雨後の審判
●◎○
……――清掃という言の葉が掃いて捨てられた部屋の中、ただ一つしか無い窓辺に立ち、埃で覆い尽くされている硝子一枚通してルイク・ヴェヌスバーグが外を見やれば、イルヤースの銀色に輝く空は、雨とも曇とも晴とも――最後に関しては、頭に『忌まわしい』と付けるべきか、本来なら――何とも言い様の無い奇妙な様相を呈していた。
例えるなら、それは螺鈿と言う所か――彼方と此方、それぞれに違った模様が、都市の上、天の面に描き出されている。煉瓦造りの摩天楼に激しく雨滴が降り注いでいるかと思えば、込み入った継ぎ接ぎ様式の民家群へは剣の様に陽光が差し込んでいて、これだけでも異常気象極まりない――実は少なからず収まった方ではあるが――というのに、二つの区画は限りなく密着し、地に置いてはまるで境が見当たらない。両者を分け隔てているのは、削り出された石材の如き空合いだけで、しかもこうして見守っている間にも刻一刻と変化の兆しを見せ始めていれば、その曖昧でありながらの画一さに、怒涛の性急さに、ルイクは顔を顰め、視線を逸らし――ますますその眉間に皺を寄せる。
日差しと雨垂れ、幾つもの建造物を超えては過ぎて、真っ赤な視線が捉えたのは、渦巻く濃厚な雲の中へと鋭利な先端を差し入れる、全面結晶細工の巨大な塔――
水晶宮。
それは、それこそは、唯一無二となってしまった世界の首都イルヤースの要だった。
何の要かと聞かれれば決まっている、全ての要に相違無い――生活の要、技術の要、歴史の要、政治の要、経済の要、労働の要、支配の要……要、要、要、だ。誰がそれを知らぬものか、誰がその名を知らぬものか? そんな事は路地住まいの浮浪児童達だって知っている。よしんば、そこで働いていた身の上だったら尚の事であり――
それが異変の要、天候の要、そして彼の罪の要だったら、尚更の事である……
ルイクは頭を振るった。ここ数週間の間、ろくに手入れされる事無く伸ばすに任せられた白髪が、鬱陶しく肩に、背中に触れる中、億劫そうに翻り、芥々とした部屋の中でも一層気合の入った室内装飾を誇る区画、簡易に誂えた台所の様なものへと向かう。
――毎日毎日……そんなに嫌だったら……辛いんだったら……
どんな雨でも決して消えないとお墨付きの、月光の白銀の仙桃印の燐寸を擦る、
――見なきゃ、と、言うか、しなけりゃ良かったのに、ね、兄さん……
彼の傍ら、襤褸椅子に座った妹が、スティカ・ヴェヌスバーグが、そんな事を言いたげな表情で見詰めて来るけれど、ルイクは構わず携帯焜炉に火を付け、薬缶を乗せた。
言われなくとも解っているさ……そう返す言葉は口には漏らさず、胸中に響き――解らなかったのは、解ろうとしなかったのは、それがどう言う風に辛いのかだよスティカ……と、語る瞳は、震える鏡面越しの自分以外、何も捉えず、虚ろに輝く――
コンコンコン、という音が、ただ一つしか無い扉から響いたのは、その瞬間だった。
はっとしてルイクは顔を上げた――この部屋の家主か、近隣の住人か、という考えが一瞬脳裏を過るけれど、その余りの在り得なさに、我乍ら笑ってしまう。名義上――それが今現在何処まで有効か定かでは無いが――ここは廃屋であり、主なんてそれ自身以外に居る訳が無い。隣近所もまた同様で、もし仮に彼等が実在しているとしても、自解ら接触して来ようとは思うまい――と、なれば、導き出せる答えは一つだけであり、ルイクはそっと焜炉の火を消すと、身構える様にして立ち上がった。
その顔は、表情は、覚悟を宿したものだったけれど、しかし体は動かない――己を抱く様にして二の腕を掴んだままに、唯一の出入り口である扉をじっと見据える。
導き出せる答えは一つ――それは確かで、揺るぎ無いものだった。
だが、それに続く答えは複数であり、複雑であり――いや、水晶宮の役人であれば、至極単純に違いない。宮仕えどもにロクな仕事が出来ないというのは、実体験として解っているし、仮にも管理する側であれば、役割だけは真っ当に、事が終わるのもあっという間だろう――本来なら『聖』と頭に付けるべき、だが自分にその資格も無いテル=テリ・ボルスの残党だって、まぁ大体変わるまい。裏切った度合いを比べれば、そして彼等の気質をこそ思えば、熱狂的な歓迎になる事請け合いだが、求める所は、もとい求める者は全く一緒――ルイク・ヴェヌスバーグというのだから、その皮肉にまた笑みが漏れる。
けれどソフィ――ソフィエル・ネイトは、違う……きっと、違う。
集団であれば、理解は容易い。群衆を纏める思想がそこにあるからだ。だが、個人の場合、そうは行かない。集団を構成する個人を、一体何が構成しているかなんて、誰が理解出来るだろう? 何がその中にあり、何がその中に無く、何が混じり合っているかなんて――ましてその個人が女性ならば――その女性が、彼女ならば……或いは……
耳障りなクスクス笑いが、そして更なるノック音が響く中、ルイクは考える――果たして、この扉の先に居るのは誰なのか何なのか、と。同時に思う、もしや彼女では無いだろうか、とも――そうであればどれだけ良いか、いや悪いのか、それすらの判断も付かないままに――出会った時から忘れられない、印象深すぎる容姿を思い浮かべて……
●◎○
……――古き、懐かしき言い回しに曰く、鳩を呼び戻す事九年前、
――始めまして、ソフィエル・ネイトです……
彼女はそう言って手袋を外すと、そっと右手を差し出した。
白、健常の白をはっきりと宿した、か細い右手を――
その時の動揺を、ルイク・ヴェヌスバーグは良く覚えている――元を正せば思い込みに過ぎず、もっと言えば無礼も甚だしかったのだが、彼はその瞬間まで、ソフィエルの事を黒子だと思っていたのだ――雨に、神に見捨てられた奇形……哀れな、時代に寄っては忌むべき存在……恐怖に憑かれ加えるなら、悪魔の星、即ち太陽の申し子……
で無ければ、どうして我が家にやって来たのか? 妹の家庭教師として? こんなに心地良い散歩日和に――スティカとは別の身体的理由で、そんな事するつもりは毛頭無いが――頭の頂上から脚の爪先まで文句の付け所無い防水服に身を包み? おまけに、もう一方の手に握っているのは蛇目の雨傘だし、先に聞こえた嘶きと車輪音は辻馬車のもの、ピュゥイキュゥイという特徴的な甲高さは、間違え様にも無理な話――
この様にして、全ての証拠が彼女を黒子と指し示す中、そうでは無いと告げる右手の存在に、ルイクの頭の中身は大いに戸惑い、混乱し、判断に対してたっぷり時間を掛けた末に何も決める事無く、さぁどうしたものかと顔を上げた所で――合点を行かせた。
正確には、行く様に配慮してくれたと言うべきか――光沢ある布地の陰、三日月の微笑みが優しく彼に向けられたと思うや、ソフィエルはするり、殆ど濡れてない頭巾を降ろす――そうして現れたのは、額広く前を分けた、豊かに垂れる白髪混じりの漆黒の髪に、知性が黒く焼け付いた様な褐色の面相、と来て、柔らかく釣り上がった双眸は二つの色を、即ち右は真紅、左は灰緑と輝いており――螺鈿子、という言の葉を漸くにして思い浮かべ、勘違いを正そうと慌てた時には、既にしてニ色の好奇に捉えられていて、
――お兄さん? ルイク? 何と呼ぶべきかしら……でも、まぁ、よろしく……
こちらこそ、と間を置いて紡ぐ台詞を震わせながら、ルイクはその手を伸ばし、ふと留まり、もう一度伸ばす――鼻を付くのは、夏に掛けて道端に咲き渡る奇怪で巨大な、その実、匂いと味は言う程悪くないあの向日葵に似た香りであり、その背に投げ掛けられるのは、鳥を狙う猫の様な興味が鋭く纏わり付き、絡み付いた枝葉の眼差しで――白には白を、と、染み一つ、傷一つ無い綺麗な指で応えながら……
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……――交流はこの様にして堰を切り、直ぐに親交へ、親愛へと流れ込む。
名は体を表す通り、ソフィエル・ネイト――ソフィは、聡明な女性だった。
それもルイク・ヴェヌスバーグが後生大事に抱え込んでいる代物――洗い晒しの人工羊皮紙、もう一度漂白され再び平らに引き伸ばされた古き言の葉の味わい等とは別種の聡明さであり、つまりは生きた知識の、知識を活かす力の持ち主で――出自から想像すれば、何とも稀有な性質である訳だが、しかし、そもそも出自自体が稀有なものであったりする。
