2 時間
博士は言った。おまえは今日から「オルト」だと。それが九年前、オルトが小さな『世界』つまり部屋の中で暮らしていたときのこと。普通、そんな閉所で生活していれば誰だって精神に異常をきたす。しかし人間というやつは環境に適応する能力があるらしく、初めからそこにいたオルトはそれを変とも思わず、八年の間その部屋の中で生活をしていた。
ある日の朝、博士はいつも通りに世界、つまり部屋から出かけていく。その間オルトは知識を吸収するために本を読んだりすることが日課だった。その途中で、あるものを見つけた。人間についての本だ。そこに書いてあったこと、それは人間というものは初めは意識がなく、生まれて数年の記憶はないことが多いということ。そこでオルトは思った。自分は、最初からはっきりとした記憶がある、ということを。それは珍しいことらしい。さらにその本を読み進めていくと、オルトは徐々に知っていった。自分が、普通の人間とは少しばかり異なった育ち方をしているということを。
まず、生まれたときからオルトは立っていた。いや、生まれたとさえ言えない。最初の記憶の中の自分は、服を着ていたからだ。裸なんかではなかった。それに、母の姿も覚えていない。ただ、最初からこの部屋にいて、目を開いた。それが最初の記憶。そして、それからは博士にいろいろなことを学ばせてもらった。言葉の話し方、文字の書き方、食べ物の食べ方、それこそ日常生活に必要なことは一から全部教えてもらった。その記憶の中で鏡に映ったオルトの姿は、六歳くらいだったのに。
オルトは帰って来た博士に尋ねた。なぜ、自分は他と違うのか、と。黒い髪を逆立てて威嚇しながらオルトが詰め寄ると、博士は非常に慌てた様子で姿を消した。本当に、消した。博士の身体は足元に描いた円の中に吸い込まれ、雲散霧消した。オルトは後に、それが魔法だったと知ることになるのだが、しかしそのときは魔法を理解することもできず、地団太を踏むばかりだった。
それからはオルトは博士に開くな、と言われていた引き出しなどを調べ、自分について知ろうとした。そして、徐々に明らかになっていった「自分」。博士の日記などから明らかになっていくそれは、厳しく、辛い作業だった。そして魔法についても学び、自分は魔法によって『時間』を奪われたのだということを知った。
オルトは、六歳のあの日、時間を奪われていた。過去現在未来、全てを生きるはずだった『時間』を。故に、過去の記憶は消し飛んだ。現在の思考も出来なくなった。未来の結果も見れなくなった。全てを奪われた空虚な身体。そこに、博士は奪い取った『時間』を十年分だけ注いだ。時を奪われた身体が機能するか、という実験のためだったらしい。そして、オルトはまた「動き始めた」。しかし、消し飛んだ記憶は戻らなかった。それに、十年の歳月の過ぎたあとには、何が起こるかわからない。時が止まり、空虚な存在に戻るのか。それとも、今度は身体ごと砕けるのか。いずれにせよもう、生きることが出来ないことはわかっている。
だからオルトは時間を旅をすることに決めた。自分の身体に時を取り戻すため。そして自分について知る作業のかたわら、魔法を学んだ。時を越える法を学ぶため。そして博士が消えてから一年が経ち、十五歳になったオルトはあと一年しかもたない自分の身体を生かすため、部屋から出た。外の世界の空気は淀んでいたが温かで、想像とは随分違った。人も大勢いて、オルトは『世界』に慣れることに一ヶ月を要した。
そして、オルトは時を越えることにした。魔法の杖を作り、それで円を描く。広い空き地に現れた魔法は、オルトを違う時代へと送ってくれた。
勿論、オルトは多くを学んでいたから知っていた。自分が違う時代に行くことで、その時代の人間に影響を及ぼしかねないことを。自分がもし違う時代で人を殺せば、その先の未来ではその子孫の人間は全て消える。そんなことはしないにしても大なり小なり、自分が他の時代に行くことは未来に影響を与える。でも、それでもオルトは生きたかった。時間を取り戻せなければ、自分はまた過去現在未来全てが存在しない、「空」になる。それはとてつもなく怖い。だからオルトは迷わなかった。たとえ大勢の人間の運命を変えるとしても、それ以上に自分の命が惜しかった。
それほどに時間を移動することに恐怖を感じていたにもかかわらず、「時代とは、その時それぞれを生きる人たちの勝手な区分の見解である」ということを、オルトは時間を移動してすぐに知った。だがそれは頭で理解したのではない。あくまで直感的に、だ。移動する最中、周りの『時』が教えてくれたように感じた。結局のところ、時間に過去も未来もない。あるのはただ、現在のみ。ある時代で生きた人が他の時代に行ったところで、その人が生きた時代になっていくことは変わらない。時間とは個人の主観でしか捉えられないのだ。客観的に全体から見たところで、時間を捉えることは出来ない。
