3−2 気持ちの温度
ランチでも一緒にどうか? と、事務員の中村久美さんがいってきた。「相談」とは初めてのことだったので僕は一瞬驚いた。とはいっても、たぶん亜美のことに違いない。
久美さんはごく最近になって「君」で僕を呼ぶようになった。
当然それはプライベートでだけれど。
「宮下君。ちょっと亜美にいってくれないかな? 」・・・・・・やっぱり。地元が函館という以外、話題はそれしかないのだから考えることも驚くこともなかったけれど、驚くことにした。
「いいですよ! 」久美さんには借りが山ほどある。だから何事にでも先に、いいよ! とこれ以上はないという誠実な笑顔で真っ先に了解して、それから話の中身を聞くことに決めていた。そのときがきた。なんだかそれは嬉しくもあった。
体重を抑えるために僕はここ数日お昼はコーヒーとサラダにしていた。足に負担がかかり、その痛さよりも足を引きずるほうが嫌だった。
そのダイエットオーダーが聞こえないふりをした久美さんは、ハンバーグ定食をたのんだ。小声だった。
さてと。と、自分の右手と左手とで握手をするような仕草は久美さんの癖だ。結んだ手に祈るように力を入れる。
「剣道」言葉と言葉をつなぐ接続詞がない。単語だけでの話がかえって神妙さを大きくさせた。
「ケン? 」
「剣道をやるっていいだしたの。亜美が・・・・・・」
「ケンドー? 」
学校の友達関係だとか、恋愛だとか。そっちの「運動」ではないと勝手に決めつけていたものだから案外な驚く声をあげることになった。
「そう。ケンドー」眉間に皺をよせて口をすぼめている美人は、やはり美人なのだなと場違いなことを考えながらも「だって・・・・・・」と、僕はあとにつける言葉をさがしてしまう。
たとえば義足の僕がサッカーをやるというのと似ている。
僕に話しかけるときもこんなふうにしてみんな気を使っているのだろうな。たぶん。
普通に「足ないのに? 」といわれたって「そうさ」と普通に答えるのに。
けれどそれはその日の気分なのか相手によるのか、普通にいわれたらいわれたでこいつは無神経だと、かちんとこない時も・・・・・・ないことも、ない。途方もなくかっこ悪くてはずかしい話だ。そんなことは料簡の狭い自分だけの話だ。
そんな口に出せない鼓動のように微妙なところでのやりとりを久美さんは期待しているのだろう。
「そうなの、ょ」久美さんはテーブルのナプキンが震えるほど深いため息を吐いて「片腕でよ・・・・・・」といった肩は全部を絞りだされるほどしぼんでしまった。
腕がないからなどとはいってられないと、事あるごとに強くなれ。優しくて強くて明るい亜美は普通の人とかわらないといってきた。
ことあるごとに。
だから、久美さんの口からだめだなどとはいわれない。亜美はやりすぎるほどやるだろう。そして、久美さんが「だめだ」と、もし、口にだしてしまったら。いわなくても顔に出たら。普通を装ったその奥の薄い空気の淀みを感じたら・・・・・・。
勘のいい亜美は「この前のはなし。やっぱり、やーめた! 」と例のくったくのない笑顔でいうに違いないのだ。
久美さんはそこで悩んでいる。
自分のすべき態度に───。
平静を保つ。自信がない・・・・・・。二人の間には、まだ、遠慮がある。その遠慮は温かい。
「そんな人いるんですか? 」
「いる」
「えー! すごい」僕は本当に驚いた。人ごとといえどすごい人たちが、いる。そして、そんな人たちは「すごいだろ、俺! 」なんてことはおくびにも出さず、静かに人生を送っている。
「ちゃげあす」
久美さんは肩肘をついた手を頬にあてたままいった。単語だけで答える久美さんに僕はなんのことかわからず、オーケーはしたものの、やっぱり訊きかえした。
「なにあす? 」
「チャゲ&飛鳥」の「飛鳥のほう知ってる? 」と久美さんは僕を見る。少々憎しみが混じっているようにも聞こえた。逆恨みもいいところだ。『チャゲ&飛鳥』知っているも何も有名な人気デュオだ。
「飛鳥って片腕だったんですか? 」
「ちがうわよ! んなわけないでしょ」馬鹿ね、という顔をしてから笑って久美さんは話し出した。
「飛鳥涼が高校時代、全道剣道大会の決勝での対戦相手が『片腕の剣士』」
「片腕の剣士が対戦相手? 」
「おまけに今の仕事は警察官。ずっとあとになってだけど、私も伸太郎も全道大会には出場経験があるわ」久美さんの背筋はいっそう伸びる。