螺鈿子――半分健常で半分黒子、もしくは、半分黒子で半分健常という、些か出来過ぎた自然の悪戯は、それがイルヤースで問題になる程、つまり、黒子が黒子として認められる程、頻繁には発生しない。極々稀に現れても、その現れ方は余りに千差万別で、『どちらでも有り得る者』等という、定義にあるまじき定義付けしか出来ていない。
そして件の彼女はと言えば、雨風を凌がなければならない位に黒子寄り、健全な部位なんて右手と右目、髪の一部なんて有様だったが――後にそれだけでは無い事を知るけれど、結果は余り変わらない――とてもそんな風には見られない。
当時のルイクが十六歳、とすれば、三つ上のソフィは十九歳という事になるか――それが仕事とは言え、雨の中、風の中、ヴェヌスバーグ邸に通い詰め、一人――時折には二人――の為に教鞭を振るう姿は、病弱を大義名分と家に篭りがちな彼にとっては余りに健やかで――太陽の様に眩しい、疎ましい、なんて多少なりにも感じてしまった事は否定しないが――端的に述べて魅力的、その容姿を踏まえれば蠱惑的ですらあり、彼女を雇い入れた両親の赤眼を、ルイクは素直に評価したものである――ソフィが螺鈿子だと、奇妙な身形だと、予め伝えてくれなかったのは兎も角として、だ。
或いはもしかしたら、スティカ一人だけの為では無かったのかもしれないが――何であれ、ルイクがその様な想いを抱いていればこそ、関係が内から外へと拡がって行ったのは正に自明の理というものだった――往々にして過しやすい午後の霧雨か、イルヤースでは稀と言って良い露滴無き曇空か……最後の方ではもっと稀な、彼女達の、いや彼女の領分、立場覆った晴れの日の元に。理由? 口実? 話題? そんなもの、どうでも良かった。今日の天気、学習の進行、彼女の生立――何でも良い、何でも良い。二人きりで逢えるなら、語らえるなら、それだけで何もかも充分であり――
今でも思い出す始めての邂逅は、水晶宮の側に建っていた喫茶『エンジェルエッグ』の紀元前様式――家の中、部屋の中、学校の級友達とは育もうにも育めず、代わりとばかりに妹と一緒に溜め込んで来た雑多な想いの数々を吐き出す様に、ブクブクパクパク盛りの付いた犬みたいに捲し立て、ふと我に返れば、カップ片手に微笑むソフィの顔が目の前にあり、気不味さと気恥ずかしさを感じて、不意に受信筐から聞こえて来たイルヤースの都歌へ向けて、縋る様に、いい歌だよね、と言った、言ってしまった記憶――普通それは都市行事にて粛々と、乃至は祭日に喉を振り絞って叫ばれる様な代物だったが、その時、聞こえて来たのは、こんな風な、何とか言う女性流行歌手に寄る穏やかな甘い旋律で、
――雨の中で口ずさむ……
――ただ雨の中で口ずさむ……
――何て素晴らしい心地でしょう、幸せが蘇って来る……
――雲に笑みを向けよう、夜は暗い、けれど……
――私の心の中には星霜が降り注いでいる……
――新しい恋にはとてもぴったり……
対するソフィは、暫し聞き入った後から、そうね、なんて頷いてくれたけれど、そんな訳がある筈無い。あったとしても半分だろう、ルイク自身がそうなのだから。
だが、最後の件りに関してはその通りで、彼は赤面しつつ、こう尋ねたものだ――結局は受け入れられた、だが放つまではおっかなびっくりだった、こんな台詞を……
――所で、ソフィ……その、何だ……次もまた逢ってくれない、かな……
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……――所で、と言えば、当の本人はまた別の意見を持っていた様である。
等と脅かして見ても、別にソフィとスティカの仲が険悪だった訳では無い。どちらかと言えば、その逆であり、傍目には、ルイクには、寧ろ仲睦まじく見えた程――聡明なソフィに懸命なスティカ――学校に通えなかった歳月を、辞めて行った教師達の人数を埋める様、補う様、熱心に机へと向かい、良く質問していた――答える先生もまた、時に驚き、時に微笑み、教えるという行為を、仕事を、心底楽しんでやっていた様に思え――色彩を抜かせば、それは文句無く、純粋に喜ばしい光景であったと言えよう。
ただしそれは、ルイクとの場合の様に、外へ向けては拡がらなかった――勿論それは現実的な、空間的な意味でもあればしかし、重要なのは比喩的な方で、二人の関係は、良き教師良き生徒以上のものとは成り得なかったのだ――色彩を加味すれば、妥当であろうに。
その事に関して、兄は一度妹に尋ねた事がある――些か勢いの強い雨の中、エナメル質の肌を照からせて消えて行く馬の陰を窓辺に眺めながら、ルイクはスティカに何故と問うたのだ――やがて去り行く馬車の姿を、何とも言い難い表情で見送っている彼女へ向けて――そうである方が自分に取って都合良い事は御首にも出さないままに、
――例えば兄さんは珈琲が好き……それも例のあの引揚品で淹れたもの……何と言ったかしら、蒸気仕立てのとっても濃くて苦い奴……まぁ、何でもいいんだけど、さ……
と、答える彼女の褐色の手に握られているのは、並々と紅茶の注がれた青磁のカップであり――自体もまた引揚品であれば、少々値の張る誕生日祝いの品なのだが、本人はまるで意に介しておらず――それが? と訝しがるルイクの方を見もしないで、くぴり一口、薄い唇を付けてから、スティカは灰緑の瞳を紅い水面へと落とし、
――そこにミルクを注いだら、それはもう別の飲み物じゃないか、って話よ……良し悪しは別にして、苦手ではあるけどね……あの牛って生き物、本で見た、けど……牧場に一杯、一杯、ぷかぷかうぞうぞ漂ってる感じが……でも……
と、振り返り掻き上げた髪は、一度も雨に濡れた事の無い波打つ豊かな黒髪であり、
――良く解らない、が……でも……でも、何だい、スティカ……
――でも……兄さんには見分けなんて付かないんでしょうね……一目見れば直ぐに解るわ……気付いている? 兄さんったら、ほら、眼まで真っ赤っ赤なんだから……
――……お生憎と、これは産まれ付きさ……悪かったね……真っ赤で……
あえて避けている身体の話に、そして突かれた図星に、ルイクは思わず視線反らせるや、憮然とした様子で返したものである――クスクスという笑い声に頬を染めて……
●◎○
……――この様な具合に、滝へと向けて年月は流れた。
結局の所、スティカ・ヴェヌスバーグとソフィエル・ネイトの関係は、最初から最後まで何も変わる事無く、ただ並行のままだった――今は違うけれど、ルイク・ヴェヌスバーグは首を傾げ続けたままで――ソフィとの逢瀬を、邪魔される事無く愉しんだ。
こちらの二人の関係は、家庭教師の必要が無くなった後も平然と続けられた――肉体か、精神か、或いはその両方の成長か、はたまたただの思い込み、隣にソフィが居るという思い込みの賜物か、そのいづれであれ、最早ルイクにとっては、外も雨も、時には晴ですら恐れるに足るものでは無く、彼と彼女は連れ立って、イルヤースの日々を共有した――嗚呼、とルイクが瞳を閉じれば、直ぐにでも、幻燈の如くに浮かび上がる――雨滴から、陽光から、場合によっては視線から逃れる様、車輪の様に円環を描いて並べられた柄の中から、相談の末に抜き取った、お気に入りの蛇目傘一つの下、同じく揃わせた外套を、長靴を身に付け、交互に色眼鏡なんかも貸し合ったりしながら、八つの大通りと路地の支流、本物の河川に区切られた街の中、時の中を寄り添い歩き――幻燈、そう、その中には、幻燈だってあったのだ――水晶宮から北へと馬車を走らせた野外劇場、一般的な青と緑、そして警告を示す黄の布地が犇めき合う中、天気巫女が数年に一度と笑顔で言い放つ程の豪雨の下で、水に灯すという触れ込みなのに一向に何も見えて来ない中空に、群集達が怒り赤く瞳を燃やす傍ら、濡れぬ様、焼けぬ様、また逸れぬ様にと内に抱えた、その大袈裟具合に苦笑いする彼女の格子髪は、あの初夏の花に似た匂いをして……
それは永遠へと軒を連ねる一瞬だと、誰しも思う様に、当時のルイクは思っていたが、無論そんな事は無く――短く小さい、だが確かな隔たりが、ある時彼等を訪れたのである。
