「DenPA」
どこまでも、電波の様に透明なあなたの思考。
綺麗なぎざぎざあなたの脳波。
音もなく、姿も見えない。けれど確実に存在する不思議な存在。
気付けばそばに居て、私に情報を与えてくれる。
どこにでもいて、でもその存在は認識されない。
誰もが受信出来ない不思議な電波。
不思議な存在。不思議な、不思議な。
「この話はフィクションです。」
1
すべての始まりはチャイムだった。朝の始まりでもあるし、俺の平和な日々の終わりの始まりもこのチャイム。奇妙奇天烈な事件に巻き込まれるようになったのも、この忌々しいチャイムだった。
出会いは雪が多く降った日の翌日。
朝日は眩い純白で、雪の表面を半透明に溶かしていた。窓の外には雪解けの氷柱。先端に向かうにつれて透明度をまして、雫となる。
俺は探偵のポリシーである挽きたての珈琲をカップに注ぎながら外の様子を眺めている。雪は昨夜大量に降ったので積もっている。近所の子供が嬉々として雪を転がしスノーマンを築いている。途中で断念したらきっと鎌倉になるのだ。
俺の探偵事務所の前の煉瓦道はしっとりと濡れている。雪掻きをしたって雪が全部取り除ける訳ではないのだ。それに折角近隣の住民が善意でやってくれた雪掻きに、文句をつけては人間失格というものだろう。
雑然と資料やファイルが詰まれた部屋には光が入り込んで、影と光が交錯している。空気中の埃にきらきらときらめいた光の筋が、木張りの床を照らしている。そこだけが茶色の絵の具を白で薄めたように白々としていた。
折角開けた窓だったが、やはり寒い。閉めて達磨ストーブに火を灯す。ブリキの煙突は天井を突き破って三階の屋上にまで延びている。高い天井のむき出しの木の梁には大きめのファンがあって、それが熱気を下に押し戻してくれている。その効果を期待して部屋の照明スイッチの隣にあるファンのスイッチも押す。
テレビを付けて適当に朝のニュースと星座占いを聞き流す。
階段の下はタイル張りで、洗面台がある。緩いウェイブの髪の毛の男が鏡に映る。これは俺の顔だ。ああ、いい男だ。
少し骨ばった掌に石鹸をとって泡を立てて、その泡を頬に当てる。それを使って短く生えた髭を剃り落とす。
ちと尖った俺の顎。背は高いしいい男だし、三十手前には見えない若い肌。珈琲を愛するクールな探偵はこうでなくてはいけない。
髭を落としきって冷水で顔を洗う。
顔をタオルで拭く頃にはストーブの中は真っ赤になっていた。
鉄製の真っ黒なフライパンを、事務所の端のライフスペースのダイニングキッチンから引っ張り出してストーブの上。
ウィンナーはフライパンの隣に直においてしばらく時間の経過を待つ。その間にパンは冷凍庫から直接トースターに放り込んだ。
ウィンナーが温まり、自らの油で膨張して爆ぜるのを見届けて卵をフライパンの上に落とす。さらに五分経過。トーストは出来上がり、卵は半熟。三本あったウィンナーはつまみ食いをしたので二本になった。
立派な朝食だと満足しながら珈琲を一口。
さあ、探偵事務所を今日も開くかな。
気持ちのいい朝だった。
パンを頬張りながら玄関に出て準備中の看板をひっくり返して、営業中にする。まるで定食屋である。
玄関に背を向け、アンティークチェア向かう。その時だった。金属の鐘を模したチャイムが鳴る。
しまったと思った。まさか看板をひっくり返して一分もしないで依頼人が来るとなんて思っていなかった。
俺は最高級に美味いウィンナーを摘み上げて齧ると、未練を捨てて玄関を開けた。
「銘探偵さんですね?」
銘とは光栄だが、残念ながらその響きは現実世界だと馬鹿にしているよ。お嬢さん。
二十代前後のすらっとした色白美人だった。髪の毛は長くて、赤い縁のセルフレーム眼鏡、灰色の瞳に実に似合っている。背はそれなりに高く、茶色のタートルネックを着ていた。首回りはふわふわしたファーで出来ていたが、それ一枚だけのようだ。少し寒いのではないだろうか、この時期にその格好は。
そうは思ったが女は不適な笑みを浮かべて俺を観察している。寒そうな素振りは皆無だった。
「……どうぞお入りください」
この科白を、俺はたぶんだがあと十年は悔やむ事になる。
事務所に入ると女はきょろきょろと、物珍しそうに事務所を見回した。まあ探偵という職業は珍しい部類に入るだろう。そしてその事務所というものには興味がでて当然だ。他の客もよくこういった態度をとる。ここまであからさまではないが。
女は体全体から威張った態度を滲ませていた。およそ依頼主の態度ではないが、態度なんてどうでもいい。仕事さえ依頼されればどうでもいい。
「ようこそ」
「仲間を探しているんです」
我が探偵事務所へ。挨拶は途中で千切られた。切羽詰っている依頼主は、たまに自分が何者かを名乗らずに依頼を切り出す事がある。俺はそういう時、話をそのまま聞くという事を心がけていた。言いたい事を全部言ってしまった後は、大抵依頼してくれるのだから。
「お仲間……友達ですか?」
名前なんて後から聞けばいい。
「そうです。私のお友達です。見つけられますね?」
この美人は話を聞きそうにない性格なんだなと、ぼんやり人物像を捉えつつ、話を真摯に聞く。
「さあ、まだ判断しかねますね」
「見つけてもらえないと困ります。わざわざこんな辺鄙なところまで来たんですよ」
辺鄙とはずいぶんな事をいう。そうは言ってもここは割りと一等地だ。ここを指して辺鄙と言うのか。この女は海外にでも住んでいるのか? そんな事を思ったが、もしかしたら山奥などに住んでいて、わざわざ我が探偵者を訪ねてきたのかもしれない。そう思えば悪くあしらう事は出来ない。
「まずは話を聞かないと」
