左隣の彼女
『世にも奇妙なショートショートコンテスト』参加作品です。ショートショートには初挑戦です。
真新しいカーテンの隙間から射す朝日が私を目覚めさせた。夫はまだ隣で寝息を立てている。私はそっと起き上がってリビングへ行き、カーテンを開ける。空は雲一つない快晴。新婚の新居で迎える初めての朝は、上々の滑り出し。
鼻歌交じりで朝食の支度。トーストにベーコンエッグ、ハーブサラダにクラムチャウダー。食卓にお皿を並べ、夫を起こす。
「おお、いい匂い!」
陽光がリビングを明るく包み、白いダイニングテーブルを挟んで私と夫はゆっくり朝食を摂った。
「じゃあ、行ってくるよ、理香」
「行ってらっしゃい、たっくん」
愛妻弁当を鞄に入れて夫は出勤する。出がけにほっぺにチュー。うん、夢に描いた通りの新婚の朝。
夫が出かけると、食卓を片付けてキッチンで皿洗い。それから新婚旅行のトランクの荷解き。お土産の整理。そういう事をしていると、あっという間にお昼近くになった。
「いっけない、お昼になる前に、ご近所さんに挨拶を済ませなきゃ!」
マンションで人間関係を拗らせると面倒だと耳にする。ご近所用のお土産を紙袋に入れて私は部屋を出た。右隣は初老のご夫婦のお住まい。奥さんはとっても優しそうな人。良かった!
左隣のドアチャイムを押すと、若い女性が出てきた。今どき珍しい、ストレートの長い黒髪の細身の女性。
「あの、私、お隣の303に入りました今原……」
私の言葉を女性はテンションの高い口調で遮った。
「ええ、うっそ、理香ちゃん? 理香ちゃんじゃない?!」
え……。私は動揺した。必死で記憶の糸を辿るがこの女性に見覚えはない。でも、人の顔を覚えるのが極端に苦手な私は、彼女を知らないと断言も出来ない。私の戸惑いは顔に出てしまったらしく、女性は苦笑した。
「忘れちゃったの? 同中の沢口百合だよ! ユリちゃんて呼んでくれてたじゃない!」
「あ……ああ! ユリちゃん! や、ちょっと……変わった? ごめんごめん……」
胸がどきどきする。実はここまで言われても私はまだ彼女を思い出す事が出来なかったのだ。でも、そうとはとても言えない。気まずくなる事必至だから、私はつい調子を合わせてしまった。彼女はじっと私を見つめたので、小さな嘘が見え透いてしまっただろうかとはらはらしたが、すぐに彼女は笑顔になった。
「え~、私、老けた? 理香ちゃんは全然変わってないよね」
「ううん、ユリちゃんの方がずっと若く見えるよ~。十代って言っても通るんじゃない?」
これは本当に感じた事だ。彼女の外見は、とても同じ25歳とは思えないくらい若々しい。
「そっかな? ありがと! ね、もしや隣に引っ越してきたの? うわ~嬉しい! 理香ちゃん、仕事してるの?」
「ううん、今は専業主婦だよ」
「そっか! じゃあ時間あるよね? 私もまだ越してきて間がなくて、近所に友達もいなくって。これから仲良くしてね!」
「うん、勿論。こちらこそよろしく!」
「じゃあ早速、ランチに行かない? 近所のお店を案内するよ!」
こうして、私とユリちゃんの付き合いは始まった。ユリちゃんは明るくて話も面白い。好きな映画や音楽など、共通の趣味がいくつか見つかって、毎日のように一緒にランチして、楽しい時間が流れて行った。引っ越してすぐに友達が出来たと聞いて、夫も喜んでくれた。
ただ……1週間、1ヶ月経ってもまだ……私は中学時代のユリちゃんを思い出す事が出来なかった。中学時代の友人にメールで聞いてみたけれど、誰もユリちゃんを覚えていない。だけど、クラス数の多い学校だったので、おかしいと言う程の事でもない。もしかしたら、中学時代のユリちゃんはとても影の薄い子だったのかも知れない。
最初に正直に、思い出せない、と言ってしまっていたら、こんなにもやもやしなくて済んだのかも知れない。何組にいて、どういう風に接していたのか、細かく説明してもらっていたら、いくら私でも思い出せた筈だ。でも、仲が深まっていくにつれ、とても今更そんな事を言える訳がない、という状態になっていた。