その切っ掛けは、所謂ヴェヌスバーグ夫妻を襲った不慮の事故、大型馬車の突然の横転で――いや、これは正確では無い。相次ぐ家族との死別は、二人を一層引き寄せこそすれ、離す事は無かった。問題はもっと現実的なもの――生きて行く為の金であり、そうして現れたのが、父のかつての友人にして同僚――水晶宮の役人だった。
―――ご両親は気の毒だったね……所でルイク、君は今学生だったか……教養には金が掛かる。どうだろう、仕事に就いて見る気は無いかね? 彼の分、なんて訳では無いのだが、近々空きが出来る予定で……君さえ良ければ、如何なる席でも用意するが……
全ての生命の流転の源、即ち海に遺体を流した直後にその様な事を言って来る年嵩の男性に、ルイクは内心苛立ちを覚えなくも無かったが、その申し入れ自体は正に渡りに船だった。遺産はあるが、いづれ失くなるのは明白であり、稼ぎの口の宛も、腕前も無く――それに、こんな状況では、学問に芯まで身を浸ろうだなんて、とても思う事は出来なかった――学問の部分を恋愛に、婚姻に代えても、それは全く同じ事で……
●◎○
……――こうしてルイク・ヴェヌスバーグは、水晶宮に仕える者となった――偶然と言うより運命と呼んだ方が収まりのいい切っ掛け、ではあったけれど、父親と同じか、或いはそれ以上の働きが出来る様、彼は与えられた役割を、一所懸命と日夜励む事になる。
その役割とは、記録省の忘却係と呼ばれるものだった――幾つも存在する水晶宮の部省の中でも、取り分け地位の高い所では無く、偉大なるサハル・ヴェヌスバーグの名の元に、より上層に位置する部省、例えば父親自身が所属していた宮の要、統括省に入る事も可能ではあったのだけれど、ルイクはその可能性を固辞したのである。
それは、宮外にて歴然と存在する様な賃金格差がここでは余り無かった賜物であり――もしあったとすれば、彼も考えた事だろう――近親の縁故を頼ってしまった事に対する負い目だって無い事は無かったが、一番の理由は、その内容自体に寄っていた。
偉大なるノアを紀元とするこの世界に、以前が存在していたというのは、誰もが知っての通りである――けれど、その詳細を、真実を知っている者は、誰も居なかった。そもそも偉大なるノアとは誰、もしくは何かすら、ままならない状態であり――記録と呼べるものは、虚実綯い交ぜである伝説、神話の数々や、明らかに人の手の加えられた痕跡のある、道具と思しきもの、とその一部分、という様な具合だったのである。
記録省とは、名が如実と示す様に、これら紀元前の有様を示す諸々を回収、調査してから、その性質や用途を記録する部省なのだが、その過程には一つの問題があった。
即ち、何を記録すべきか、すべきで無いか、という選択の問題である。
ろくに判明していない紀元前の世界が、天の主の想い溢れる、恵み深き雨が降っていないものであった予想は、夢物語を紐解くまでも無く、全ての遺物が海や川の様な水の底より引き揚げられている点、その多く、特に複雑な機械の体をしたものが稼働不能の、実質上の置物として発見されている点を考えれば、容易に推察する事が出来よう。
となると、浮かんで来る疑問は、紀元に何が起きたのか、どの様な変化が起きたのか、であるが、引揚品の状態を思い描けばこそ、それが良きものだったとは言い難い。もし仮にそうであれば、ここまで記録が滅茶苦茶になっている筈が無く――言い換えよう。残るだけの、残すだけの価値が無かったからこそ、過去は洗い流されたのだ。
ならば、それを興味本位で、一時の利便を求めて再び世に出してしまうのは、果たして正しい事なのか否か――勿論そこには議論の余地があるが、しかし時は待って等くれない。必要なのは決定であり実行であり――回収と記録の間に調査が横たわっているのはこの為で、水晶宮は、必要で無いものを再び洗い流すを、良しとしたのである。
そしてルイクもまた同じ考えなら、彼は忘却の管理人となった――如何に恵み深いものであれ、雨が降るから屋根が在り、勢力増して傘を差す。もし危険だと判断されれば、それは人知れず、『大渦』へと放り込まれる――水晶宮の底の底にて渦を巻いている、強力無比なる水洗式粉砕処理機械の中に――もし危険で無いと解れば、その時はその時、有益さを特と愉しんでやればいい――例えばそう、あの珈琲の様に――
ただし、生来の性格は抜け切らないもの、そこに個人的欲求が、知的好奇心があったのは、彼にしても否定出来ない所である――一般市民の手にも耳にも眼にも未だ届いていない代物を、いの一番に観察し、時には使用出来るというのは、間違いなくの特権だろう。それがもしかしたら、もう二度とこの地上に姿を現さないかもしれないとすれば、余計にで――ルイクの先輩なんて、こんな事を述べていた位である、
――古代博物館へようこそ。ここは、見るのも触るのもご自由に、だよ……
尤も、特権ばかり重視し過ぎた彼は、義務の方を疎かにしてしまった様だ。見るのも触るのも自由だが、許可無く持ち出すのはご法度であり――ある朝ルイクが職場へと来ると、彼の席も、彼の姿も、消えていた――水晶宮に仕えていた、その記録一切を含めて、だ。
その徹底っぷりには、彼も恐怖を、というよりも畏怖を覚えざるを得なかったけれど、だが仕方がない、不正は不正であって、それは是正されるべきである、と思えば、ルイクは最早名も無き彼から取り返された引揚品の処理を申請し、許可証と一緒に、『大渦』の元へと持って行く――苦心の末、その円筒状の物体が、視覚を麻痺させる、強烈な閃光を放射可能な、ある種の武器だと彼は見抜き、更にそれが造られた背景を、太陽の火と光の下で活きる黒子の事を考え、無用の混乱を招き兼ねない引揚品を、それこそ無用と願い出た。
投じられた遺物が音を立てて粉になり、跡形も無き跡が水の中へ消え行く様子を眺めながら、ルイクは、半ば与えられた、半ば願い出たこの職務に対する矜持と満足に、うっすらと、しかし確かな笑みを浮かべつつ、こんな思いを胸に抱いたものである。
世の為、人の為とは何と素晴らしい事なのだろう……
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……――労働は生き甲斐となり、時間は惜しみなくと加速する。
気が付くと、ルイク・ヴェヌスバーグは、一端の役人になっていた――仕事、仕事、また仕事と、重ねられた経験と苦労は、確かに身には付いたのである。
ではその間、ソフィエル・ネイトとはどうなっていたか――として言えば、これまた少々脅かし過ぎか、実際以前から、何か変わったという訳では無かった。ただ、毎日逢っていたのが毎週になったというだけの話――二人共、もとい、彼ももう大人なら、やるべき事をやるべきなのだ。それを怠っていたとすれば、天と地が結ばれ合う等夢のまた夢だ。しかし幸いにも、彼等は現に行動しており、狭間は確実に縮小を続けていたのである。
けれど、ソフィが行なっていたのは、日々の糧の為の労働だけでは無かった――
――ねぇルイク……大事な話があるんだけれど……
転機はこの一言より始まる――何時だってそうだった、ソフィが始まりなんだ――それは、イルヤースの多くの市民にとっては生憎の晴れの日、閉ざされた扉、窓、雨戸が至る所に目に付き、野良の犬猫が道端でへたり込んで、その鰓をぱたぱた動かしている通りを、殆ど二人っきりで独占しながら歩いている時の事で――目深く頭巾と黒眼鏡を掛け、きっちり外套で身を覆い隠し、その上、日傘の庇護の元にあったルイクは、二つ返事で応えながらも、その頭に更に疑問符を宿した――安心と伝統の名の元に、晴天を休みに定めている店は少なくない、もとい開いている店の方が数少ないのだ。人々の選択肢に真っ先に浮かぶのは自宅であり、それ以外となると幅は非常に限られて来る。その事は彼女自身解っている筈であり、であれば一体何処へ向かうと言うのか――浮き出る汗を脱ぐ犬食い、ルイクはそんな疑念を浮かべていたけれど、しかしそれは、答えを得ても尚消え去る事は無く、寧ろその勢いを増させるものだった。
『雨の後の命名処女地区』――例として例の如く由来は不明だったが、昔からそう呼ばれている一帯は、一説によるとイルヤース最古の地区であり、場所自体がある種の遺物、遺跡として、記録保存の対象にはなっている――けれど、外見だけで言えば、古錆びた建物が建て並んでいるだけの所であり、ただでさえ乏しい人の気配は、ここでは皆無と呼んで良く、家々が投げ打つ黒い影の存在に、ルイクは身震いを浮かべた程で、