昔、友達を探して欲しいと言ってきた依頼人がいた。その依頼人は、俺に、自分の友達になってくれる人を探してくれと依頼したのだった。あの時はさすがに困ったが、それでも俺は何人かその人に会う人物を紹介してやった。
俺は腕が良いんだよ。
だけどまさか今回はそうじゃないだろう。
「そのお友達の特徴と、お名前は?」
確認のためもあるが、必須事項だ。
「私と同じタイプ。人類型。名前は」
女は聞いた事のないような片仮名の名前を諳んじた。どこの国の人間だ? その何だ。なんたらっていう名前の人間は。
「外国の方ですか、珍しい名前ですね」
「私の星の言葉で、黒い髪の美女という意味」
ヘイ! 今こいつはなんて言った? 星? いやいや、国といったのを聞き間違えたに決まっている。止まりそうになった思考を奮い立たせて言葉を頭の中で変換しなおす。
「綺麗な意味ですね。それで、すいませんがあなたと同じタイプというと、その、見た目ですか?」
そっちの方がまず必要な情報だ。見た目が同じと言うなら、割と美人を探す事になる。楽しい仕事が待っているかもしれない。少し楽しみだ。
「その通り、私と同じ種族なのですよ」
種族。変換。人種。
「……どこの国です」
国だぜ。国。
「私らの星の、北極圏側にある国……」
名前は当然理解不能な片仮名の羅列。で、決定的だ。くそこいつ絶対に頭が変だ。
「ひょっとして貴女、地球の方じゃない?」
かかわるな。そう本能が腹の中で激しく告げたが、結果好奇心が口から逃げ出した。
「解っていなかったの? この目の色でもう気がついていると思ったのに……存外無能なのね。無能」
黒いぞこの女……。
安い挑発だ。気がついていないなんて当たり前である。出会いがしらに自分が宇宙人だなんていう輩がいるというイレギュラーを想像して暮らしている俺じゃない。
「すいません。私万能ではないのです」
下手に出るのは、相手にしたくないからだ。早く出て行け。
「なんだ、やはり人間なのね。下等生物……とても下等」
なんだかすごく見下された。その目は天才的な見下し方だ。あまりに腹が立った。敬意を表してこいつを宇宙人と呼ぼう。会話が成り立たないあたり、なんとも宇宙人と会話しているような気分だ。
さて、どうやらこの宇宙人は自分の事を上等生物だと思っているらしい。
「ちなみに貴女の星はどの辺に」
答えが返ってきた時点で追い返そうと決断決定。
返ってきた答えは軽く天井を指差すという行為。
俺は満足そうに笑うとその宇宙人の両肩を掴んだ。ほっそりとした良い女の肩。でも頭がおかしい女。
「私の力には負えかねますね。お引取りください」
体を反転させて玄関に押していく。
「貴方、私の話をここまで聞いておいて、逃げる気なの?」
抵抗するように後ろに踏ん張るので、のけぞったような不自然な歩き方。
「うるせぇ。俺はお前みたいなデンパと関わっている暇はない」
こいつに営業スマイルをするつもりはたった今欠片たりともなくなった。
デンパとはこの宇宙人のように自分の事を宇宙人だと言ったり、自分には神の声が聞こえるという事を根拠もなく本気で信じ、公言してはばからない思考の持ち主の事を指す。正式な定義は知らないが、つまりは宇宙から不思議な電波を受信しているような変な奴という意味を含んだ蔑称だ。
チャネラーとかそんな呼び方もあったと思う。一度そいつらを観察してみたいとか、そう思っていたが、間近で見ているとこいつらに関して宇宙人かどうかという根本的な討論が不可能だとわかる。それはとても疲れる事だった。
「私をあんな変態どもと一緒にしないくれるかしら!」
何が違うんだよ? 思わず言葉では語らず表情で語ってしまう。
宇宙人は激しく講義した。端正な顔がゆがむくらいに大口を開けて怒鳴る。こめかみには青筋が立ち、本気で怒っているようであった。
昔ちょっとした都合で麻薬をやっている奴と関わった事が会ったが、そいつは麻薬をやめろという話になると本気になって怒った。そういえばこんな感じの目をしていたような気がする。
「宇宙人が黙れ。宇宙人仲間なんか探せるかっ」
存在するのなら依頼は遂行できる自信がある。危険な仕事だって金との折り合いさえ合えば甘んじて引き受ける。
しかし存在しないものを見つけ出せるほど俺は超有能ではないのだ。こいつとまともに会話が出来る奴が居たら、それこそそいつの仲間だ。そんな奴を探すなんて、いくらなんでも真っ平御免だ。
「貴方探偵なんでしょ? お金で頬を叩かれれば喜んで人の不幸のあら捜しをする、探し物のプロフェッショナルなんでしょ?」
「確かにそうではあるが宇宙人探しは専門外だ」
精神科医を紹介するのが関の山である。
俺はドアを開けて放り出す。雪の街はきっとこいつの脳みそを冷却してくれる事だろう。別に冷えたところでもう相手にはしないのだが。
俺は念のために鍵をかけて、一時間ほど間を空けようと思った。もしもその間に他の客がきたら、その時は諦めるという事で。
その後ノックの嵐が続いた。ほとんど殴りつけるようなノック。クレイジーノッカーはもしかしたら大槌でこのドアを破壊しようとしているのかもしれない。
「あけなさい。私は依頼人よ」
迷惑な話だ。こんなに騒がれたら、また隣近所の評判が悪くなる。ただでさえ、この情緒あふれる街並みに探偵事務所を構えて白い目をされていると言うのに、ああいったデンパがやってきてドアの前で騒いだらより一層風当たりが厳しくなる。「だからあんな胡散臭い商売をしている人は信用できないんだ」
ジャズだ。ジャズを聴こう。ヘッドフォンをかけてボリュームの摘みをフルに捻って。
俺はオーディオに手を伸ばした。延長コードのヘッドフォンを用意して、次に一番のお気に入りを探そうと、ラックをいじっていると意表をついてノックがやんだ。
諦めて行ったか?
