の右腕とも目される、古参魔族。
顔に刻まれた皺が、妙にいらただしい。
「あぁ、あの舞姫は奴が育てたんだと」
興味なさげな口調で、黒犬が言った。いつもながら、どこから情報を仕入れるのか。
考える間にも、老いた声は朗朗と。
「ここに集う魔族を、三日の間、人としてみては如何でございましょう」
相も変わらず、余計なことを言う。
吐き捨てるように思った。
「気に食わないようだな、アカリ」
黒犬が、分かったようなことを呟くのを無視して、魔王の言葉を待つ。
気に食うハズがないだろう。
戯言にも、程がある。
よりによって、人間にしろ、などと。
一体何を考えているのか。
……よい座興だ
どこか面白味を帯びた声で、魔王が言う。
その右腕から、黒いヒカリが放たれるのを、見た。
「アカリ、三日後に」
黒犬の声が、遠く響き。
全てが、闇の中に沈んでいくのを感じた。
チュンチュチュン
小鳥の、鳴き声が響く。
いつもより、だいぶ早く起きたらしい、と。そんな風に思った。
いつも、より。
お笑いぐさだ。
いつもなんて。
いつも、なんて。
そんなもの。
そんな、もの。
どこにもないっていうのに。
『三日間だけ、人間として』
昨夜の夢を思い返して、少し笑った。
……夢?
違う。
アレこそが、現実だ。
「ん…アカリ?」
布団の端から、名を呼ばれた。
母親
三日間だけの、お母さん。
やってられなくなって、布団から飛び出した。
田舎の家を背後に、夜明け前の道をゆく。
『途中で、止めたくなったら』
思い出したのは、まぎわにつけられた条件。
闇の森の涯に行けば、三日待たずとも魔族に戻れる。
里山の一角。
七竃の蔭を抜ける。
一瞬の、静寂。
闇の、閃光。
閉じた眼を、開けてみれば。
鬱蒼と生い茂る樹々の中。
立ち尽くす私の前に、煉瓦造りの小屋が在って。
迷いもなく、扉を叩いた。
「本当に、いいのかい?」
これを注射したら、アンタは魔族に戻っちまうんだよ?
もう何度目になるのかよく分からない言葉を、白衣を着た魔族が言う。左手に持った小型の注射器の先から、空気を抜いているのか緑色の液が少しこぼれた。化粧で飾られた顔が、しかめられてだいなしだ。
「あと二日だろう? 精々、楽しみゃいいじゃないか。こんな機会、そうそう無いってのに」
魔族は、人とは異なった次元に住んでいる。だから、こんな機会でもなきゃ、人の目に写ることさえ難しい。分かりきったことを言われて、何だかイライラする。
「いいから。とっととやってよ」
殺気を込めたハズのぶっきらぼうな言葉は、ダダ捏ねてるガキのように響いた。
ったく。
いくつサバよませやがった。
「いいんだね?」
呆れたように、ヒンヤリとした脱脂綿で左腕を擦られて。
近づく注射器を、瞬きもせずに見つめた。
肌を突き破った針と侵蝕してくる異物の生々しさに、愕然とする。
なんて敏感なんだろう、人間ってヤツは。
思う間にも減っていく注射器の中の緑色を、食い入るように眺める。これで、あるべき姿に戻れるんだ。
「終りだ。小半時もかからないよ、アカリ。アンタは、魔族に戻る。人間にゃ、見えない存在にね」
投げかけられた言葉を反芻して、笑った。
笑った、ハズ……だった。
じゃあ、なんで。
必死こいて走ってんだろう。
頭の中で問いかけながら、必死に足を動かす。
七竃を抜けて、無駄にアスファルトで舗装された田舎道をひた走る。
人間なんて、
どうしようもなく無力で、
こんなときに、
走ることしかできなくて
魔族に戻れて、万々歳だってのに。
なんで、こんな
後悔しちゃってんの?
わけが分からないまま、駆けて。
駆けて、駆けて、駆けて。
息が切れて。
血の味が、して。
それでも、足は止められなくて。
あと、どれくらい。
人間でいられるだろう。
考えた時に、ようやく。
見慣れた、けれど、見慣れない家に、着いた。
ガラガラッ!