――さぁ頑張って、目指す場所はこの下よ……
――……ソフィ、こんな所に用なんてあるのかい、本当に……
だからこそ、そこ――迷路の様に入り組んだ路地を、行きつ戻りつした末の行き止まり、煉瓦の壁に無造作に穿たれた穴を示された時は、彼も流石にそう問うてしまった――一応、人一人位なら充分通れるだけの広さはあったが、しかしどう見ても故意に作られた通路の入り口とは思えなかったし、どれだけの深さがあるのだろう、中は薄暗く、奥がどうなっているかなんてさっぱり見えない、
――ええ、そうよ……怖気付いちゃった? 嫌なら帰ってもいいんだけれど……
にも関わらず、ソフィはそう笑うや、独り勝手に穴の中へと入って行く始末であり、彼としては、その後を追い掛けるより仕方が無い。馬鹿にするな、と、これだけは純粋に喜ばしい、頭巾と黒眼鏡を外しながら、ルイクは彼女に続いて、一歩を刻んだ。
そして二歩、三歩、と先へ進めば、穴の中が緩やかな傾斜になっている事、湿気の所為で滑り易い事は確かだが、思っていた程歩き難くはない事に気付く――光源と呼べるものは、一定の間隔を置いて壁や床に塗られた水銀色の蛍光塗料で、状態をちゃんと確かめる事は出来なかったけれど、どうやら通路ではあるらしい――誰が、何の為に、なんて言うのは、例え眼が効いていても解らなかっただろうが。
ソフィは、しかし地上と変わらぬ速さで、何歩も先を降っていた――一本道、ではある様だが、それにしても足取りに躊躇が感じられない、つまりは彼女にとって、この道は馴染みのものであり――どれだけ歩いた事だろう、道は唐突に終わりを告げた……
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……――そして視界が開け出した。
穴と比べれば遥かにしっかりとした入口を抜けると、その先にはちょっとした空間が広がっている――そこは半球状の部屋だった。敷き詰められた石畳の平地に、無数の円柱が頭上高くまで伸び上がり、自分が抜けて来たものを含む四方には、重厚な造りの門扉があって――そうぐるり見渡した後に、ルイクは部屋の中央に、得体の知れない機械が備え付けられている事に気が付いた。外見だけ言えは、打刻鍵盤に似ていなくも無い――事実、前面に備え付けられているのは、未知の文字を幾分含んでいる以外は既存のものと殆ど変わらず並ぶ打鍵だった――が、その佇まいは遥かに立派で、『大渦』の様に堂々と巨大であり、ただ文字を刻むだけの機械としては些かなりとも大袈裟過ぎる、
――知っているかね、かつてこの国が、都が、何と呼ばれていたのかを……
職業的習慣付を以てルイクが観察したのと、何処からともなくしゃがれ声でそう語り掛けられたは、殆ど同じ瞬間だった――何時の間にだろう、振り向けばそちらの方へとソフィが歩いており――そうして彼女が向かう柱の元には、中年の男が立っている。
彼は黒子だった――どうしようも無く覗く種々の色合いを認めれば、それは容易且つ速やかに理解出来、妙な話、何の変哲も無いただの奇形だった訳だが、しかしその服飾に関しては、そうでは無い――頭の上から足の先まで、すっぽり体を覆っているのは、差異を際立たせる様な、織りの荒い白布であり、そいつを身に留めているのは、一方の先端を輪と形作って首を括り、ぶらり床へともう一方の先端を垂らす荒縄なのである。
それは、彼の悪名高きテル=テリ・ボルス及びその人形の格好だった――自らを贄とする恐るべき儀式で以て、雨を降り止ませようとした狂気の魔法使い――太陽に取り憑かれ、その恐るべき光と熱を大地に解き放たんと首を括りかけるが、間一髪、民衆によって引きずり降ろされた挙句、火刑に処され、二度と蘇らない様、その遺灰を雨の中に撒き散らされた――伝説は、命日は、年間の中でも取り分け大きな祝祭となり、その日が来ると人々は、彼を模した人形を使って、在りし日の光景を再現する――何を隠そう、ルイク・ヴェヌスバーグの生まれた日がその日であり――幼い時分は体の所為で、歳月を重ねてからは妹の為に――とは言え彼女は気にしていなかったが――一度も参加する事無く、ただじっと見ているだけのものではあったけれど、豪雨の中、縄をずりずり火刑台へ向けて人形を運んで行く市民の朗らかな笑顔は、そして、遠くからでも良く見える、数十、数百を超えるテル=テリ・ボルス人形を薪とした篝火を囲いながら、天の主への感謝を込めて、想い想いの調子で歌われるイルヤース都歌は、実に馴染み深い代物だったのである。
ただ、そうは言っても、こんな所で、その格好をした者に出会うとは、まるで予想だにしておらず、ルイクは動揺も露に、ソフィへ、その背へ向けて語り掛けようとした、
――曰く、『太陽の沈まぬ国』……誇りを込めて、喜びを込めて……
所で、別の柱から現れたのは、老人と同じ色彩、同じ格好をした、もっと若い男で、
――誇りと喜びが、嘆きと哀しみに変わったのは、何時の、誰の、何故なのか……
――何時かは知らない、誰かも然り……けれど、何故かは知っている……
――全ては企て、恐るべき企て……聖者を堕とす、悪魔の所業……
それが合図と、唄う様、演じる様、一つの柱に一人の黒子が、老若男女それぞれの、だが共通の衣と飾りを身に付けながら、次から次へとルイクの前に姿を現す、
――けれど止まない雨は無い……
そしてはっと振り向けば、何時の間だろう、ソフィの身形も変わっており――黒子で通ってしまう、その姿を彼等に馴染ませながら、皆と共に彼女はこう叫んだのである。
――聖テル=テリ・ボルスの名の元に……人々と世界に、光あれっ……
●◎○
……――思い返せば余りに陳腐で、芝居掛かった説教だったが、地と数と絆――逃れさせない場所と人数、そして逃げてはいけない者の存在は、茶番を迫真へと昇華した。
――ちょっと強引だったかしら……ごめんなさいねルイク、あんな目に合わせて……
――嗚呼全く……啓蒙、なんて、いきなり受けるものじゃぁ無いな、ソフィ……
一体どれだけ篭っていたのか――沈む事を喜ぶべき、体に毒である筈の斜陽すら懐かしい程の長き時を経て、ルイク・ヴェヌスバーグはようやくと地上へ戻って来た。
頭巾と黒眼鏡の下の顔は、すっかり憔悴し切っており、睡眠が、休憩が必要なのは、陽を見るより明らかで――彼をここまで連れて来て、今はそっと支えながら、寄り添い歩いているソフィエル・ネイトの表情も、嘘偽り無く曇り、翳ったものだったけれど、吐息混じりの台詞の後に笑みが浮かび上がれば、輝きの兆しがそっと灯り、
――やっぱり、一言伝えておくべきだったわね、本当にごめんなさい……でも、何にせよ、貴方はこれで私達の味方……こんなに嬉しい事は無いわ……
その温もりが自身へと向けられるのは、片腕をそっと包み込むのは、それこそ嘘偽りなく嬉しいもので――どういたしまして、だなんてルイクは笑い、白髪混じりの黒髪から漂ってくる素敵な匂いを肺腑へと収めた、が、直ぐにそれは上辺だけのものとなる。
その脳裏に浮かび上がるのは、地下で散々聞かされた、所謂、真実、という奴だった
イルヤースに生きる殆どの黒子に寄って構成された、聖テル=テリ・ボルスの信奉者達曰く――彼等は自らをそう呼んでいた、誇りを込めて、喜びを込めて――今のこの常雨の世界は、意図的に改竄されたものであり、自然な形では無いのだという。
――最初に疑念があった……黒子ならば誰もが思う、ある一つの疑念だ……
老人――平等の名の元に否定したが、しかし実質的な一団の長であり祖――は、オーソン・ジュマノルと自己紹介すると、鷹揚な身振り手振りの元に、そう語り始めた……
――つまり、あの雨という奴は、一体全体何なのか、という疑念だよ、ヴェヌスバーグ君……空から降って来るあの水滴……肌に触れれば立ち所に見を焼き、苦痛が恐るべき勢いでやって来る……忌々しい代物……君達にとっての、陽光の様なものだ……
――だが、冷静になって考えれば、それが違うという事が見えて来る……君達は、そも強い光自体に弱い訳だが、我々の場合、そうでは無い。喉が乾けば水を飲むし、体が汚れれば湯に浸かる。時に暑ければ、海や川へと飛び込んで……勿論これは、雲一つ無い夏の昼、なんて限られた時にしか出来ない事だが……兎に角、言いたい事は解るだろう、ヴェヌスバーグ君……問題になるのは、雨、ただその一点だけなんだよ……