ほっとしてデスクの上にヘッドフォンをおいて、やや冷えたパンの上に半熟の目玉焼きを載せる。齧って一息。ミルクだけをたっぷり淹れた珈琲を飲む。爪楊枝を突き刺し最後の一本のウィンナーを胃に収める。
食べ終わってほんの数分、再び鳴るチャイム。そしてごめん下さいというごく普通の女の声。
俺は正味な話相当疑っていた。あの宇宙人がその辺を歩いていた女を捕まえたのかもしれない。
だから俺は未だに忌々しい顔をしてドアの覗き穴に顔を近づけていた。だがそこにいたのは若い女一人だけだった。髪の毛はこげ茶色をしていて、それなりの身なりはしているがどうにも花のない感じである。
俺はまずチェーンをかけてから鍵を外す。
「はい」
不振な態度ではあったと思うが、あの胸糞悪い小娘に再び関わるのは御免であった。俺はチェーンを一杯に張って外界を覗き込んでいた。
風は冷たくて、呼気が視覚化されていた。
「あの……こちらは探偵事務所さんですよね」
俺の態度は非常に珍妙だったのかもしれない。
「はい。そうですよ。すいませんね。あの、女見ませんでしたか? 赤い眼鏡をかけた」
思わず宇宙人を見ませんでしたかと訊ねそうになるのを、喉の奥で殺して俺はわかりやすい特徴を述べた。
「え?」
「あ、何でもありません。失礼しました」
惚けている様子はない。俺は少しお待ちくださいと絶好調の笑みを浮かべて見せた。
チェーンを外してドアを大開。招き入れるはお客様。
招き入れたらすぐに鍵をかけるのを忘れない。
中に入れてからこの女もきょろきょろと見回していたが、それは見知らぬところに迷い込んでしまったと言うような、不安を抱えた様子だった。
「どうぞお掛け下さい」
俺はソファを薦め、女はそれに従った。相当疲れている様子で、目の下に隈が出来ていた。職業がら、女の人間像を頭の中で構築してしまう。
指輪はしていない。外した後もないから結婚はしていないのだろう。恋人の浮気調査だろうか。飾り気がまるでない。こんなタイプの女が探偵を使って浮気を調べるだろうか? 利発そうだから察しは良いだろう。恋人が自分の事をもう好いていないとわかったら、そっと身を引くタイプだ。
根拠はないが長年の経験からの観察眼には自信があった。
「まずは、お名前をお聞かせお願いできますか」
これで何たらと言う星の、何たらと言う名前で、意味は幸の薄い女とかいう名前だったらどうして追い返そうか。
しかし名乗った名前は実にシンプルな日本名だった。一安心できる。
「あの、依頼したいんです」
名前を聞いて安心している俺に、依頼主は切り出した。依頼内容を話していないのだから、受けるかどうか、なんともいえないのだが、取り敢えずこの時点で依頼主だ。
「では、何を依頼なさるのか。お話下さい」
「はい。私、見たんです」
何を?
その一・浮気現場?
その二・勤め先会社の不正取引の現場?
その三・殺人現場?
その四・その他?
さあ何番だ。
「何を見たんです?」
「それは……」
ここにきて言い難そうな依頼人。逡巡して言い淀んだが、すぐに意を決したように口は開かれる。
「死体。だと思います」
「三番か」
「え?」
「いえ、こっちの話です」
こいつはもしかしてさっきの宇宙人と同類でデンパ系か? だがしかしまだ本当である可能性がそこにはある。
「死体ですか……厄介な話かもしれませんね」
取り敢えず信じる事にした。久々にきたヘビーな依頼。こういうのを待っていたんだ。
俺は身を乗り出す。
「警察には行かなかったのですか?」
「行きました。ちゃんとした対応もしてもらいました。でも……」
いざ現場に戻ってみると死体は消えていたというのだ。
まだ判断しかねる。
目は非常に真摯だ。
だが、この依頼主の妄想である可能性がたぶんにあるのだ。死体が消えると言う話は、ミステリ小説は言うに及ばず、漫画やドラマですらよくある話である。物語の中の登場人物になりたいと言う強い願望からきた妄想であるかもしれないし、もっと根本的な問題として考えられるのは、ただの悪戯であるかもしれないのだ。
「消えていた」
復唱した時には既にいくつもの可能性を考えていた。
死体を運んだ。死体を焼却した。死体を埋めた。彼女が死体があった場所を間違えている。これくらいの通りがあるだろう。
「はい。ですから悪戯だと思われて、警察の人には怒られてしまいました」
依頼人は悲しそうに、幸の薄そうな表情で、さらに不幸そうに眉を寄せた。
悪戯だったというその汚名を返上するために俺のところに依頼を持ち込んだということだろうと、俺は推測した。
「その人は本当に死んでいたんですか?」
依頼主の、膝の上で握られた拳が、白くなるくらいに強く握られた。疑られて気分を害したのかもしれない。しかしこればかりは聞かなければならない。
なぜならこれが一番ありうる可能性だからだ。死体だと思ったそれは実は倒れていただけ、血を流している人を見ると、確かめもしないで死体と断じてしまう一般人は多くいるのだ。
死体が生きていれば歩くし居なくなるのは必然ともいえる。
というか、これは実際あった話なのだ。死体だと思ったので慌てて警察と病院に連絡、再び現場に戻ってみると死体はなかった。大騒ぎになった末、結局死体と間違えられた人物が名乗り出て事が収拾するという事が。
「いえ、それはないと……思います」
そうではなくて残念だという言い方だった。俺はいぶかる。断言するという事は、彼女は死体を触って確認したのか。心音や脈拍を。だけどある種の麻薬などをやると体温は非常に低くなるし、心肺機能も弱くなる。ちょっと確かめただけでは解らないくらいに。それは急性アルコール中毒でも同じ現象が起きるから、ありがちの現象とも言えるだろう。
「だって……だったんですから」
掠れた声。俺は息を呑んだ。聞こえていたのに、惚けたくなるくらいに。
「え?」
今、なんて言ったよ。俺の耳にはそうとしか聞こえなかったが、聞き間違えじゃないのかよ?