「覚えてる? 一年の時の運動会でさ、校長の長話で……」
ユリちゃんは時折こんな話も出してくる。同中だったのは確かなのだ。でもそこでどうしても私は、「ユリちゃん何組だったっけ?」と、聞く事が出来なかった。
そんなある日、私とユリちゃんがマンションの廊下を歩いていると、右隣の奥さんが向こうから歩いてきた。
「こんにちは」
と私は挨拶し、ユリちゃんも会釈する。と、優しげな奥さんの顔がみるみる強張っていく。
「え……どうかしました?」
「いいえ、いいえ……なんでもありません!」
そう言いながらも、奥さんはユリちゃんを凝視している。ユリちゃんはにこにこ顔で奥さんを見ている。奥さんは急に口元を押さえると、くるりと向きを変えて早足で去って行ってしまった。
「……どうしたのかな?」
「さあ?」
「そういえばさ」
私はふと気づいて言った。今までずっとユリちゃんとばかり呼んでいたので意識に入ってなかった事。
「ユリちゃんとあの奥さん、同じ名字だね」
あの時、ユリちゃんがどんな顔をして何て答えたのか、私は思い出せないままだ。それを忘れてしまうくらい、ショックな事がその晩に続けて起こったからだ。
帰宅した夫は、いつになく怖い顔だった。
「理香……話があるんだけど」
「なーに、たっくん?」
「おまえさ……悩みでもあるのか?」
「はぁ?」
きょとんとした私に、夫は畳みかけるように言う。
「俺、おまえに寂しい思いをさせたのか? 新婚なのに、仕事忙しくてあまり構ってやれてないし……。何なら、おまえの実家の近くに引っ越してもいいんだ。少しくらい通勤が大変になっても、俺は構わないから!」
「な、な、何言ってるの? なんでそんな事言うの? たっくんがお仕事頑張ってるのはよく判ってるし、隣に友達もいるから大丈夫だよ!」
私はそんなに子供じみていると夫に思われているのだろうか、と少し情けなく感じながら言い返すと、夫は更に真剣な顔になり、こう言った。
「その、友達だよ! おまえ……そんなに友達がいなくて辛かったのか」
「何の話なの、いったい?!」
「今日、同僚に言われたんだよ! おまえの嫁、しょっちゅう一人ランチしながらずうっと一人でなんか喋ってるって、相当噂になってるぞ、って!」
「……?!」
私はショックで咄嗟に何を言えばいいのか、どう考えればいいのか解らない。
「そんな……だって私はユリちゃんと……」
ようやく言葉を絞り出したけれど、夫は、
「だからそれはおまえの空想の産物なんだよ。な、明日一緒に心療内科に行こう」
などと言う。パニックに陥りかけた時、携帯の鳴る音が部屋に響いた。私は縋り付くように電話に出た。夫との話から逃げたかったのだ。
「もしもし?!」
『もしもし、理香?』
緊迫した声でかけてきたのは、中高通して仲の良かった唯ちゃん。
「どしたの、唯ちゃん」
『理香、あんたこの前、沢口百合って子の事、聞いてきたでしょ?!』
どくん、と心臓が鳴る。無言の私に唯ちゃんは甲高い声で話し出す。
『なんだか気になって、あたしも調べてみたのよ。そしたら、ようやく思い出した』
「あっ……そうなんだ」
ほっとして、急に気が抜ける。やっぱりユリちゃんは本当に同中で……。でも、唯ちゃんの次の言葉は、私の安堵をかき消してしまった。
『二年八組にいた子……秋頃、事故で死んじゃった子だよ!』
ぐるぐると回りながら思い出が急速に甦ってきた。そうだ、亡くなった同級生は意識の外にあった。だってユリちゃんは目の前に立っていたんだから。
『あんた、隣に住んでて仲良くしてるとか言ってたじゃない! それってちょっとやばくな……』
私は携帯を放り出し、慌ててサンダルを履く。沢口さん。すごく大人しくて目立たない子だった。クラスも違うし、親しかった訳でもない。ただ、一度だけ、同じ委員会になった時、いつも俯いていた彼女の隣に座って声をかけた事があった。
『あの、沢口さん? そのシャーペンって、スターウォーカーズのレアグッズじゃない?』
当時好きだったマイナーなバンドの限定品に自然と目が行ったのだが、沢口さんはびくりとして私を見た。