「すごいというか、こわいというか」僕の背骨も定規のように伸びる。
「お義父さんが、伸太郎のお父さんもその大会に出場していたの。話を訊いたことがあるわ。片手で斧を振りかぶるように構える上段。オオ鷲が翼を広げて虎を威嚇するような・・・・・・。水を打ったように静まりかえった場内を、睨みあう二つの野生の猛り声だけが響き渡り、木霊した。ああ、あの緊張感は忘れられないと断言してたわ」
伸太郎さんの父親は、函館から少し北の小さな漁師町の駐在をしている。
孫の顔を見られる日を心待ちにしていた父親は、伸太郎さんの死を今でも受け入れられないようだけれど、最近になって久美さんと亜美の暮らすマンションに初めて顔を出した。出張のついでだったそうだ。
亜美仕草を見る眼差しは孫のそれを、伸太郎さんの影をも重ねて眺めているようで、なぜもっと早くにこなかったのかと悔やみ、しきりに涙をぬぐって後悔していたそうだ。
伸太郎さんの父親の中村竜太郎が来られなかったのには理由があった。
伸太郎さんが事故に遭い、1ヶ月の意識不明のままついには帰らぬ人となった日から、その妻の中村良子、久美さんからすればお義母さんになるその人は体調をくずした。現在52歳の若さで健忘症が進み、アルツハイマーと診断された。
お義母さんは何でもできたスーパーウーマンだった。
バスガイドをしていた頃に中村竜太郎と出会ってしまった。当時、婚約相手がいたにもかかわらず、中村竜太郎の誠実さと強引さに押し切られ、ついには警察官の妻となった。
そんな妻はときおり、別人になった。
意味もない言葉で自分を責め、伸太郎の夜食だといってはおにぎりを何十個も作り、伸太郎がいなくなったといっては自分で食べ始める。
深夜に彷徨をするようになる。ごみ箱のかげで震えながら泣きながら、眠っていた。駐在の立場上、彷徨壁の家族を放っておくことは許されず、事故などで外出するときは柱に縛りつけなければならなかった。「かあさん、悪いな。すぐ帰るからな。ごめんな。・・・・・・ごめんな」
そんなときは決まっておとなしく「うん。伸太郎とまってる」と、遺影を抱きしめて子供のように笑って送り出してくれた。
そんな父親も定年が近い。良子を病院へ預け、何年かぶりに札幌へきた。久美さんと亜美に会いに。出張はたぶん嘘らしい。
引退後はその町にそのまま永住するという。そして少年剣士の稽古をつけ、釣りをして余生をすごすのが夢だという。
「なにより母さんがあの不便な町を気に入っててなあ。いつもいつも俺の釣った小さい魚を待っている。言い訳なんだが・・・・・・。来ようと思えば来れたんだ。本当は。いや、亜美ちゃんを恨んでる訳ではないんだ。ただ・・・・・・時間が必要だったんだよ。弱虫だよなあ、伸太郎にあわす顔がないよなあ・・・・・・」涙が目の下の皺にしみ込んで、線になって光った。
息が止まっているのではないかと思うほど、身動きひとつしない亜美の目からは涙があふれ、こぼれ、落ちて、握りしめるひとつのこぶしを濡らした。
伸太郎さんを忘れられない人がここにもいる。あの日から離れることができず、もがきながら淋しさと戦っていた。
久美さんの話が途切れた。
僕はゆっくりと船の舵をきるように話をもどした。
「亜美ちゃんが剣道に憧れるのもわかりますね」
久美さんは、うんうんと頷いた。そして何かにぴんときたようにいった。
「あ、義父さんだわ。亜美に『片腕の剣士』話したの。最近、亜美の携帯に電話をかけてくるもの。お義母さんも会いたがっているんだって。できれば冬休みにでも遊びに来ないかって。でも・・・・・・。そしたら」
あの・・・・・・。
信号無視をしたトラックが青の横断歩道に突っ込んできた事故のとき。亜美は横断歩道の先を行く伸太郎さんを追い越す間際、手のひらにハイタッチをした。そのとき感じたごつごつした手のひらに硬いしこりを亜美の小さな手は覚えていた。それはきっと竹刀のたこではなかったか。と、いま思う。といっていたという。しかしその手は今は、ない。
したいことはさせてあげたい。しかし、思うことと現実は違い、口にするということは現実になったことでなければならない。ということも教えておかなければならない。軽く押した実印よりも真剣な言葉のほうが・・・・・・何倍も重い。