もう一度いう羽目にあった依頼主は、泣き出さんばかりに叫んでいた。
「バラバラだったんです。その人。首も体もっ」
2
人と一緒に居るのは嫌いではないし、一通りの社交能力は備えているつもりだ。だけど私は、人込みと言うのが嫌いだった。
多くの人と関わると、すぐに疲れてしまうのだ。
私の体力は殆どない。人と人との間に挟まれているだけで走っているかのように体力が削られていく。これでも昔は陸上部のエースだったのに、どうやら年々体力が落ちているようだった。
弟は私の事を深窓の令嬢の様だなんて厭味を言う。外の世界を一日連れ回されたら力尽きそうなのだそうだ。
さすがにそこまで私は弱くない。でも、言われた時に即座に反論できなかったのはなんとも悲しい事だ。
そんな私は、会社の飲み会と言うものが何よりも嫌いだった。人込みは酷いし、箍が外れたようにセクシャルハラスメントが飛び交う。
特にこの時期は忘年会という言葉の名の下に多くの飲み会が開かれる。私にとってはつらい時期である。
それを見てしまったのも、そんな飲み会の帰りだった。二次会には参加したものの、三次会にまでは出る元気もなく、私は周囲の同僚に断って退席した。
私は繁華街をふらふらと、駅へと抜ける道へ進む。近道も心得ていた。駅に行くにはあの居酒屋から出て、コの字に道を、大回りに進まなくてはいけないけれど、その途中の道を左に一度曲がればショートカットが出来る。ただし、少し狭くて治安が悪そうだけど。
私はでももう直ぐ終電の時刻だったので、時間には万全を期しておきたくて近道を選択した。
私が通ったのは如何わしいとは少し違う雰囲気の小路。
高級料亭や、高級クラブが並ぶ道だった。
こんなところ初めて通る。どうやら一本道を間違えたみたいだと道の半ばで思い至った。でもこの道は安心してよさそうだと判断して、引き返す事はしなかった。
いつも通る道の猥雑さに比べれば、この高級感は安心の証であるような気がしたのだ。
でもその道は、まっすぐ駅前には突き抜けていなかった。
T字路だったのだ。目の前にあるのはこの道に並ぶ飲食店の中でも一際豪奢な、テレビでしか見た事がないような日本料亭だった。
大きな紺の暖簾があって、料亭の名前は漢字で二文字。でもこの二つの文字の組み合わせでなんて読むのかは解らなかった。
私の左右には一本一本が骨董品のような木で出来た壁がずらりと並び、さらに奥まったところに白色の灯りが窺えた。
瓦葺の屋根の奥にいくつかのビル、その背後には靄がかった橙の灯が見えた。あの灯りは駅の灯り、あと少しで駅なのだ。
私は左右を見回し、あそこに辿り着けそうな道を探した。
どこまでも続く垣根。私は右と左、どちらに行っても同じ距離だろう判断して左に歩き出す。歩き始めて一分くらいたった頃、この豪邸が本当
に果てしなく大きいものだと気がついた。
俯き加減だった顎を上げて、奥を見てもまだ終わりが見えないのだ。街灯が等間隔に並んで、料亭の壁の存在を認識させる。左手の建物は病院に変わったり、オフィスビルに変わったりするというのに。
私はうすら怖く感じていた。でも引き返す気にはならなかった、たぶん右に進んだとしても結果は同じだっただろうと思ったから。
終わりのないループ空間に迷い込んでしまった錯覚すら覚えた私だったけど、やがて変化を発見した。
垣根が途切れているのだ。そこは本当に目立たない作りだった。街灯のポールの後ろ側に隠れて光との対照となってより暗くなり、たまたまそこに注目しなくてはこのまま通り過ぎていたに違いない。
私は立ち止まって目を凝らす。
それはたぶん料亭の裏口だったのだと思う。
たまたま開いていたのだと思う。本当に、誰かが出入りした後だったのかもしれない。
とにかく開いていたのだ。私はその塗りつぶしたような暗闇の穴を覗いていた。
この道を越えていけば、料亭を抜けて、駅に近づけるかもしれない。そんな事を思っていた。だって料亭の向こう側に駅があることが解っていた
から。
穴はどんどんと奥に続いている。深く奥に、深淵の底に見えるような穴は、私を拒絶しているように見えたけど。
きっと私は酷く酔っていたのだろうと思う。
だから、絶対に踏み出してはならない一歩を踏み出していた。
静かで、誰もいない。
私の足の裏には石畳の固い感触と、ヒールの音。
この時間帯に考えてみたら料亭は開いていないのかもしれない。不法侵入に当たると気が付きながら、私は引き返さなかった。
矛盾点に気が付いたのはもう大分踏み込んだ後だった。一番初めに確認した時には、この料亭には明かりがついていたではないか。なんでこんなに静かで、暗いのだろう。私は何故だか解らずに怖くなった。
――突然。
笑い声が響いた。
びくりとなって私は足を止める。
大物政治家のような豪快な笑い声だった。
笑い声の元を、耳で探って目でたどる。
わずかな月明かりを頼りに、目を凝らす。見えてくるのは雨戸らしき物。その奥からの笑い声だった。
そうか、こんな時刻だから雨戸を閉めたんだ。
そう思うと少し恐怖や不安が去った。壁を隔てて人が楽しく暮らしているのだと思ったから。
それにしてもこの笑い声はなんと嬉しそうな笑いなんだろう。
私はそれは危険な行為だと知っていたのに、雨戸に近寄って、耳を当ててみた。
だけどそこからは笑い声と、奇声のようなものしか聞こえなかった。なにがそんなに面白いのか、中の様子は解らなかった。きっとお酒を飲んでいるんだろう。
それ以上中の状況を探るのを断念したその時、植え込みの端に光が当たっている事に気が付いた。
これ幸いと私はその光に向かった。羽虫が炎に引き寄せられるように。光は雨戸どうしの隙間だった。閉め方が甘かったのだろう。
私は当然そこから中を覗くつもりだったのだ。
左目を瞑って右目を当てる。
初め、中の明るさに目が痛さを覚えて、ちかちかした。眩くて見えなかった光景はやがて明瞭になりだした。
おぞましい光景。
全てそれだった。
意味の理解を脳が拒んだのをはっきりと認識する。
雨戸、硝子戸、さらに下だけがガラスの雪見障子があって、その奥にあった。
まず見えたのは、女の人の後姿。その首だけ。
作り物だと思った。
思いたかった。
女の人の頭が私に向いて眠っている。
私はマネキンだと思った。もしくは生き人形。江戸時代には生き人形を作る職人がいて、その技術は天才的、ぱっと見た目は本物の人間にしか見えない。そんな話を聞いた事がある。これが生き人形か。
でもあの奥で並べられている腕は何?
二つに分けられた太ももと、脛は何?
あの大きな陶器の器。その中に溜められている赤い液体は何?