また、オルトは知っていた。博士は、あのとき足元に円を描いて違う時代に逃げた。ならば、時間の旅をすればいずれ出会うはずだ、と。博士の魔法は今でも鮮明に覚えている。しかし博士はオルトの魔法を知らない。これはオルトにとって有利な条件だった。なぜなら、博士はオルトの魔法を知らないから、オルトが近づいても魔法で感知できない。そしてオルトは感じている。徐々に徐々に博士のいる時代に近づいていることを。オルトの魔法がそれを教えてくれているから。オルトは、博士に会ったら全てを訊くつもりだ。時間をなぜ奪ったのか。なぜ自分を選んだのか・・・・・・。訊きたいことは、山ほどある。
もうひとつ、オルトはしなくてはならないことがあった。それは、時間を取り戻すこと。しかし、博士の日記によるとオルトの『時間』は博士が持っているのではないらしい。博士は、オルトから奪った『時間』を使って様々な時代に干渉していたらしい。オルトの時間を継ぎ足すことで時間の進行を遅らせ、戦乱を長引かせたり、それによって死者を増やしたりして遊んでいたらしい。オルトは、それを食い止める意味合いでも『時間』を取り戻さなくてはならなかった。『時間』の在り処はオルトの魔法が指し示してくれる。たとえば、オルトの『時間』によって戦乱の長引く予定の場所に行けばそこにあるオルトの時間を体に吸収させることができる。しかし残念なことに、それがどれだけの『時間』なのかはわからない。十年分なのか、一週間分なのか、はたまたたった一分なのか。『時間』は主観でしか捉えられない。そして『時間』は定まりがない。時計の刻む時間など、まやかしでしかない。『時間』は常に流れている。過去でも未来でも滞りなく、止まることはない。ゆえに取り戻しても、自分の寿命を悟ることも出来ない。オルトは、いつ死ぬのかという恐怖と戦いながら、生きている。でもそれは、どんな人だって同じだ。
「ああ、もうすぐか」
一人で悶々と考え事をしていると、いつの間にやら魔法が周りに反応を示していた。どうやらもう、かなり目的地に近づいているらしい。恐らく、博士ではなくオルトの「時間」があるのだろう。
「やれやれ、今度は何に時間を使われたのか・・・・・・・・・」
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「ミシェル、近くに民家はないか?」
ハーゼンが周囲に気を配りながらミシェルに尋ねた。丸眼鏡を押し上げながら近くに民家がないか探しているということは、「影を湛えし瞳」の力を抑える法を知っている人間は、このあたりに住んでいるらしい。
「この目を、ようやく抑えることが出来るのね・・・・・・・」
ミシェルは安心感を覚えつつも、まだこれから訓練をつまなくてはならないことに思い当たって緊張もしていた。それに、目の力を抑えられたところで差別が無くなる訳ではない。むしろ、制御出来るようになった目の力に頼って、窮地を切り抜けなくてはならないこともありえる。
つまるところ、どんなにミシェルが周りに合わせようともがいても、この目が消滅しない限りは絶対に差別から逃れることは出来ないのだ。目に宿った力は強大で、無慈悲だ。それは力を行使される者とっても、行使する者にとっても、だ。
「オルトは、差別のない国から来たのかもしれないんだったわよね」
ぼそりと呟いたそれは希望だった。この世のどこかに青い目に対する差別のない国がある、そう考えるだけでもミシェルの心は躍った。世界が自分を差別しない場所。『青い目』の保持者ではなくミシェル、として自分を見てくれる人々のいる場所・・・・・・・・・
「目に対する差別は、な。でも、もしかしたらその国では栗色の髪がタブーとされているかもしれない」
おもむろに手をあげたハーゼンが指差したのは、ミシェルの頭髪だった。一つにまとめて結わえてある髪は、淡い栗色に輝いていた。
「ひどいわ。そんなこと」「ありえるんだ。結局、人間って奴は自分の下を作りたがるものなんだよ。虐げてもいい、そいつらには何をしても構わない・・・・・・そういう存在を必要としているんだ。おまえだって例外じゃないぞ、ミシェル。おれ達だってある意味、差別をしているじゃないか。魔法の力を見て怯える人間を見て、おまえは思わないか?『哀れな奴ら』と。魔法の本質も理解できず、ただただ得体の知れぬものとしてそれを弾圧する奴らを、蔑んだことはないか?おれはある」
そう言うハーゼンは憎憎しげに自分の左手を見た。危うく義手になるところ、と言われるほどの大怪我を、拷問によって負わされたことのある手だ。醜くひきつる傷口は、見るたびに恐怖と憎しみを覚えさせる。指先は痙攣してうまく動かず、日常生活にも支障をきたす。
「ミシェル。人間は弱い。だからこそ律することを、抑えることを覚えねばならない。・・・・・・おまえはこう言うと反発するだろうが、あえて言うぞ。抑えること、それが出来るからって自分が優良な種類だなどと思うな。抑えなくてはならないのは、自分を守るためなんだからな。行き過ぎた力を持たぬよう、そして、持ってしまった時には自分がその力に踊らされぬよう。そのために抑えるんだ」