――一昔前なら、それは呪いだった……前世の行いが悪かった者に与えられる報いの雨だと……笑わせてくれる……今の科学は、この症状が、雨に対する過剰な防衛反応だと言っていて、多くの者達がそれを頭から信じている……黒子からすれば、これもやっぱり笑い事だ……何故と言って、雨は、水は、物質つまり形あるものだと、同じ科学が言っているのだから……形あるなら、地に落ちた所で何も変わらぬだろうに……だが、かつて雨であった地の水に対して、我々の体は何の反応も示さないじゃないか……
――無論の事、説ならある……地に含まれる物質が結び付いてどうの、害のある物質は直ぐに天へと昇ってこうの……成程、成程、そういう事も、言えなくはあるまい……
――だが、私はここを見つけた……隠された聖域を……そしてこの機械を……
――ヴェヌスバーグ君、この機械こそは偉大……はっ、偉大と称されるノアであり、天候を管理している存在なんだよ……雨を降らせているもの、それがこいつだったんだ……微細な機械を大量に散布する事で……黒子はその活動に反応していたのだ……
――尤も、正確に言えば、それは機能の一部でしか無い……管理自体が、これの機能であり……その機能自体を駆使して、私は知ったのだ……未だ朧げなのは確かだが、しかし前よりかは遥かに確実に見通せる様になった……そう、真実、というものを……
――我々は、知識を得た……例えばこの場所が何処にあるか、解るかねヴェヌスバーグ君……街の地図と、地下通路を歩き巡った距離を思い浮かべられれば、察せられるだろうが……ここは水晶宮、君の仕事場の中なんだ……底の底の、そのまた底、という所か……そら管理機械とは、繋がっているんだ、害なる機械は塔の頂上から出されている……扉が見えるだろう? あれが出入り口なのさ……本来であれば、ね……
――行って見るのも良いが、教えてやろう……そこは今閉鎖されている……宮の側からここへは来られないんだ……あの偶然見つけた通路を、ぐるり遠回りしなければ……
――何故か……その答えは、明々白々だぞヴェヌスバーグ君……つまり、役人どもは隠しているのだ……この機械の存在を……雨が機能だというその事実を……そして自分達にとって、自分達が属する人種にとって、都合の良い様に天候を固定してしまっている……その皺寄せを、不都合の全てを、我等黒子に擦り付けて……
――だが、もう、そうは行かない……
――我々はこの世界を、元の正しい姿へと返す……雨を忌避する真の世界へ……その為の活動は、じっくりと行なって来た……人々が珈琲と称する、あの黒い苔の様に……
――計画は順調だ……もう間も無く、悲願は成就するだろう……聖テル=テリ・ボルスの不名誉な扱いは払拭され、彼の人形が崇め奉られる日がやって来るだろう……
――だが、その為には、君の力が必要なのだヴェヌスバーグ君……君の愛する者の為にも、そして君の妹君の為にも……是非、我等に協力してくれたまえ……
まるで空想小説の様に荒唐無稽な話だ。今思い出しても、そうとしか感じられない。
だが、その一端には、恐ろしい事に真実の――過半が狂気に覆われているが――響きが篭っており、ルイクは身震いしつつも、納得せざるを得なかったのである――加えて、帰って来る宛も無ければ、ソフィとスティカを上げられては、仕方も無くて、
――ルイク、貴方の立場はきっと、いいえ確実に厳しくなる……命の危険も……でもどうしても、貴方の力が欠かせないの……お願い……スティカちゃんの為にも……
――……嗚呼、何、構うまいよ……君がそう願うなら……
そして、その片割れ――一体何時から、こんな活動を行なっているのか――が、愛の名の元に微笑みを投げ掛けるなら、駄目押しも良い所ではあったけれど、微笑み返すルイクには、ある疑念が浮かんでいた――妹は、そんな事を願うだろうか、と……
●◎○
……――ルイク・ヴェヌスバーグが具体的に求められた協力、それはある引揚品を手に入れるというものだった――聖テル=テリ・ボルスの信奉者達が実際どれだけの力を、本当に世界を変えられるだけの力を持っているかは置いておくとしても、その行動は正に具体的な違法行為であり、当然見つかればただでは済まない――『大渦』の轟音が蘇る程度に、それは危険なものだった。彼自身、自称健常の一人なら、自分の身にならない行為でその愚を犯すなんて、それこそ愚かであり、ソフィエル・ネイトの誘いで無ければ、とても受ける気にはならなかっただろう――なんて、平穏無事なる雨の下に居るからこそ、浮かんで来る思考ではあったのが。
何にせよ、最早引き返す道は跡形も無く、協力するより行く先は無い――オーソン・ジュマノルとソフィ曰く、成功の暁には、相応の報酬と立場を与えられるそうだ、はっ――水晶宮の役人でありながら、それを裏切っている二重生活の始まりだった。
ただし、救いは無い訳でも無い。
『天使の光輪』――一般的にも装飾品として、それなりに浸透している引揚品は、記録省の人間からすれば頭の痛い、持て余す程大量に発見されている遺物である。頭に輪を、背に翼を――これが何なのか、昔は良く解らなかったが、どうも鳥のヒレに似た部位らしい――有して、空を泳いでいたという天の御使は、見ての通りもうこの世には居らず、彼等が何故消えたのか、居なくなってしまったかに関しては、今でも盛んに議論が行われている。珍しい事に、忘れ去るべきかそうで無いかの判断が未だ付いていないという事で、そうである以上、仮置きの数は増すばかりの有様である――と、なれば、一つや二つや三つや四つ、無くなっていた所で、誰が気づくというものか。
それに、必要なのは遺物自体では無い――曰く、これは名前通りのもので無く、ある種の記録装置なのだという。現代人が雨に破れない紙を、滲まない墨汁を使用している様に、紀元前の者達は、記録が失われない様、この中にそれを封じたのだ。その封を解いて、記録を引き出すには、専用の機械を必要として――例えばそう、ノアの様な、管理機械が。
そして今、信奉者達は、出来の悪い冗句に囚われている――偉大なるノア、彼等がそれを手中に収めながらも、未だに雨を止められていないのは、呆れた事に、その方法が解らないからなのだという。それが天候を管理している事は、機会自体に記録された情報によって判明しているのに、どう管理しているかは不明のままなのである。
と、ならば、調べるのは内側で無しに外側であり、そうして選ばれたのがルイクだった――成程、それは理に適ったものだろう。親しい黒子と螺鈿子を持つ水晶宮の、忘却の管理人ならば、密かに光輪を持ち出し、知識のみ抜き出して、何事も無く元に戻すなんて、造作も無い事だから――行為自体が非効率である点を抜かせば、本当に理に適っている。
開けて見るまで何もかも解らない書物並ぶ図書館から、どれだけの時間と、そして幸運があれば目当ての内容を探り出せるのか、なんてルイクは微塵も考えたくなかった――信奉者達が、その事を考慮せずに依頼しているのでは無いかという疑念も含めて。
それでも彼が行為、この危険で実を結ぶ可能性の無い行為に耽ったのは、勿論ソフィ等に対する負い目もあった訳だが――一体何を以て、こんな活動を始めたのか、本当に――それ以上に、そしてまたしても、知的好奇心が絡んだものだった。
最初こそ嫌々ではあったけれど、やがてルイクは、誰に言われる事無く、我が道を進み始める――信奉者達が所有する遺物、ノアの子孫と言える、持ち運び可能な小型の管理機械を借り受ければ、彼は毎日自室に篭り、過去の記録、記録の過去を紐解いて行った――如何なる原理だろう、雨を介す事も無く、中空に青みがかった光が灯されれば、音を伴い、操作に従い、今は無き言の葉と存在の影が、薄暗い部屋の中で舞い踊る――
光輪の中身は様々だったけれど、現代人から見て、それ自体不思議なものは何も無かった。少なくとも、意図は通じる――教養か娯楽か、その両方である。何が書かれているか、何と喋っているか、半分も解らなかったが、残りは今でも通用するものだったし、映像があれば、解らずとも解って来るものであり――核心に至るものは一向に出て来ないけれど、ルイクは次第に、紀元前の世界、誤解無しに正しく解釈されたその姿を理解し始める――本当に雨と晴の関係が逆である事、太陽は古代人にとって当たり前の、寧ろ無くてはならない存在なのだという事、多くの動植物が現代のそれと全く違う姿、違う名前をしている事、遺物がただの機械として、当然の様に使用されている事――等々などなど……