私にも付いているあの乳房。切り取られてお皿の上に載っているのはなに? 白い脂肪が知覚できた。
まるで長方形の箱のようになった一つの体。鳩尾から陰部にかけて縦の筋。ティッシュペーパーの箱のように掻っ捌かれて。お腹からはたぶん腸みたいなものが取り出されていた。
冗談めいた現実。
冗談だと思いたかった。思いたかったけど、大笑いしている男がなんとも嬉しそうに、その艶々した内臓を掴みうっとりと眺めた様子を見て、私は冗談ではないと認識を改めた。
そして、何の拍子にか、女の人の首がごろりと転がった。私のほうを向く女の人。
目は閉じられていたけれど、涙を流していた。
真っ赤な、涙。蛍光灯の光に反射して、白く輝いて。
私の思考はその瞬間に壊れる。
音が……なくなった。
聞こえない。思考が出来ない。
ただ、その首が、穏やかに目を瞑り、涙を流し。
ぴちゃん――。
血の雫が滴る音がした気がした。
私は、気を、失った。
3
どすんと、屋根から大量の雪が滑り落ちた音がする。
話を聞き終えて俺は、どうにも現実感のない空気を感じていた。
この話はやはり酔った上でみた幻想だとしか思えなかった。
依頼者が言った料亭はおそらくあそこだ。そう思う場はあった。駅の名前と立地条件、大きな日本料亭といったらあそこしかない。会員制で、大物の政治家や、セレブと呼ばれるような奴ら集まる社交の場のようなところだ。そんなところで殺人事件が、しかもそんな猟奇的なものが起こるとは到底思えない。
初めから疑って聞いていた訳ではないのに、とにかく胡散臭かった。
「それで?」
俺は話を促す。
「気付いたら二時間くらいたっていました。深夜で、寒くて」
終電ぎりぎりの時刻から二時間。深夜も深夜、よく凍死しなかったものだ。
「もう一度覗き込んだんですけどもう真っ暗で、何も見えなくて」
混乱しながらも、携帯電話を取り出して警察を呼んだのだそうだ。
「警察は来ましたか?」
「はい。ですけど」
死体は消えていた。痕跡はまったくなく、ものがないのだから強硬な捜査はできないまま、彼女は追い返された。
そういうものだ。彼女の話には信憑性がないし、警察には一日に何件もこのような事件が舞い込む。その殆どが狂言や見間違いなのだ。確たる証拠もないのに細密な調査は出来ないだろう。一々かまっていたらあっと言う間に人手不足になる。警察が怠惰なのではなくて、それが合理的というものなのだ。
この場合、電話があって直ぐにやってきた警察に、機敏な捜査をしたと拍手喝采をして然るべきだろう。
「誰も死んでいなくて、警察の方には厳重注意を受けるし、お店の方には営業妨害だと怒られるし」
「訴えられたんですか?」
訴えられたとしたら切実な金銭問題だ。彼女の言った事が事実でないと損害賠償が大変な事になるだろう。
「いえ、そういう事はありませんでした」
「そうですか」
おそらく訴えて裁判を起こしたら、店の評判が悪くなると踏んだのだろう。一個人に目くじらを立てる事でのデメリットである。
「事情はわかりました」
俺は神妙に頷いた。ストーリーは確りとしていて、内容は理解できる。現実味はないが、しかし目は真剣だった。この分だと、少なくても依頼人は大真面目なのだ。
「あの、依頼は受けていただけますでしょうか?」
不安そうに、俺が最後の望みのように、依頼人は俺を見つめてきた。目の前に出された珈琲は一回も手がつけられていない。
俺は自分の目の前の珈琲を喉に流し込む。苦味は心地が良い。
「貴女は、自分の言っている事が真実であるという事を証明したいのですか?」
証明は難しいというのが、俺の観測だ。出来るなら断りたい依頼だった。個人事務所なので贅沢は言えないが、受けて実りのある仕事と受けても実りのない仕事がある。そしてこれは実りのない仕事だ。
依頼人は力なく首を振った。
「私の事はいいんです。いえ、結果的には私の言っている事が本当だと証明してほしいのかも知れません」
「と、いいますと?」
「あの人が、殺されていたあの女の人が可哀想なんです」
可哀想という言葉を言うに当たって、依頼人はうつむき声を震わせた。
「あの人、泣いていました。いえ。泣いているように見えたんです。血がたれて」
涙がこぼれたのが見えた。依頼人が泣いている。
「可哀想なんです。あのまま、誰にも知られないままこの世から消えていくなんて」
せめて私だけでも知っていたい。殺された人がいるんだって。彼女が殺された事実を知っているんだって。そう依頼者は言った。
「殺されたのが誰だったのか、その名前さえ知ることが出来たら、犯人の追及までは求めません」
あまりに真摯で、俺は言い訳をして追い返そうとしていた思考を切り替える事にした。
「わかりました。調査をして見ましょう」
こういう仕事を、誰にも気兼ねなくすることが出来るのが探偵職のいい所だ。警察ではこうはいかない。
「それでは少し事務的な話になりますが」
俺は一度席を立つと、デスクの抽斗から使い古された料金表を取り出した。ここに一日の調査料と基本的な契約料が記入されている。
「この、人探しと同じ料金でいいですかね?」
大して高くない設定の料金。浮気調査に比べれば二十パーセントもオフだ。あいにく誰が殺されたかを調べるといった調査は想定外だ。したがって料金は自分で決められるのだが、そこはそれ。良心的な探偵事務所をモットーとする俺は親切にも低い料金のそれを選んだのだった。
「え、あ、有難うございます」
依頼主は恐縮したように膝の上の拳をさらに強く握った。
「まずは今日から一週間調査します。その他の料金は要りません。食費、交通費、危険手当込みの値段ですから。それと依頼が遂行出来なかった場合には料金の二十五パーセントつまり四分の一は返還します。それでよろしいでしょうか?」
これはいつもの事務的な会話。他のところがどうしているかは知らないが、俺のところはこういう料金体系をとっている。どんぶり勘定をこよなく愛するのが我が探偵事務所だ。
「あ、はい。思ったよりずっと安くて安心しました」
「最高の褒め言葉です」
微笑んで俺は和やかな雰囲気を意識する。
「それでは契約書を作成してきますので、どうぞそのままでお待ち下さい」
立ち上がり、珈琲の残量を目算し一安心してから俺は隣の資料室に向かう。ここにも契約書に使う紙はある。じつはさっき料金表を取り出した抽斗にも契約書はあるのだが、ちょっと確認したい事があったのだ。
当然依頼人の目の前で確認すると都合の悪い事である。
俺はポケットに入っていた携帯電話を開いて、昔のコネにコールする。
「よう。俺だ」
『俺々詐欺ですか? 先輩』