魔法。それはミシェルにとっては忌まわしいもの。抑えて抑えて、消滅させたいもの。
「・・・・・・・・・わかったわ。抑えること、それが人間の証なのよね」
「そうだ。・・・・・・・・ああ、あった。ここに、目当ての人物が住んでいるはずだ」
レンガを積んで作った、簡素な円形の家。そこに、ミシェルが師と呼び教えを請うべき人がいる。二人はドアを叩き、人が出てくるのを待った。
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そこには、大きな岩石があった。
「火山岩か」
オルトは呟き、周りをぐるぐると周回した。高さは大人一人分くらい、幅はオルトの杖ほど。その岩石から、オルトの時間が感じられた。
「博士は、この岩を転がすという『事故』を起こすために僕の時間を使ったみたいだな」
恐らく、噴火が起こった際にオルトの時間を注ぎ込み、起こる事象に変化を起こしたのだろう。時が揺らめいて岩から発せられている。オルトは杖を構え、岩に突きつけた。杖先からは蒸気のようなものが立ち上り、岩から『時間』と博士の魔法の気配を引き出していた。やがて、蒸気らしきものが博士の魔法の気配を探り出し、二年ほど前に博士がここを訪れていたことを導き出した。
「そうか。ありがとう」
蒸気のように形を変えた自分の魔法に礼を言ったオルトは、周りに魔法を返した。魔法は、自分の中からひねり出すことも可能だが、周りから集めて使うことも出来るのだ。
「博士はこの『事故』を起こしてすぐに消えたみたいだな」
オルトは杖を自分の横に戻し、今度は岩から『時間』を吸い取ることに専念し始めた。
「僕の時間・・・・・・返してもらおう」
ふっ、と大きな風が吹き、一瞬で周りの気温が上がった。するとすぐに氷が出来そうなくらいに温度が下がり、やがて元に戻った。そして、オルトの目の前にあった巨石は消えていた。
「『時間』を使って行われたことは、その『時間』がなくなれば無かったことになる」
時を取り戻したオルトはもうここには用が無い。踵を返すとその場から立ち去り、次の時代へ行こうとした。しかし、さきほどこの場所を探り当てたときに使った魔法の残り香が、この時代にまだオルトの『時間』があることを訴えかけていた。
「なに?・・・・・・・・そうか」
オルトはもと来た道を引き返すことに決めた。ミシェルの向かった方角を探し当てる。
「なるほどね・・・・・・あの子に会ったとき、彼女の魔法から僕の『時間』を感じたのは、こっちの地方の出身であの巨石のそばを通ったからじゃなかったわけか」
一人で納得し、魔法でミシェルの方角を調べる。
「彼女も、僕の『時間』によって起こった事象の一つにすぎなかった、と」
不敵に笑うオルトは、『時間』を取り戻すためにミシェルのもとへ向かった。
「『時間』を使って起こった事象は、僕が『時間』を取り戻せば無かったことになる。彼女から『時間』を吸い取ったら、彼女は・・・・・・」
しかしオルトには関係なかった。死ぬのは、時が止まるのは何よりも怖かったから。
「さあ、行くか」
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ミシェルは中から出てきたモジャモジャの毛に覆われた、シャツ一枚の姿をした男に呆気にとられていた。身長はミシェルともそうは変わらないのだが、横幅が広い。ドアから出られないのではないか、というくらいに太っていた。
「久しぶりだなエバン。ミシェル、こいつが『影を湛えし目』の所持者、おまえに力の抑え方を教えてくれる男だ」
エバン、という男ははちきれそうなポケットから手を抜くと、ミシェルに握手を求めた。しかし、その目は影を湛えてなどいない。ハーゼンとほぼ変わらない、力の弱そうな青い目だった。
「あの・・・・・・・ホントに、わたしに力の抑え方を教えてくださるんですか?」
心配になったミシェルは肩から剣をおろしながらエバンに尋ねる。するとエバンは体格に似合わない甲高い声でくっくっ、と笑い、ミシェルの瞳を覗き込んだ。
「君の目はわしと同じ目じゃな。きっと、力は抑えられる。信じろ」
とだけ言うと奥の部屋に引っ込んで、食事の支度を始めた。訓練をするという手筈になっていたと聞いたのに、エバンは楽しそうに料理を始めるだけで、まったく訓練をするようには見えない。こんなんで大丈夫だろうか、とミシェルが溜め息をつくと、エバンは振り返って一言だけ漏らした。
「まずは食事だ」
「自分の調子」に人を合わせるのが上手そうな師を持つこととなったミシェルは、己の不運を嘆いてまたも嘆息をもらした。ミシェルは鏡を見て自分の忌々しい両目を見据え、とりあえず食卓についた。
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