中でも眼を引いたのは、やはり人々の容姿だろう――青褪めた肌、白い髪、真っ赤な眼、なんて典型的容姿はまるで居なかった。肌はもっと明るく、傍目に健康そうであったし、髪の色は金や赤、茶色に、そして黒が、長短と濃淡、性質を代えて伸びている。その眼の色もまた然りに、鮮やかな光が瞬いていれば、ルイクは何とも不思議な感慨を得た――顔立ちが似ている分、その印象はますます強いものとなる。
そして、最も驚愕した事実もまた、その色彩に絡んだものに他ならない――そこには黒子が居たのである。いや厳密には、今の黒子とは大分違っている。人々が陽の光を恐れぬ様に、彼等は雨を恐れておらず、姿形は何処かもっと野性的で――だが、それでも肌の色は、確かに良く知られた奇形のものであり――にも関わらず、彼等の数は少なくなかった。しかも、多くが、平然と生きている――同じ太陽太陽の光の元、或いは同じ雨の雫の下、健常の者達と共に、というよりも、自身まるで健常であるかの様に、何の別け隔ても気負いも無く、彼等は日々を過ごしている――周囲の反応もまた同様で……
そんな人々の様子が当然の如く描写される度、ルイクは思い浮かべずには居られなかったものである――自身含むイルヤースの一般市民達の姿を――彼等と違う者という、黒子の姿を――その間に具合良く居る螺鈿子、ソフィエル・ネイトと、彼女が従う白衣の集団の姿を――そして最後に己が妹、スティカ・ヴェヌスバーグの姿を……
●◎○
……――繰り返し過ぎる日々と、繰り返し蘇る日々の中で、想いは煮え滾った。
やがてそれは勢い良く沸き立ち、ついに瞬間が訪れる。
古き、懐かしき言い回しに曰く、水面が王冠を被る、その時が……
●◎○
……――方法を発見した、というルイク・ヴェヌスバーグの報告は、ソフィエル・ネイトからオーソン・ジュマノルへと通じ、瞬く間に他の信奉者達へと広がった。
ただし、方法を発見する方法を発見した、というのが本当か――結局の所、『天使の光輪』には、天候管理のやり方なんて、そのものずばり載ったもの等無かったのである。彼が見付けたのは、それを見ている管理機械を使用する者達の姿であり、それを見様見真似した結果が発見へと繋がったに過ぎない――結局、求めるものは外には無く、内にこそ存在した――冗句の落ちとしては、なかなかどうして、悪くあるまい。
それに、聖テル=テリ・ボルスの信奉者達にとっては結果が全てだった。過程になんて興味無ければ、如何様にという手段も知らぬままに、彼等は聖域へと集合した。
外は晴れ、それも天気巫女が慌てる程に雲一つ無い晴れであれば、その陽光の容赦の無さに、防護服の所為でいや増す暑さに、ルイクの顔には疲労と汗が浮かんでいたけれど、彼を囲う者達は全くの逆だった――長にして祖を中心に、ずらりずらりと甲蜘蛛の卵の様に集う事、百人を超えるか超えないか、という数は、首都の全人口に比べれば大したもので無いけれど、それでも黒子ばかりが、ここまで揃うとは珍しい、いやありえない事態である。尤も、全員が全員そうという訳では無く、ルイクの傍らにはソフィが微笑んでいるし、黒い顔に混じって、白い顔もちらほらと目に付く。彼等にも何か理由があるのか、と打刻しながら見渡せば、何時か何処かで見た事のある、と考えて思い出す、かつての自身の同僚が居て、期待と羨望の入り混じった視線を投げ掛けている――生きていた事に、ここに居る事に、喜んでいいのか悪いのかで、ルイクはかつて彼が言っていた台詞を思い出し、視線から逃れ様にと、投影へ向けて意識を集中させるが、しかし余り効果は無かった――期待と羨望の入り混じった視線、なんてものは、この場に居る彼以外全ての人間が持ち合わせているのだ。それは愛しい人間ですら例外で無ければ、ルイクは何とか早く終わらせようと、十本の指を駆使して管理機械を、偉大なるノアを弄繰り回す――後ろめたさを覚えぬ様、一打一打を強めて行き、そして、
――これで、終わりだ……
誰にとも無く呟かれた台詞と共に、タンという軽快な打刻音が響き渡れば、それは彼を囲んでいる者達へと波の様に、輪の様に広がり――大歓声へと変貌を遂げた。
――光あれっ、光あれっ、光あれっ、光あれっ……
その叫びは動きを伴い、白布が、荒縄が、花の様に、枝葉の様に揺れ動く――それを呆然と眺めながらルイクが息を吐き出すと、震える背中に温もりが触れて来て、
――ありがとう、ありがとうルイクっ……何もかも、貴方のおかげよっ……
視界一杯と、嬉しげに涙へと濡れるソフィの顔が広がって――続いて柔らかい感触と心地良い温度が唇全体に拡がれば、彼は暫しそれに浸ってから、ゆっくりと身を離し、
――どういたしまして……大した事はしていないが、そう言ってくれて嬉しいよソフィ……そこまで喜んでくれるだなんて思ってなかった……本当に……本当に、……
そう笑みを浮かべ、視線絡ませ、それからそっと瞳を瞑りながら、
――本当に……ごめんソフィ、許してくれ……
囁かれる謝罪が彼女の耳を付き、意識を突いたのと、正式にして正式では無い入口を抜かした三方の扉、開かれぬ筈のそれらが外より開け放たれたのは、同じ頃合いで――歓喜の絶頂を破る侵入者に、ルイクを抜かした全員が驚き、その場へと凍り付く。
現れたのは、眼にも痛々しい黄色の外套を身に纏い、太い腕に見合った太い棒状の機械を、電磁棒を握り込んだ屈強な体付きの男達――彼等が警邏省の人間なのは明らかで、次々に現れるその姿に、事態を半ば飲み込んだ者達が、怯えながら後ずさった。
けれど、最後に入って来た男、普通の身形の年嵩の彼が一体誰なのか、ルイク以外に知る者は居まい――その者こそ、彼のかつての友人にして元同僚であり、
――報告をありがとうルイク君……忘却係の君の活躍、実に、実に立派だったよ……
統括省の者――今のルイクと黄衣の兵達の、最終的上官に当たる人物だった……
●◎○
……――搬送は、思いの外、簡単に行われた。
ルイク・ヴェヌスバーグの裏切りが、信奉者達にとって余りにも予想外の事だった――一体彼等が、何を予想していたのか、甚だ疑問ではあるのだけれど――勿論それは大いに在り得たし、三人に一人の割合で配置された警邏省の者との腕っ節の差も、また少なからず関係しているに違いない――肉体的訓練だけを積み重ねて来た彼等の力加減は、雷に例えられる程なのだから。
けれど一番の影響は、空模様だったに違いない――わざわざ水晶宮を通る事無く、暗く長い道を回って、『雨の後の命名処女地区』が一角へと引き摺り出された人々を待っていたのは、太陽で無く黒雲だったのだ。予報とは似ても似つかないそれは、今しも雨滴を降り注ぎそうな具合であり、黒子達の多くはただ呆然と立ち尽くしてしまい――電流の一撃を以て気絶させられ、抱え上げられては、狭い馬車の中へと押し込まれて行く。いとも容易く、呆気無く――オーソン・ジュマノルだけは幾分抵抗を見せたけれど、見せただけだった。結果は何も変わらず、彼もまたぐったりと放り込まれる。
そして、その何処か牛を思わせる――現代でも過去でも、愚鈍っぷりは余り変わらない――一連の流れを、行列を、彼等にも増して虚ろな瞳でルイクは見詰めていた。
実の所、彼が見ているのは人々で無く、遥か彼方の空、水晶宮の先端より放たれている、濃厚な銀砂の流れであり――これが星霜というものか、と、自身始めて見る活動中の微細機械という奴に、ルイクはぼんやりと、そんな感想を浮かべていた――一体何を勘違いしているのか、熱心に彼を褒め湛えている、統括省の上官の言の葉を聞き流しながら、
――ルイクっ……
と、その時、馴染みの声が向けられば、彼ははっと我に返る――引き戻した視線の先に、今しも連れて行かれようとしているソフィの、恐るべき形相が捉えられ、
――貴方……貴方っ……ルイクっ……離して、このっ……信じてたのにっ……
最後の台詞の意外な苦痛に、そっと目元を大地へと伏せ――けれど、押し当てられようとする電磁棒を制止しつつに再び上げた瞳は、はっきりと彼女の方を向いており、