「お前が引っかかって首になったら調査員として雇ってやるよ」
『御免こうむります』
これでも昔は警部とか、そう呼ばれていたのだ。この後輩はつい二年前まで俺の部下をやっていた。したがってこういう会話になる。
『警部――先輩は人使い荒いから』
何度なおさせても相変わらず後輩は俺を警部と呼ぶ。別に悪い気はしないが、望んで辞めた職を連呼されるのは好ましくないだろう。それに今はその身分でもないし、一般人に余計な先入観をもたれてしまう。
「悪かったな、人使い荒くて」
昔散々しごいてやった事をまだ根に持っているのだ。この後輩は。そのおかげで有能に育ったというのに。
『別に恨んじゃいませんよぉ。どうしたんです。先輩から電話なんて。飲み会ですか?』
「違うよ。聞きたい事があるんだ」
『あ、やっぱりですか。またですか。困ったなぁ』
難色を示す声。
「何だよ」
『先輩勝手に事件解決しちゃうから今の上司が良い顔しないんです』
「そりゃ悪かったな」
俺は苦笑い。有能な探偵って言うものはそういうもんだ。
『でもいいですよ。他ならぬ先輩の頼みですし。何ですか、聞きたい事って』
「実はな――」
俺は持ち込まれた依頼を後輩に伝えた。探偵には守秘義務って言うのがあるが、この手の調査は誰かに協力を要請しなくては始まらない。
『なんですかそれ、変な話ですねぇ』
話を聞き終えた後輩は呆れ声に近い。
「変な話なのは百も承知だ」
『まさか受けちゃったんですか? その依頼』
「文句あるか?」
『ないですけど。それで俺に何聞きたいんすか?』
いつもの事だと後輩はため息だった。
聞き分けが良い後輩を持って俺は嬉しい。
「この連絡って本当にあったのか?」
『連絡ぅ? 先輩が信用していないんじゃないですか……』
さらなる呆れ声の後輩。
「いいから調べてくれ」
『わっ――かりました。直ぐに調べるんで、電話切らないでくださいよ』
「頼む」
俺は携帯を肩と顎に挟んで待つ傍ら、資料室の契約書の在庫を取り出す。
スティールの資料棚の上、昔歳暮でもらった菓子の箱がある。その中にあるのがA4の紙切れ、契約書である。
耳元に注意しながらボールペンを取り出して料金体系や、調査期間を丁寧に書き込み、後は空欄に必要事項を依頼人が書けば良いだけの状態になる。
『もしもし、先輩聞こえてますか?』
「聞こえているよ。あったか?」
『ありましたね。きちんと捜査しています。その部屋ではルミノール反応まで見てますから、俺達の怠慢じゃないですよ』
「そうか」
依頼人に死体の周りにビニルシートがなかったかを確認しなくてはいけないなと、頭の中で必要事項を一つ増やす。
「何か特別な事はないか、教えてくれ」
『うぅん。捜査員たちが直ぐにそこに向かったのには訳があります』
「どんな?」
興味をそそられる話である。
『その辺には幽霊が出るという噂があって、治安が悪いという事でその辺は重点的に巡回していたんですよ』
「なるほど、近所に病院があると言っていたな」
『はい。たぶんその関係です』
「噂の詳細は?」
『死体が歩くというものです。ですから死体を見たという彼女の証言に捜査員は飛びついたみたいですね』
「何でそんな噂が流れるんだ?」
『さあ、俺に聞かれても』
「だよな。解った」
その他瑣末な事を聞いて、俺はメモをとる。
「有難う。この埋め合わせは近いうちにするよ」
『そうして下さい』
期待していない苦笑いが聞こえた。それでこの会話は終了である。
さて、これで間違いなく依頼人は本気で死体を見たと思っていることが証明された。真面目に一週間取り組んでみよう。
決意をして俺は契約書を片手にドアを開けた。
4
「それはまさに警察の怠慢ね」
ドアを開けた瞬間、顎に右手の甲を当ててまるで銘探偵のように立った女の姿が俺に飛び込んできた。
「何をやっているんだ宇宙人」
怒鳴るのを必死にこらえて俺は聞く。それは追い出した筈の宇宙人だった。鍵をかけた筈だが、依頼人が客と間違えて勝手に開けたのか?
「何って、彼女の話を聞いていたのだけれど?」
「うっせぇ馬鹿」
さも当然のような返答に、俺は依頼人の存在も忘れて怒鳴った。
「お前の依頼は受けない。出て行け」
「え? 探偵さんの助手じゃなかったんですか?」
依頼人が驚いたような声を上げる。
「違います。残念ながら」
俺は深く重たい溜息をした。
「すいません、上から下りてきたからつい……」
「上から?」
復唱して俺は一瞬訝る。ばっと振り返り宇宙人を見据える。
「戸締りは確りとしないといけないわね」
宇宙人は言い訳とも思えない言い訳をした。もちろん当然悪びれていない。
「……もういい。お前と話していると疲れる」
怒鳴りあっても絶対に打ち解ける事がないと確信できる。
こいつを出て行かせる手間をかけている間に、依頼人がどんどんと引いていくだろうという事が、実行前から解るのがなんとも悔しい。
「すいません、こちらを読んだ上で、こちらの契約書にサインをお願いします」
誓約書と契約書を依頼人が座るソファの前のローテーブルに並べる。
「あ、ずるい。私の方が先に依頼したのよ!」
宇宙人がわめいて、依頼人が誓約書に伸ばした手をびくりと止めてしまった。
「あ、気にしないで下さい。こいつの依頼は断りましたから」
ビジネスライクな顔を出して依頼人を安心させようとする。
「わっ――」
何か言いかけた宇宙人の口を右手で塞ぎ、俺は部屋の端に引きずっていく。
手をはずすとぷはぁと大きく空気を吸い込んでから、空気を呼んだのかひそひそと俺に怒鳴った。
「私の方が先に依頼したのよ? なぜ私より後の彼女の依頼を受けるの?」
「煩い。とにかくもう俺は暇じゃない。こっちの依頼を受けたんだ。少し黙っていろ」
「少し? 少し黙れば良いの? すると何? この依頼が解決したら私の話を聞いてくれるというの?」
「くそ。解ったから今は引っ込んでろ」
話がややこしくなる前に俺は和平を謀る。聞くというのと、受けるというのはまた別の話だと、言い訳はすでに用意できていた。
「さて、お待たせしました。こっちは話が付きましたので気にしないで下さい」
宇宙人は達磨ストーブの前にしゃがみこんで、中の炎を眺め始めた。炎を見ていると飽きないというのはすべての生物に通じるものなのかもしれない。
「二日に一度提示連絡を入れます。連絡先も記入して置いてくださいね」
「はい」
「あ、それでは今日はこの辺でいいですよ。早速調査を開始しますから」
サインを書き終えると依頼人は立ち上がった。
「あ、ちょっと待ってください」
小さな鞄を持ち上げた依頼人に声をかける。
「はい、なんですか?」
