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奇妙な関係
作:鳥居なごむ



第一話


 いつもより空を近く感じた。   
 目の前には一面の青空が広がり、心地のよい風が吹き抜けていく。いつもより風を強く感じた。気持ちの問題ではない。俺は建物の屋上で空を見上げているのだ。地上と比べれば、当然、空は近く風も強いだろう。ゆっくりと視線を落として、八階建ての屋上から向かいにある病院を見下ろした。すでに覚悟は決めている。あとは瞳を閉じて、たった一歩進むだけだった。
 この世に未練がないといえば嘘になるが、俺はもう頑張れるほどの余力を残していなかった。疲れ果てていた。すべてを終わりにすることを望んでいる。そっと瞳を閉じて、柵から手を放した。強い風が吹けば俺の意思とは無関係に人生を終えることになるだろう。しかしそんなまどろっこしい方法を取る必要はない。
 満面の青空を思い浮かべながら、そこへ飛び込むだけでいい。
 それですべてが終わる。
「ちょっと待って!」
 ――刹那、後ろから声がかかった。
 びっくりして落ちそうになったので、俺は慌てて柵をつかんだ。
 いきなり大声出すなよ、落ちたらどうするんだ。 
 俺は喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込んで苦笑する。よくよく考えれば飛び降りるところだったのだ。なんの問題もないではないか。
「私の勘違いだったら申し訳ないんですが、あなた今、そこから飛び降りようとしてませんでしたか?」
「ええと、その……」
 俺は口ごもった。事実なので否定できない。言い訳を考えながら声のする方へ顔を向けた。
 そこには長身の女の姿があった。ボサボサの髪は肩まで伸びていて、ぎょろっと見開いた目でこちらを見ている。彼女は上下とも真っ白のパジャマ姿で裸足という格好をしていた。端正な顔立ちをしているが、綺麗というよりは不気味が正しい表現に思えた。どことなく、その姿は幽霊を連想させた。
 俺の訝しげな視線を察したのか、彼女はパジャマの裾をつまんでこう言った。
「あ、こんな格好してますが天使ではありません。ただの人間です」
 どこが天使だ、とツッコミを入れそうになった。だがしかし、たしかに彼女はこの世のモノとは思えない、得体のしれない独特な雰囲気を醸し出していた。堕天使になら見えなくもない。いや、どうやっても見えない。俺は無理に肯定しようとしたことを悔やみつつ、俺を見据えた彼女の瞳がいっこうに瞬きしないのを気にしていた。
「そのとおりです。あなたが声をかけていなければ、今ごろ私は地面に転がっていたと思います。もちろん、生きてはいないでしょう」
 結局、彼女の質問に素直に答えた。
「ああ、それはよかった。あなたに飛び降りられては困るところでした」
 彼女はほっと胸を撫で下ろすような素振りを見せた。とにかく無表情で安堵したのかどうかもよくわからない。ただ言葉通りに受け取れば俺が飛び降りなくてよかったと思っているらしい。
 理由はいくらでも思い当たる。この建物の持ち主なら悪い評判を立てたくないだろうし、管理人でも飛び降りそうな人を見かければ、とりあえず声くらいかけるだろう。仮にそういった立場にない人物でも黙って見過ごせるやつは稀なはずだ。
 それにしても、彼女はどうやって俺がここにいることに気づいたのだろう。施錠もされていない無用心な管理だが、こんなところちょっと暇を持て余しているからといって訪れるような場所ではない。それに俺がここに着いてから二十分も経っていないのだ。いくらなんでもその短い時間に偶然来たとは考えにくい。意識的にやって来たとしか思えないのだ。
 ではなぜ?
 ひとつの考えがひらめいた。ああそうか、屋上へ入るとなにか警告音のようなものが鳴る仕組みになっていて、それで管理人である彼女が飛んできたのかもしれない。寝起きならパジャマでも不思議ではない。目が据わっているのも無理やり起こされたからかもしれないしな。
「あの、あなたはここの管理人さんですか?」
「面白い方ですね、こんな格好の管理人いませんよ」
 彼女は肩をすくめて言った。どうやら俺の勘は外れていたらしい。
 ではどうして彼女はここに来たのだろう?
 その答えも飛び降りを隠しおおせる言い訳も思い浮かばず黙っていると、彼女から声をかけてきた。
「今日は絶好の飛び降り日和だと思いませんか?」
 はい?
 俺は目が点になった。彼女の言葉の意味がまったく理解できなかった。飛び降りるのに絶好もなにもないだろう。こういう状況に陥ったときから毎日が暗澹としていた。空が晴れていようと曇っていようと気にもならなかった。絶望しか見えていなかったからな。
 落ち着け、ツッコミどころはそっちじゃないだろう。
 問題にすべきは文字通りに受け取ると彼女も飛び降りるためにここへ来たということだ。飛び降りるということは、つまり、そういう結果になる。
「あの……ひょっとしてあなたも飛び降りるつもりなのですか?」
「ええ」
 相変わらず能面のような顔を微動だにさせず端的に答えた。
 改めて彼女をみて、俺は今さらながらおかしな点に気がついた。瞳を閉じないというのはこの際よしとしよう。飛び降りなんて物騒なことに考えが及んだ時点でまともな精神ではないだろうからな。気になったのは服装だ。あの格好で遠くから来たとは考え難い。もし警察に発見されたら間違いなく職務質問を受けるだろう。
 で、だ。
「ちょっと飛び降りに行こうと思いまして」と彼女。
「ああ、そうでしたか。ではお気をつけて」と警察。
 なんてことには絶対になるまい。任意同行で署まで連れていかれるに決まっている。
 そこでふと、さきほど眺めていた病院の存在を思い出した。
 考えるより先に口をついていた。
「ひょっとして、あの病院から抜け出してきたんですか?」
 根拠がないわけではなかった。パジャマに裸足という格好も入院している患者なら合点がいく。さらに不治の病に侵されているなど、ここへ来た理由も豊富に取り揃っているだろうしな。
「あ、はい」
 ちょっとまぬけな口調で彼女は答えた。あっさり肯定されてしまった。
「なるほど。では、もうひとつお訊きします。どうしてあなたは私が飛び降りると困るんですか?」
 彼女はなぜそんなことを訊くのかわからないという風に首を傾げた。ややあって、その妖艶な唇を動かした。
「だってそうでしょう。あなたが落ちて、私も落ちるんですよ。同じ時、同じ場所で飛び降りるなんて、発見者にひどい勘違いをされるかもしれません。考えただけでもおぞましいです」
 なんだそりゃ。
 というか、軽いイジメにあった気分である。頭が痛くなった。







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