「成績でも落ちれば、そのせいにして反対もできるんだけど。相手は───」久美さんは自分のこめかみを指の先で2度つついて「亜美だから───」と続けた。勉強はできると訊いていた。
「ですよね。学年トップですか? 」
「2番」
「あれ? 亜美ちゃんより優秀な子がいるんですか? 」
「あれは宇宙人ね。オール100点でぶっちぎりのトップ。追いついたとしても追い越せないでしょう」
「全教科満点! そりゃすごいガリ勉なんでしょ? 塾とか行って、家庭教師とかつけた英才教育を受けてるんでしょう? 」
「宇宙人は家庭教師をつけないわ」
「だよね」
「学校は休みがち、友達はいなくていつも一人で携帯いじって、声を聴いたことがないんだって。怖い顔した中年と一緒のところを見た子もいるの」
「それは紛れもなく宇宙人だ。大人連れの」
「亜美は友達になりたいんだけれど、相手にされないんだって。友達になんかならなくたっていいのに」本心がぽろりと出る。「まあ、いろいろと心配よぉ」と溜息でもない溜息をした。
やはりそれはいろいろあるだろう。亜美は自分の命を伸太郎さんに救われ、そのあと久美さんにしてもらったことを、誰かにもしてあげたい。「伸太郎さん、亜美はこうなったよ! 見てよ! 」と胸を張っていいたいだろう。それは。
久美さんを通じて伝わるはずだ。ちがう世界の伸太郎さんに・・・・・・。
「なんかね。いじらしくて。でもね、それが度を越しちゃったら可愛そうで。普通に休ませてあげたいのよ。歩いてもいいところはゆっくり歩かせてあげたい。けれど、甘い顔をするのはかえって亜美に悪い気がするの」
久美さんも応援をしたいんだ。本当は誰よりも。
いいじゃないか応援すれば───。そして、疲れたら休んでもいいじゃないか。
「そうですか。亜美ちゃんには僕がなんとか話してみますよ」
とはいいつつも。
僕は亜美を応援しようと思った。
なんといって応援をするのか?
頑張れ! か?
僕が、頑張っていない僕が、頑張れというのか? ちがう言葉で「頑張れ」を言い換えようとする自分が顔をもたげる。言葉だけをかえても亜美には100%通用しない。
それに。
なんなんだこの、いいようもない怒りは・・・・・・。
怒っているのか僕は。
自分に・・・・・・。
生まれた犬はたった20日で人間でいうところの一歳。100日で10歳。1年では18歳になる。
亜美もどんどん活発になり大人になる。何年かの時間を病室で、抜け殻のように過ごした日々を取り戻すように。
「今の活発に加速がついてきて、このままいったらどうなるんだろう? 」久美さんの亜美に対する心配は切れ目がない。
「静かに部屋にこもっているより1000倍いいじゃないですか」
「それもそうだけど。最近になって変なことがあるの」
「恋ですか? 」
「ちがうちがう。『宗方亜美さんはご在宅でしょうか? 』っていう変な電話。子供じゃないの、大人の、裁判官みたいに四角ばったいいかたをする男の人の。居ないっていうと『ではまたのちほど。失礼いたしました』って。あとを着けられていた気がするっていってたこともあったわ」
「気持ち悪いですね」
「でしょ」
「だから護身用に剣道かな? 」
「んー・・・・・フクザツ」
頭の中の大部分を占めていたことを口から外に出したことで気が晴れたのか、久美さんは頼んであったハンバーグを仇のようにフォークで刺して、満足そうに食べ始めた。
もうひとつ。これは相談ではなく報告だけれど。と、前置きをして久美さんは一口水を飲んだ。
「わたし。会社辞めます」という言葉に僕はおどろいた。
「どうしたんですか?! 」
「いやいや。亜美にうるさいことをいうわたしにも、途中で投げ出しているものがあるのです」
「だから辞めるんですか? 」
「そう。学校へ行くわ。そして保健士になる───」
実は亜美の影響を受けているのは久美さんで。お義父さん夫婦で。
そしてみんな亜美を見守るために大きくなりたいと願って、自分を磨こうとしているのだ。その中に僕も入りたいと思った。
久美さんが学校へ行く話は、きっと、たった今、決めた事ではないのだろうか?
頑張るのに理由はいるだろうか?
誰のためとか、自分のためとか。
そんなことを考える必要はあるのだろうか? 「頑張った」だけで終わったっていいじゃないのか?