「そのバラバラ死体を見た時、何か変わったことはありましたか?」
「え?」
「例えばばらばらにするような道具とか、ばらばらにする現場に何か普通の座敷にはないようなものがあったりとか、逆にあるはずの物がなかったりとか。どんなに些細なものでもかまいませんから、参考までに」
依頼人は思い出したくなさそうに眉を潜めたが、やがて確信を持ったように頷いた。
「あるはずのもの……がなかったかははっきり言って解かりません。でも、包丁とか、まな板とか……あと床には透明なシートがあったと思います。床が蛍光灯で光っていましたから」
「――解りました。それでは二日後に連絡します」
俺が二枚の書類を揃えると、そこに割り込んだのが宇宙人の声だった。
「ちょっと待って。どうやら聞いている限り、あなた達はこんなやっつけ仕事の事件を一週間がかりで片付けようとしているわね?」
しゃがみ込んで掌をストーブに向けながら、凄みを利かせる宇宙人。こいつには使いたくない表現だが、柳眉を逆立てて怒っている。
「冗談じゃないわ、私の話は一週間も先延ばしにされる訳?」
すくっと立ち上がり腕組みをしながら俺の前にやってきてその書類をひったくった。
「何をしやがる」
と俺が取り返そうとするとぱっと逃げ、出て行く間際で足を止めた依頼人を捕まえた。
「今すぐこの場で即解決なんだからね! 貴女は帰る必要がないわ」
引き止めて宇宙人はなんと契約書を破り捨てた。
「なっ」
何をしやがると怒鳴ろうとしたが、声はもう呆気にとられて上手く出せなかった。
信用が音を立てて瓦解する瞬間だ。俺にはその音が聞こえた。びりびりと。契約書というものは依頼人と俺以外、触れてはならないものだ。それが奪われた上に、依頼人の目の前で破かれたのだから。
ちなみに、俺は女だろうが許せない奴は殴る。今だって、依頼人が目の前にいなかったら殴っていたに違いない。
「あーっ! この馬鹿デンパ、なんて事しやがる」
もうそれしか言えなかった。俺は宇宙人の胸倉を掴んでがくがくと揺すった。宇宙人はあさっての位置に視線を向けて、うすら笑っていた。
「大丈夫よ、解決しているんだからね。ふふっ」
「なんだとぉ」
俺は手を離して宇宙人を睨む。
「あなた、人探しは得意だろうけど、推理は下手なのね」
これみよがしにため息を付いて俺を馬鹿にする宇宙人。
「なんだと」
反論をしようと思ったが、ならお前は何が解っているんだという気にはなれなかった。こいつの推理ショーなど見たくも聞きたくもない。
「簡単な事だわ。犯人は料亭の人類全員。凶器は料理包丁。血液検査をすればたっぷりと人間の血が付いている筈だから逃れようもないね」
聞きたくもないのに宇宙人。
勝手に自らの推理を披露し始めた。
「論拠がない上に乱暴だ。馬鹿が。第一、死体は何処に行ったんだ」
これじゃあ俺はワトスンだ。唯一の救いはこいつの言っている事が論理的ではないという事だ。
「死体? 決まっているじゃない」
俺を小ばかにするように宇宙人は、うっすらと不気味な笑みを見せた。
「食べちゃったのよ」
「たっ?」
「食べちゃった?」
言葉に詰まる俺と、間抜けに繰り返した依頼人。あまりに突飛でとんでもない推理だった。俺はともかく、依頼人は目をまん丸に見開いて驚きを表している。ヘイヘイ待てよ名探偵。
凶器を食うくらいの事なら許す。紐だったら飲みこめるし、氷で突き刺したら溶かして飲むくらいの芸当をやる奴がいるのは知っている。しかし死体を食うなんて、いったいどんな大食漢だ。一人で食いきる量じゃない。いやいやそういう問題じゃない。
「何を言葉を失っているのよ。簡単じゃない。料亭で人が解体されたんだから、食材にされたに決まっているじゃないの」
「お前何を言っているか理解しているか」
料亭だから死体は食べられたに決まっている。
あまりに短絡的な思考だ。
そんな連想ゲーム聞いた事がない。
「私は目の前で鮪の死骸を解体するショーを見せてくれる寿司屋を知っているわ」
「鮪と人は違う」
俺はたまらず言い返した。むきになっても仕方がないじゃないかという思考はあるが、聞き捨てならない会話だった。
「何が? 何処が? 種族? 私と君もそういう点では違うわね。私は君を食べたいとは思わないわ。けれど餓死寸前なら厭わず頂くわよ?」
この時、この宇宙人が心底恐ろしいモノに見えた。
それは紛れもない事実。
こいつは人を躊躇なく食う……!
そんな目をしている。そんな目を見てしまった。
「何が違うって言うのよ? 私の星の直ぐ近くに住んでいるある種族は、植物すら同類だと言って全員が餓死したわ。潔い種族だったけど、彼らからしたら魚を食し、獣を喰らい、野菜を屠る私は同属食いという事になるわ。境界線はなに? そもそも仲間の死体を食うという事を、事貴方たち人類は忌避するけれど、私の星ある地方の国の宗教では、長く生きた死体は高潔なものだとして長老の死体を食べているわ」
「本気か……」
こいつが異常で、本気なのはわかっている。
本気と狂気はえてして同じ軌道をたどる。
こいつの言っている事が事実だとは言えない。解っているのに俺は息を飲んでいた。
「本気も本気、本気なのよ。彼女が見たのは解体ショーよ。だから、観客は嬉々としてその様子を見ていたの。貴方だって目の前で大トロを見せられたら手に取りたくなるんじゃない?」
「……豚の解体ショーを見たって楽しくねぇよ」
「確かこの星にも一家総出でソーセージ作りをする国があったと思うんだけれど?」
俺の反論は意味のわからない理屈で説き伏せられる。
「さて、彼女」
宇宙人はすっと長く細い指を依頼人に向けた。
「聞きたい事があるの、死体の周りは血だらけだったのかしら?」
「いえ、違いました」
ほら見ろと俺に勝ち誇った視線を向ける宇宙人。しかし俺には何故勝ち誇られるかがわからない。
「それは血抜きをした死体だからよ。死後に確りと血抜きをしたからあまり血が飛び散らないの」
「死後時間が経った死体だって、血は飛び散らない」
「その時間が経った死体って、血抜きした死体より血が飛び散らないの?」
それはない。そう思ってしまったらそれ以上言えなかった。
いかにも嬉しそうに笑う宇宙人。楽しいだろう。言葉で相手をねじ伏せるのは楽しい。最高の陶酔感だ。知ってはいるが、ねじ伏せられるのは気分が悪いものだ。
「部屋にいたのは数人だけだ。それで人間を食いきる訳がない」
情けない事に今はこれが最後のよりどころだった。
「鮪の解体ショーは数人の目の前で、だけど解体された鮪は店の客全員に振舞われるの、わからない?」
おぞましい事をなぜこうも簡単に口にするんだ。
