第二話
「ええと、つまり、そうなると困るから私に飛び降りるなと?」
「はい」
絶句したね。あまりに無茶苦茶だ。なんだか腹が立ってきた。
「ほかのところで飛び降りればいいじゃないか!」
俺が声を荒げると彼女は切なそうに見えなくもない表情をみせた。ちょっと強く言い過ぎたかもしれない。しかし謝る気にはなれなかった。
「この格好では目立ちすぎるんです。ほかの建物の屋上へ行く前に病院の関係者に見つかって連れ戻される可能性だってあるでしょう。それに脱走がバレれば監視はより厳しいものになると思います。そうなったら、もう病院から出ることさえできないかもしれないんですよ。可哀想だと思いませんか?」
急に的を得た意見を言い出すしな。
たしかに、一理ある。ものすごく理不尽な扱いを受けていたにもかかわらず、俺は彼女の説明に納得してしまった。理屈として矛盾が見当たらないのである。俺は怒りを忘れて、彼女が病院を抜け出してまで人生に終止符を打とうとする理由が知りたくなった。
できるだけ柔らかいトーンに変えて彼女に訊ねた。
「そうまでして飛び降りなくてはならない理由はなんですか?」
「……思い出したくない」
彼女は頭を抱えて震えだした。とても演技とは思えなかった。それゆえに、俺はどうしても理由を知りたくなってしまったのだ。不治の病なのか精神的なものなのか、はたまたもっとくだらないことでもいい。同じ境遇に陥った人間の話に興味を抱いたのである。
卑怯だと思いつつ、俺は彼女にある提案を持ちかけた。
「あなたの切実な思いを聞いて考えが変わりました。飛び降りなくてはならない理由次第で、俺はここを去ってもいいと思い直しました」
「本当ですか?」
彼女は顔を上げてこちらに視線を移した。瞬きをする気配は未だにない。俺は静かに首肯した。
「話は長くなります。途中で誤って落ちられても困りますから、まずは柵の内側に戻ってください。内容はそれからお伝えしましょう」
なるほどたしかに、俺はすっかり自分の命が風前の灯であることを忘れていた。真剣な話を柵につかまりながら聞くのは滑稽だし、彼女のいうように誤って落ちる可能性もある。俺は素直に従うことにした。柵を越えて内側に戻ると、相当長い話になるのか、彼女は貯水庫へ登るために設けられたコンクリートの段差に腰を下ろしていた。俺もそこへ向かいその隣に座る。
彼女は開口一番こう告げた。
「わかっているとは思いますが飛び降りる順番は関係ありません。あなたが先で私が後でも、その逆だとしても結果は同じです。問題はここで両方が飛び降りてはいけないということです。ですから、もしどのような形であれ一人が飛び降りたらもう一人は諦めると約束してほしいんです」
真剣な眼差しの奥に彼女の決意を垣間みた気がした。こだわっている部分が俺との関係を疑われたくないってとこなのがへこませられるけどな。
「約束するよ」
俺は彼女に告げた。騙すつもりはない。もし彼女が先に飛び降りたなら、どんなことがあってもこの屋上からは絶対に飛び降りないと誓った。彼女は呪縛から解放されたようにふっと吐息を漏らした。微かな変化だったがたしかに安心したような表情を象っていた。
瞬間――彼女はなりふりかまわず柵の方へ走っていった。反射的に俺はそれを追う。柵をよじ登ろうとするのをなんとか制し止めさせると、彼女ははっきりと聞き取れる音を立てて「ちっ」と舌打ちした。
なんて奴だ、大嘘つきじゃないか!
彼女は最初から話す気などなかったのだ。信じた俺がバカみたいだった。
さきほどのコンクリートの段差まで引っ張って行き座らせ、俺は仁王立ちで彼女を見下ろし睨みつけた。そして、なぜ嘘をついて逃げ出したのかと彼女を問い詰めた。質問には一切応答せず、彼女はうなだれているだけだった。放っておいたら死んでしまいそうな悲壮な顔つきをしている。ああ、そういえばそのつもりでここにいるんだったな。それにしても俺はなんでこんなことをしているんだろう。なぜまだ生きているんだろうか?
しばらく経つと、彼女は観念したのかこころもち頭をあげた。
「やっと話す気になったのか?」
俺が糾問すると、彼女は少し照れた様子でこう言った。
「仕方ありません、キスしてあげるので帰ってください」
俺はずっこけた。彼女の思考回路がまったく理解できない。恥ずかしそうなわりに瞳は見開いたままだから怖いしな。なんとか持ち直して睨み直すと、彼女は俺を見上げるように顔を起こした。
「わかりました、おさわりまでは許可しますから」
ぷいっと横を向き彼女は両手で肩を抱いて頬を赤らめた。懇願する態度はしおらしいが言ってることはめちゃくちゃだ。
「なんでそうなるんですか!」
衝動に耐え切れず、俺はそう叫んでいた。
「とりあえず、落ち着いてください」
たしなめるように彼女に諭され、俺は悔しくて仕方なかった。大げさに俺をなだめるような挙動を取る彼女が憎らしかった。まるで俺のほうが悪いように見える。怒らせたのはどこの誰だよ。また変な事を言い出されないように今度は先手を打った。
「あなたの身体が目的ではないんですよ」
「男は皆、そう言うんです」
彼女はにべもなく言った。
そうですね。そりゃたしかに男は身体が目的じゃないとかいうけどさ。でも今は揚げ足取るなよ。そういう状況じゃないだろ。心の中でしか悪態をつけない自分を情けなく思いつつ、俺は極めて冷静に応酬した。
「いや、今まであなたが出会ってきた男はそうかもしれませんが俺は違いますよ」
彼女は俺の顔をまじまじと見ていた。完全に振り回されている。彼女の飛び降りる理由を聞くはずが、これでは俺が彼女を口説いているようにしか見えない。このままでは踏んだり蹴ったりだ。せめて当初の目標くらい達成したい。
「それにあなたの話を聞いたあと、誰かにその内容を伝えることもなく、俺も違うビルから飛び降りるんです。情報が漏れるなんてことはありませんよ。だから、話してくれませんか?」
真摯に話したのが功を奏したのか彼女は黙って話を聞いている。もう一押しだ。俺は普段見せないような飛び切りの笑顔を貼り付けてにこりと口許を緩めた。一瞥すると彼女は俺から視線を外してかぶりを振った。
「いけない。また騙されて酷い目に遭わされるところでした」
失礼な。わりと自信あったのにさ。
彼女は極度の男性不信なのかもしれないと前向きに考えることにした。いや、それにしては気軽に話しすぎだな。どちらにしても、過去になにかあったことは間違いなさそうだった。
「もう少し建設的な話し合いをしましょう」
そう前置きして、俺は質問を続けた。
「飛び降りたい理由はその過去の出来事が原因なんですか?」
「……答えたくない」
彼女は表情を曇らせた。これでは、はいそうです、といっているようなものである。なにがあったのだろう。理由が過去の出来事に起因するなら彼女はどうして今日という日を選んだのだろう。謎は謎を呼ぶばかりだった。俺はその真相を知りたいと願った。飛び降りるためにやって来た屋上で、運悪く居合わせた飛び降り志願者に翻弄されるという点がいかにも俺の運のなさを強調してるようで癪だがここまできたら引くに引けない。仮に引き下がってどこかで飛び降りなんてしようものなら未練が残って成仏できそうにない。
すっと唐突に彼女は立ち上がった。背が高いため俺たちは同じ目線で向き合う形になった。ぎょろっと見開いた彼女の瞳に俺が映っていた。 |