――ソフィ……許してくれ……僕にはこうするより他なかったんだ……
――一体何を言って……貴方は私を、私達を裏切ったのよルイク……どうして、絶対に、許さない……許してなんか……皆救われて……スティカちゃんだって、きっと……
それは、悪魔じみたニ色の瞳に、涙が、純粋な哀しみによる涙が浮かんだ事で、またしても変わりそうになったけれど、ぐっと堪えて耐え忍べば、ゆっくりと頭を振って、
――ソフィ……それは誤解だ、僕は君達を裏切っていない……ただ僕には出来なかったんだよ……君達の為に、他の全てを裏切る事は……それに、……
――そんな、事……それに……それに、何、よ……何なのよルイク……
――それに……スティカの事も誤解している。妹はただ流行病で亡くなったんだ……健常と呼ばれる者達と共に、数百人に渡る犠牲者の一人として……雨が降ろうが光が差そうが、関係無く、彼女は救われなかったし……それも望んでいなかったし……
それから天を仰ぎ、何かに目を細め、黒眼鏡を取り出した、その瞬間、
――だから、ソフィ……君も妹も関係無い、これは僕の答えなんだよ……
分厚い雲がいきなり裂け、強烈な日光が、傍観していた上官の元へ注ぎ込まれた。
鼓膜を破る様な絶叫が、ルイクの耳元で上がり、彼は眉間に皺を寄せる――絶対の予報を変える事で、管理方法とその陰謀を証明したのだ。その上、屋内から来たならば、日除けなんてしている筈が無い――頭巾を目深に被りつつ、彼は彼をそう見下ろした。
冷静さは、予め知っているからこそのものだったが、しかし周囲はそうは行かない。余りにも唐突な、余りにも限定的な天候の変化に誰もが牛の如く我を失ってしまい――だからこそ、次に起こった変化に対応出来たのは、たった一人の例外だけであった。
丁度信奉者達の行列が居る真上に、今度は大粒の雨が降り始めたのである――まるで彼等を狙い澄まして――テル=テリ・ボルスの格好には何の加護もありはせず、そして彼等もまた予報を信じていたならば、他にどんな雨除けがあるものか――先にも増して盛大な絶叫が上がり、肉の焼ける匂いが立ち込み出せば、何者も恐れない黄の男達も、色めきざるを得なかった訳だが、当然の様に、気の違った空は彼等も見逃さなかった。
銀の発光――それを合図に、雲はより神経質に形を変えて行く――縦に横に、と、岩の如く亀裂が走れば、その隙間から溢れる光は、正に太陽の矢であり槍であり――指揮者が防げないものを、どうしてその部下が防げるだろう――季節外れのテル=テリ・ボルス祭りに相応しい、男達の野太い悲鳴が、合唱の如くに響き渡った。
秩序だった取り組めを以て、雨滴と陽光が同じ時刻に降り注ぐ――平等に、公正に、誰の、彼の、区別無く――イルヤースに生きる人間がこれまで体験した事の無い天気、何と呼んでいいのかも解らない天候は、刻一刻と、その勢いと範囲を狂わせる。
最早空は継ぎ接ぎ状であり、一面を構成する部分なんて、まるで別の日の装いだった――青空がちらと覗いている、その隣は素知らぬままに固まった灰雲であり、更に隣は降り頻る小雨、大雨、豪雨に暴雨、と続くに見せ掛け、在り得ない程の晴れ渡りが、合間合間に穿たれ光柱を成し、更にその隙間を縫う様にして、雨天の変調、雪やら雹やら雷やら犬猫やらが――気流の関係か、冗談に聞こるかも知れないが、しかし最後も真実で、空に居る間は兎も角として、大地にぶつかり、四肢と鱗とその中身を盛大にぶちまける姿は、笑いたくとも笑えない――普通の時でも殆ど現れない鬱憤を解消する様に暴れている。加えて、チェス盤にも似た天の模様は、耐えず変動を続けており、そんな出鱈目具合はとても予想出来るものでは無く、逃げ様にもどう逃げたらいいか、まるで理解出来ない始末であり――
そして気が付けば、『雨の後の命名処女』地区どころでは無い、都市全体に阿鼻叫喚が反響していた――憂鬱な晴の日が突然終わり、健やかな雲が姿を見せた、その数瞬に惹かれて外へ飛び出した者達と、何日ぶりかの日光を浴びようと外出したは良いものの、突如姿を見せ始めた何時も通りの雲に機嫌を損ねて帰ろうとしていた、聖域に至っていない極少ない黒子――どちらも全く油断をしていた所に、未曽有の天候が襲い掛かったのである。
逃れられた者は殆ど居なかった――屋根の下に入る、たったそれだけの単純な方法で防ぐ事は出来るのに、そもそも屋根の下まで到達出来ないのだ。例え自分の今居る場所が安全な所でも、瞬きしている間に変わってしまう。一歩、二歩と踏み出した先も同じ状況なら、既にして身を晒していた者が、再び身を潜める事はまず出来ない――無事な者とは、大半がそもそも危機に瀕していない者、外出していない者であり、彼等が不安げに体を抱き締め抱き合い、助けに駆け付けたい衝動を必死に抑えて、窓より見守るしか無い中――とは言え、それでも、巻き込まれる可能性はあった、何が降って来るか解らないのだから――助かった殆どは、幸運な事に、外に出ようとしていた、或いは出ても間も無かった所であり、先にも述べた様に例外はと言えば、事態に反応する事の出来た人物、即ち、この現象を引き起こした張本人であるルイクと、彼が馬車の中に引き摺り込んだソフィ位で、
――ルイク……あ、貴方は……貴方は、一体、何をしたの……
聖なる牛の群れが呻き呻き、身動ぎしている傍ら、彼女は震える声で問い掛ける――のた打ち回っている者へと追い討ちを掛けるべく、一切の躊躇を見せない天の様子をひしと見守りつつ、向けられたその言の葉の中には、驚愕と悲哀、そして確かな非難の念が篭っており――締め付けられる胸元を気取られぬ様に抑えながら、日除け頭巾のその下で、ルイクは務めて淡々とした表情と言の葉を繕い、ただ真相のみを告げる……
――……僕がノアを統べる技に気付いた時、真っ先に行ったのは、上司への報告だったよソフィ……理由は言った通り……僕は役人でもあるんだから……
――……言い訳だね、ごめん……でも、そんな風に僕は全部を伝えた……文字通りの全部を……そしたら何と返って来たと思う、ソフィ? 彼は僕にこう言ったんだ……
――封印を解く時が遂に来たか、と……
――おかしいと思ったんだ……もし水晶宮がイルヤースの何もかもを……ノア含めて、何もかも支配しているのだとしたら、何故晴れなんかが存在するのか……いいや、雨だって、全部が全部、本意である訳が無い……だったら、屋根も傘も外套も、その他諸々、必要ある訳が無く……雨の所為で、誰かが死んだりする事も無い……
――そのまさかさ……彼等も同じだったんだ……同じだったんだ、ソフィ……
――上の連中は、それが何かを知っていた、けれど、どうすれば良いかは解らなかった……君達と変わらず、けれど決定的に違ったのは、状況がそれ程悪いものでも無いというただ一点で……だから彼等は封じていたんだ……少なからず、今よりかは悪い状態にならない様、誰も彼も触れぬ様、その存在自体を隠して来た……
――けれど、もう隠す必要は無くなった……僕がそうと伝えたんだから……
――……僕は君達の行為を認めてあげられない……そのつもりも無いんだろうけど、さ……それは結局、白を黒と変えるだけの事だから……でも、だからと言って、君達が虐げられて良いだなんて勿論思っていない……これ本当さ……
――だからソフィ、僕はこうノアに設定した……どちらでも無い様に……雨でも無ければ晴でも無い、一切合切、滅茶苦茶な模様に、天候を固定してやった……皆が救われる、そんな事が昔見たく期待出来ないんだったら……皆が救われなければいい、と……
――うん……正直やりすぎだと僕も思うよ……でも、これ位やれば、子供だって解る筈だし……僕が手を加えられた以上、永遠である筈も無い……
――……判断は……そうだね……君が決めてくれ、ソフィ……
そして、そこがルイクの限界だった。
愛する者――今この瞬間に至って尚も、想いは変わらず、胸の奥がきりきりと軋む――その名を以て語りを締め括ると、彼は馬車の外へと飛び出した――自身が齎した空模様、一歩歩む毎に降り注がせるものを尽く変える天の下へ――古びた石畳の、薄汚い染みと化している白と黄の外套、焼け爛れ燻っているニ色の肌の間を通り抜けながら、前、ただ前を目指して、ルイクは只管駆け続ける――背中越しに叫ばれる己が名前に、そこに篭った困惑の響きに、しかし一度も振り返る事無く、一心不乱と突き進んで……