引き戸硝子を乱暴に開けて、玄関を駆け抜ける。
応接間のソファーに触れて、改めて実感。
まだ、物には触れられる。
あ、ゲームできるじゃん。よかったぁ〜。
一瞬、本気で安心した自分に気づいて。あまりの馬鹿さ加減に、いっそ笑いだしたくなった。
「アカリ?」
反射的に、声の主を見る。物音に困惑して出てきたらしい女性が、そこに立っていた。
聞きなれた記憶が、お母さんだ、と私に言う。何かに突き動かされて、全身で抱きついた。
やわらかい
あったかい
しらない。
こんなの、知らない。
「アカリ、どうしたの?」
そっと、抱きしめられて。
ほっと、息をついた。
魔族は、人間とは触れあえない。存在する次元が違うからだ。
人間を見ることも、声を聞くことも、魔力で脅かすことさえ出来るのに。姿を見せることすら、出来ないのだ。
「アカリ?」
声の優しさに、途方に暮れかけて。
なんでもない、と笑おうとしてようやく、頬を伝う塩水に気づいた。
「おか…おかあさん」
「なぁに?」
「おかあさん、お母さん、お母さん!」
一度、口に出してみれば。
思ったよりもずっと、その言葉は私に馴染んでいた。
ようやく、分かった。
とっとと魔族に戻りたかったのは。
そばにいれば居るほど、苦しくなる自分に気づいたからだ。
ずっと人間でいるなんて、できやしないんだから、と。
早く断ち切る方がいい、と。
そう、考えた。
……馬鹿だ。
とッくの昔に、こんなにも。
愛なんて、そんなものを向けてしまっていたのに。
「お母さん、大好き」
「はいはい。お母さんも、アカリのこと大好きよ」
強く抱きしめられて。
強く強く抱きかえした。
薄れていく、感触に。
終りだ、と。分かって。
多分、この人は。
私のことを忘れてしまうだろう、と。
それが、酷く悲しかった。
気づけば、あれだけ必死に抱きしめた腕は、オカアサンを突き抜けて。
もう。その必死さも、実感にはならなかった。
さっきまでポロポロ溢れていた塩水は、もう一滴もこぼれずに。
私は、完全に。
魔族に戻った。
……戻ったか
魔王の城。変わらない低音が、闇に響いた。
「よう、アカリ。人間ってやつは、どうだったよ?」
笑いながら、黒犬が言う。
どうしてか、それが寂しいというものに見えて。
どうしようもなく、その背に触れる。
……なんだろう、これは。
魔族には、快楽と退屈くらいしかないハズなのに。
ない、ハズなのに……
「……オカアサン、ってやつが。」
「あぁ」
「アッタカカッタ」
今はもう遠い感覚に思いを馳せながら、魔族を統べる王を見つめた。
あの人は、三日間ずっと、独りでここにいたのか、と。
そんなことが妙に引っ掛かって。
眼が、何故か熱かった。
「……ん……」
光に気づいた時には、眼を覚ましていた。
ぼやけた視界と、熱い水。泣いているのだ、と思った。
……ゆめを、みた。
実感が、じわじわと押し寄せてくる。鮮明な記憶に、涙が止まらない。
……ゆめを、みた。
抱えきれない感情が、苦しくて苦しくて堪らなくて。強く強く、自分を抱いた。
……ゆめを、
「ん…アカリ?」
寝惚けた声で、呼ばれて。
息が止まるかと、思った。
「アカリ……?」
寝言、なのだろう。そう思いながら。少しだけ、お母さんに近づいて。
おそるおそる、手を伸ばし。
頬に触れた。
「お母さん」
ザラついた、感触。盛り上がったホクロを、そっと撫でる。
温もりの確さに、余計に涙が止まらなくて。
ホッと、息をついた。
今日の私は、まだ。
人間で、あるらしい。
はじめまして。もしくは、おひさしぶりです。
水音灯と申します。
あなたがそこに居てくださることが嬉しいです。ありがとうございます。
サイトからの修正再録『夢幻劇』、お楽しみいただけましたでしょうか。
すべては、あなたが観た言葉の中の物語。モチーフは、「Life is but a dream.」。