『う……うん……。好きなの。あの……変、かな?』
『変じゃないよ! あたしもファンなんだよ~! 沢口さん、意外!』
『ほ……ほんとに?』
そうして暫くファン同士で話に花が咲いた。最初は固かった彼女も段々と笑顔になってきて、同じ話が出来る友達ができて良かった、と思った。なのに、その翌日、彼女はトラックに跳ねられて亡くなってしまったのだ。
「ユリちゃん! ユリちゃん!」
私は何かに突き動かされたように左隣のドアを叩いた。そういえば、まだこの中に入った事はない。夫が追いかけてきて、やめろよと引き戻そうとしたが、私はやめなかった。騒ぎを聞きつけたのか、どこかの部屋のドアが開く音がしたが、私は振り返る余裕もない。
「今原さん」
私と夫の背後で、静かな声がした。右隣の奥さんだった。
「その部屋は空室です。誰も住んでいませんよ」
その時。静かにその部屋のドアが開いた。私も夫も奥さんも、確かに見た。ぼんやりとした黒い影を。
『理香ちゃん……やっと、思い出したんだね』
「ユリ……ちゃん?」
『思い出せないのなら、最初からそう言ってくれたら良かったのに。そうしたら私はいつまでもこうして理香ちゃんにつきまとうこともなく消えていたのに』
私は言葉も出なかった。私の誤魔化しが、まさかこんな事につながってしまうなんて。ユリちゃんの声は冷え冷えとしてぞっとする響きがあった。
『友達になれた……私、あの時からずっと、あなたとこんな風に友達になれたら、ってずっと思ってたの。ユリちゃん、理香ちゃん、って呼び合うくらいに……。私の願い、かなった。これで終わりなんて嫌。ねえ、一緒に行こうよ。いつまでも楽しくいられるところに』
そう言うと、影は私の手首を掴んだ。凍る程に冷たい手。
『わたしの部屋にいらっしゃい』
「い……いやっ! 離して!」
「理香!」
夫が私を引き戻そうと抱きしめる。だけど、女のユリちゃんの方がずっと力が強かった。連れて行かれる!! 恐怖に私は泣き叫んだ。でもユリちゃんは容赦なく私を空室へ引きずり込もうとする。
その時、何かが私の横を走り抜けた。
「百合……! やめなさい!」
その人は黒いユリちゃんにしがみついた。その人は泣いていた。
「ごめんね、ごめんね、百合。一人でずっと寂しかったのね。連れて行くならママを連れて行きなさい!」
それは、右隣の奥さんだったのだ。
『ママ……』
ユリちゃんの手が緩んだ。夫はその隙に私を引き寄せて背後に庇う。奥さんはユリちゃんを抱きとめて、
「ママはずっと百合と一緒だから!」
と叫んだ。暫しの凍り付くような時間の後に、ユリちゃんは、泣きそうな声で、
『ママ、ごめんなさい……理香ちゃん、ごめんなさい……』
と言い、消えた。
奥さんは泣きながら何度も謝った。一人娘のユリちゃんが亡くなる前の晩、友達が出来たと嬉しそうに話していた事。卒業アルバムの私を見ていたから、引っ越してきた時すぐに解って、ユリちゃんの仏壇に「お友達が来たよ」と報告した事。
「わたし、ただ嬉しかったんです。百合のたった一人のお友達……ずっとアルバムを見てきたから、まるでもう一人の娘のようにさえ思えて……」
「もういいです。ユリちゃんが生きていたら、きっと本当にあんな風に楽しく過ごせた筈だった。ユリちゃんともっと仲良くしていたかった」
本当はさっきの恐怖心は残っていたけど、奥さんがあまりに気の毒で、私はそんな事を言った。奥さんは泣き濡れた目で私を見た。
「ほんとに? 理香さん」
「ええ、ほんとに」
生温かい風が、奥さんの汗ばんだほつれ髪を揺らした。
翌日は昼までぐっすり眠ってしまった。
もうランチをする相手もいない。何もかも忘れて、新しい友達を作る事から始めよう……ぼんやりとそう考えながら顔を洗っていると、玄関チャイムが鳴った。覗き穴を見ると、右隣の奥さんだ。まだ何かあるのかしら、と思いながらドアを開ける。左斜めすぐのところに、奥さんは微笑んで立っていた。ユリちゃんによく似た笑顔。今まで気づかなかったけれど、親子なんだから当たり前だ。奥さんはユリちゃんによく似た声で言った。
「わたしの部屋にいらっしゃい?」