空気の抜けたサッカーボール───。
なんとかいってみろ───。
「頑張りたいけど、頑張らない」といった鈴の言葉が浮かんだ。
急に鈴が愛しくなった。
それから話題はこちらに矢の向きがかわる。
▽
「もう好きになったのよ」
「・・・・・・」
食事をすすめる久美さんの指はきびきびと美しく動く。そういえばレストランの娘だったらしい。その指先にむかって、僕は鈴のことを話していた。
コンビニでのプリンのこと。次の日、偶然に出会ったこと。そしてまた次の日には夕食を一緒に食べたこと。初対面とは思えないくらいに気が合い、話が弾んだこと。
別れるとき、抱きしめたことは。いわなかった。
「たぶん、出あったときにね」
「喫茶店で? 」
「ううん」久美さんは首を振って「コンビニで」と、唇の両端をきゅっと上げてぼくをみた。
久美さんのマンションに夕食に招待され、亜美と初対面をした日から僕と久美さんはいろいろな話をするようになった。
もともと僕は傷害事件を起こしたときに担当であり、世話にもなった坂口刑事を通じて、久美さんに今の会社を紹介してもらった。そうではいても、ふたりの間にはなにか見えない小川があり、それをはさんであちらとこちらで言伝をするような距離感があった。
それは久美さんも僕も函館の人間であり、3年前にそこで起きたことは当然知らされている。
今になっても癒えるはずもなく、忘れたと自分に言い聞かせて日々を送っている。紡いだ糸を巻きとるような毎日は、いつか切れそうでもある。ひとことふたこと喋っただけで、過去の記憶もおまけのように引きづり出されるようで臆病になり、物陰に隠れるような、そんな日々だった。
ただ、そこに亜美が僕と久美さんの架け橋となった日から、急速に今までのうっぷんを晴らすように、腹を割って話せる人が、この札幌で初めてできたような気がした。
「コンビニ? それはないよ。一瞬、すれ違ったようなもんですよ」
「一瞬でも、強烈さの問題よ。短くても量があれば同じ。落雷! 」ピカッ! ガラガラ! ドッカーン! といって、久美さんの人差し指が僕の心臓を刺した。
会社では敬語、プライベートでも敬語。とは思っていてもそれは思うばかりで、やはり熱が入るとため口が混じり、訛りも出かかる。
「そりゃ、気にはなりますよ。美人だから。レストランに行く途中、何人か振り返ってましたもん。でも、好きにはなりません・・・・・・」
思い出した。
歩く速度は鈴のほうが速くて、引っ張られているような感覚があった。
おなかがすいた、早く早くといわれても僕は、まぁまぁあわてないあわてない、というふうな余裕を見せかけていたけれど、本当は必死だったんだ。あの日は特に歩きすぎていた。
それを、夜の街灯の中なのに人の目が気になり、周囲を伺った。僕の左足を見られているような気がして。
今思えばそれは、鈴が目立っていたんだ。みんなは鈴を見ていた。「はらへった」などと平気でわめきながら、それでも力強く踏み出す長い足の正確さは草食動物のように乱れなかったし、美しかった。
鈴の通ったあとは何かが整理されて、整頓されたような不思議な風が吹いた。
まあ、あの声でいわれると「殺すぞ! 」と怒鳴られても「愛してるの」に聞こえるかもしれない。
その時から、どうしたらいいのか実は分からなかったんだ。もしも・・・・・・。
ありえない万が一が起こったとして、このまま恋にでも落ちたら。まずいんだ。いいことなどはおこらない。
「どうしてよ? 」
久美さんが指で千切ったレタスを頬張りながら訊いてきた。心が読まれているのかそれとも考えていたことを知らずに口に出していたのかと一瞬あせって僕の声は語尾が上がった。
「はい?! 」
「どうして好きにはならないの? 」
「無理だから、好きにはなりません」
「抑えて止められるものだったら苦労しないわ」
「いや・・・・・・」それはそうだ。
「宮下君の言葉の最初にはいつも『どうせ』がつく。どうせ僕には。どうせ無理。・・・・・・どうせ足がないから」最後のどうせ足がないからを、すらりと流そうと意識してかえって喉が震えたようだった。
その言葉は僕の心の端っこを焦がした。
「どうして、メール読まないの? ちがう相談とかかも知れないじゃない。読まなくてもわかるの? 」
───え? わかったつもりでいた。決めつけていた。鈴の言葉を・・・・・・。他愛のない挨拶だの、時間つぶしのメル友ぐらいに。
気にしだすと僕の胸は嵐のようにざわついた。
ちょっとごめん。僕は携帯を取り出して鈴のメールを開いた。
久美さんは、勝手にどうぞというふうに広げた手をひらひらと振った。
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