「聞いたところによると、その人食い料亭は会員制なのよね?」
「あ、はい」
依頼人は相変わらずドアの前で立ち尽くしたまま、宇宙人の質問に答える。
今更どうぞお掛け下さいというのもなんだか変な話なので、言葉をかけあぐねるところだった。
「会員以外が入れないという事だから、つまりそこで食事をする事はそのまま人間を食うという事につながるわね。もしもの時は一蓮托生、絶対に情報が漏れないようにしているんじゃないかしら」
だから、警察がいつ来ても問題がないような対応をしている。そして簡単な捜査ではぼろが出ない。だから依頼人を訴えなかった。訴えれば疚しい所がないという証明が必要になるから。
「だけど凶器だけは無理じゃないかしら」
宇宙人はそれが当然だという口ぶりだった。
「何故だ?」
「だって、包丁は料理人の魂よ。簡単に捨てる事が出来る訳がないじゃない」
なんてむちゃくちゃな推理だ。こじつけだ。しかし、依頼人の言葉を信じるなら、それも一つの解釈だと俺は思ってしまっていた。だからといって、それが後輩にもう一度電話をしてしまった言い訳にはならないのだが。
5
「いや、いい。お前の手柄にしろ。俺は、出来ればこの事件には関わった記憶をもっていたくない」
連絡は一週間後の事だった。俺からの連絡を受けた後輩はこっそりと例の料亭に侵入し、包丁を数本盗んできた。
その包丁全てに、様々な人間の血液がべったりと付着していた事が明らかになり、本格的な捜査に発展した。
二十四時間体制で張り込みをし、入った人間と、出て行く人間の顔を記録し、出入りの数に矛盾がないかを厳しくチェックした。初めの三日間、一切の変化がなかった。捜査員達は潜入捜査に切り替えるかを検討し始め、くじ引きでそのあまり進んで出たくない役割を決めようとしていた。事実なら、人肉を食す事になるのだから、大変な仕事である。
しかし、四日目の夜に、事態は急変する。たまたま依頼人が間違って侵入してしまった勝手口を覗いていた捜査員の一人が、車から大きな荷物が搬入されるところを目撃していたのだ。布が被されて、まるで鮪を運んでいるかのような気軽さで勝手口に入っていく。しかし、偶然だろう、その布の端に人間の手が覗けていた。布のかぶせ方が甘かったのである。
捜査員は慌ててカメラにそれを写した。
赤外線カメラの映像は、すぐさま科研に持ち込まれ、画像処理され、間違いなく人間の手であると判断された。
そして昨夜、料亭はガサ入れされた。つまり令状をとられて踏み込まれたのだ。
踏み込まれた料亭の、床下の隠し倉庫には二体の死体があった。まさに動かぬ証拠である。
これは前代未聞の大量殺人事件につながるか? 捜査員達は色めきだったのだが――。
『これから病院の方にもメスが入ります。また報告しますね』
「ああ、それくらいで十分だ」
そう言って電話を置く。
店の従業員は死体を捌いて客に出していた事は認めたが、誰かを殺したという事に関しては否定した。では何処から死体を仕入れたかという質問に対して、店員は向かいにある総合病院から、引き取り手のいない死体を買い取っていたという返答をしたのだった。
当然、違法である。
したがって病院にも累が及ぶ。
俺は思い出す、死体が歩くという噂を。
本来、死体が歩いたら生きているだけの話しだ。それなら怖くもなんともない。なのに死骸が歩くという噂が流れていた。
何で死体が歩くという噂が流れるか、それは確実に死んだと診断された筈の死体がなくなるからだ。まるで生き返りどこかに歩き出して行ってしまった様に。死体がある場といえば、病院と相場は決まっている。その病院から頻繁になくなる死体。不気味に思わない奴はいないだろう。
そういった経緯があったのだ。
人を殺し、人肉を食すという嗜好を持つ連中をカニバルキラーと呼ぶ。アメリカにも、そういった殺人者が出ていたと記憶している。幼女ばかりを狙い、殺し、保存し、調理して、とろとろで美味しかったと供述している奴すらいるのだ。狂っている。しかし、究極の美食を探求するなら、もしかしたら禁断の味にも興味を抱くかもしれない。
禁断だからこそ、最高の美味。
浮気をする連中は禁断だからより燃えるのだ。
俺にはそんな欲望はない。珈琲一杯あればやっていける。
俺はため息一つ。窓の外はもう雪もない。
さて、料亭の会員達は今芋蔓式に検挙されている。
料亭側は、すでに十年以上も死体料理を出していた。だから危険に対する意識が弱くなっていたのだ。そんなもんだから依頼人のような人間に見つけられてしまう憂き目がやってくるのだ。
ざまがない。
しかしどいつもこいつも死体損壊の罪。尊厳を殺した罪は、まだこの国では弱い立場らしい。
「なんで、食人だとわかったんだ?」
なんだかんだのどさくさで、宇宙人は依頼人と一緒に出て行ってしまった。依頼人からは相談料として後から三万円ほど送られてきた。律儀な人だ。
宇宙人は結局何者だったのだろう。
何者も、糞も、あれは真性宇宙人か。
食人以外にだって、いくらでも死体消失の方法は考えられるのだ。例えばあの料亭にあったあの巨大な窯。あの窯で死体を高温で焼けば、数時間で消えてなくなるだろう。地下倉庫があったのだ、あそこに隠しておく事だって出来ただろう。
もしかしたらあそこは悪人を殺す事を目的とする秘密組織だったのかもしれない。事実は違うが、あの時点で、あの宇宙人の発想ならいくらでももっととんでもないものが出来たかもしれないじゃないか。
宇宙人ならではの、例えば異次元空間に飛ばす機械があったとか、人体実験をしている最中で、あの後縫合して生き返らせたとか、何だって……。
「食人以外にだってあるだろ」
あの時は確かに言い返せなかった。しかし今から思えばいくらでも反論があるのだ。
俺は窓の外を見ながら珈琲を飲む。白い湯気が目の前で消えていく。小さく開いた窓から吹き込む風は冷たい。
「それはね、あの店の名前は私の星で共食いっていう意味なのよ」
窓の外、しかもここは二階。なのに宇宙人と俺の目線の高さは同じだった。
目が合う。
「……なるほど、そうやって侵入したのか」
明快な回答を聞き流し、目の前で雨樋をよじ登っている宇宙人を睨んで俺は呟いた。
そもそもなんで、こいつは我が探偵事務所に目をつけたのか?
下手をすると俺の名前は仲間探しの天才プロフェッショナルだ今畜生とでもなるのだろうか。
どうでもいいさ。ああ、どうでもいい。
俺は即座に目の前の窓を閉じると鍵をかけた。
「あ、ちょっと待って。ねっ、お願い。あっ、こらぁ」
慌てて叫ぶ宇宙人を置き去りに俺は三階へと走った。当然戸締りを確りとするべく。
―― 了 ―― |