●◎○
……――逃走は、思いの外、簡単に行われた。
記録に無い――無いという記録すら無い、という記録すら云々――前代未聞の異常気象に、水晶宮の力は半分以下となり、庇護の大半を失った市民達は、自分自身の選択で以て事態に対処する事を強いられた――受け入れざるを得ないこの現象の中で、彼等が導き出したのは、内に篭り、天の主が正気付く時を待って耐え忍ぶ――これを裁きと受け取るものも居たが、だが多くは自らの潔白を信じていた――事であり、そしてもう一つは、この混乱こそ機会――水面が王冠を懐く様な――だと捉え、自力を信じ行動する事であった。
ルイク・ヴェヌスバーグが乗じたのは、後者だった――浮かび出された乃至は照り出された潜在的暴徒と、身に帯びた役割しか知らない黄衣の男達――その多くが、程度の差こそあれ、銘々酷い焼け爛れを帯びている――そんな彼等の諍い場と化した路上の影を、隅を、浮浪児童達と共にルイクは駆けずり回り、必要最低限の生活品を――麻痺していた、けれど、落としてしまった訳では無い良心を元手に仕入れて行く。
それから、日光と刺客とその他諸々が何時我が身に降り掛かるかと怯え続ける幾日を過ごした後に、ルイクは漸く紛いなりにも住処と呼べるものを、己以外の誰からも見放されていた廃墟の内に定める事にしたのだが、驚いた事に、そこには既に先客が居たのである。
――お帰りなさい、兄さん……外は、大変だったわね……
古くは無い、しかし懐かしき声に、ルイクは目を見開き、回した把手そのままに固まってしまった、けれど、直ぐに苦味だけの笑みを浮かべれば、扉を後ろ手に閉め、
――ただいまスティカ……嗚呼、全く……本当に……本当に……
こうして鳩は再び泳ぎ出す――
彼は今日に至る数週間を、かつての如く妹と共に暮らして来た。
奇妙な話だが、ルイクは理解していた――視界の隅、自身の傍らに常に居るスティカ・ヴェヌスバーグの姿が、自らの脳裏にのみ灯されている幻影であるという事を。何故彼女がここに居るのかという事を。そして――彼女で無ければならないのかという事を。
賢明なスティカ――今なら痛い程良く解る。彼女はソフィを不思議がっていたのだ、純粋無垢なる想いとして――何故この与えられた境遇を受け入れないのかしら、と。
何故? 何故と言って、スティカは、妹は受け入れていたのだ。ろくろく外に出られない我が身に対して、それを強いる周囲に、環境に対して、彼女は一言足りとも不平不満を漏らす事無く、限られた人生とそれを取り巻く世界を愉しんだ――それは最期の時にも変わらず、病に喘ぎながら、彼女はこんな台詞を残して逝ったのである。
――嗚呼……これで、漸く私も……雨に触れる事が出来る、って訳、ね……
そうして浮かぶ死の表情は衰弱した、しかし安らかな、美しい笑みであり、ルイクはこう思ったものだ――彼女の様に生きれたら――そして、彼女の様に死ねたら……
だが、哀しいかな、彼はまた知っていた。
それが、何不自由無い檻の中、箱の中で一生を終えたが故の、染み一つ、傷一つ無い綺麗な黒い肌であったが故の、類稀な幸福であり贅沢であるという事を――誰もが望んで成れる存在では無く、また望むべき存在でも在り得ない。
だからこそ、ソフィエル・ネイトは望む事無く、ただただ行動したのである。
これもまた、今になって解るのだが、彼女の聡明さは、螺鈿子である境遇から来ていた。殆ど黒子でありながら、しかしそうは成り切れず、異質さを際立たせる白、聖痕の白に苛まれていたソフィ――スティカも言っていたでは無いか、ミルクを入れた珈琲は別物、と――さらり雑談の種に供された生立が、実際どの様なものだったか、そして最も重要な、彼女の思い、考えが解るだなんて、ルイクには口が避けても言えなかった、けれど、その然りげ無さは、彼をも巻き込んだ聖テル=テリ・ボルスへの活動と熱狂とは相入れず、暗に答えを伺わせる――服の下の肌が、ある種の啓示を示すが如く。
確かにソフィは聡明だった。その聡明さを行為に移せる女性であり、だからこそルイクは惹き付けられたのだが、同時にそこには性急さもあった――己が生に忙しないが為に、多かれ少なかれ、他人の生まで目が向けられない、そういう性急さだ。
尤も、そんな視野をソフィに求めるというのも、酷な話かもしれない。何せ、螺鈿子とは黒子の変種であり、これまで一度足りとも顧みられる事の無かった存在なのだから。彼女がされて来なかった事を、彼女にしろだなんて、何とも都合の良い事である。
それに、例えその精神が一義的、一面的なものであったとしても、力強さの裏返しであるというのは何も変わらない――何もしないよりかは、余程好ましい事だろう。
そう――ルイク・ヴェヌスバーグ比べれば、間違いなく素晴らしい行いである。
一体全体ルイクは何をしたというのか――スティカの様に、世を受け入れる器も無ければ、ソフィの様に立ち向かうだけの力も無かった彼が選んだのは、詰まる所、何も選ばないという事に他ならない。知識も待遇も役割も、与えられれば貰い受け、その状態に甘んじて来た。勿論人間なのだ、己から望んだものも少なからずあったけれど、切っ掛けは内に無く、内に無いからこそ、肝心の時に躊躇する――僕の答え? 一体どの口がそんな事を言えたものやら――そして、その様な優柔不断が招いたのが、大混乱――結果を先延ばしにしただけの大混乱だった。白でも無ければ黒でも無く、勿論その間の存在でも無い、両者が混然と一体になって気の違えた、灰色に染まる曖昧な世界――
そこでルイクは思い出す――結局は解らずじまいだった、紀元についてのその見解、その神話……愚かである所か、悪しきものでもあった紀元前の人々への裁きとして、恵み深き天の主は雨を降らし給われた。その両の眼から、怒りと哀しみと、ほんの少しの喜びの涙を流す事で……父方の叔父だったか、彼は誕生日を経たばかりの幼い甥へ向かってそう述べると、琥珀色をした生命の水を瓶から直接飲みながら、人形ずりずり群集へと合流していったものだ。イルヤース都歌を、喜びを込めて叫びつつ……
当時のルイクは何も言わなかったし、言えなかったけれど、今ならば、紀元前の人々とやらの部分含め、否定する事が出来る――即ち、雨が降る事、それ自体が、裁きなんかである筈がない、と――降り続けた先か、降り止んだ後か、それは解らないが、何にせよ、雨の後にやって来るもの、それが裁きなのである。そして、その間こそは猶予にして待ち時間ならば、ある意味にて、決定づけられていないという意味に置いて、それは、それ自体が、罪であり、また然りの罰であるのだ――死者には迷惑な事だろう、最早居ない筈の妹に、一人きりで完成を迎えたスティカに頼らなければならない程の孤独と隔絶と、にも関わらずの明白さの欠如を実感として感じながら、昼夜途絶えるという事を知らない嘲笑の声を受けつつ、今のルイクはそう己を省みていた――覚悟、もっとちゃんとした覚悟をしていれば、受け入れられたかも知れない、しかしそうであれば、そもそもこんな道を進んでいなかったかもしれない、だが――なんて、その苦悩すらも模糊なるままに……
けれど、それももう、お終いである。
誰かの、もしかしたら何かの到来を告げるノック音は、一向に鳴り止まない――クスクス笑いもまた同じであれば、ルイクは己を掻き抱いていた片手を、そっと離した。そこに伸びる五本の指を力無くと開いていけば、見出せるのは何時かの記憶と殆ど同じ、染み一つ、傷一つ無い綺麗な掌であり――彼はここに来て始めて、過去の行いを悔いる為の溜息を漏らしたが、しかし今更後悔なんてして、何の、誰の役に立つ? そんな後悔こそ今更というものであれば、もう一度吐息出して、ルイクは扉をそっと見据える。
いいさ全ては成り行き次第だ――これまでも、ならこれだって――彼はそう腕を伸ばし、伸ばした途中で躊躇して、震える拳を握り締めると――それすら弱々しいものだったが――今度こそ、とばかりに把手を掴み、ぐい、と扉を開け放った。
如何なるものであれ、遂に来た決定的な審判――その是非へと、身を任す為に……
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