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君の目をみて いえること
作:三小屋真尋



1―18 夜明け


 してきたことへの後悔?
 それとも・・・・・・。
 できなかった、いや、しなかったことへの後悔?
 これから起こることへの怯えと不安。
 これから起こそうということへの焦り・・・・・・。
  
 堤防の淵を歩くような浅い眠りから覚めた直後に始まるのは、形のないものへの憂鬱だった。

 鈴の唇が「じゃあ、へーちゃん? 」と形を変えながらコマ送りの写真みたいに動いたとき、僕はどうしていいか分からなかった。うろたえる自分を隠そうと後ろを振り向いた。
 後ろの誰かにかけた言葉ではないかというふりをして。
 あの時笑ったようなそれは深緑の観葉植物の艶ではなくて、香織の揺らめきだったかもしれない。
 あの時僕は、鈴の窓のような丸い瞳に必死に問いかけていた。
 心の奥の、がらんとした空洞のどこかから薄っすらと差し込んでくる淡い灯りに叫んでいた。
「え? 」(香織・・・・・・? 香織なのか?)「なにが? 」
「じゃあ、へーくん? 」
「・・・・・・」(香織───)
 あの瞬間から鈴と香織は僕の心で重なってしまったのかもしれない。
 鈴を通して香織と話し、鈴を通して香織と食事をしていた。そして、香織の言葉を鈴を通して聴いた。
(明日の仕事は6時に終わるから、じゃあ7時! 7時に会って、今度はご飯食べよ! ねっ、ねっ! )
(きゃー。パスタ食べほうだい? )
(ピザも、スイーツも食べ放題よね? もちろん)
 あの頃の風景を思い出し、懐かしみ、僕は始終、これまでにないような笑顔を湛えて、目を細めていたに違いない。
 過去に残してきた「気になるもの」は時が経つにつれてしこりになった。シミになって焼きついた。そんなものは入力ミスを消すようにクリアキーをぽんぽんと叩いて消去して、またそのきれいな風景のお気に入りの場初からやり直すことができたら・・・・・・。
 どうせなら。ついでに小学生まで戻って、病気になんか負けないで「頑張れ! 」と父親に連れられて函館を去る香織に一言でいい───。追加できたら・・・・・・。
 どうせなら───。
 会社の求人カタログに僕の写真が載っていなければ。
 忘年会で前社長を送る車に乗らなければ。
 どうせなら・・・・・・。
 僕の父親と母親が出会った季節を消去すれば。春がなければ。僕がこの世にいなければ・・・・・・。函館という街がなければ。

 鈴に「頑張ってる? 」と問われたとき。僕は蝋人形のように何も言えず、呼吸もできなかった。
 昨日も今日もそれを訊きたいがための演出ではないのか? と、勘繰りたくなるほどそれは慎重で、最初から狙っていた急所へ遠くから矢を放ったように、緩い放物線を描いてトン! と、命中した。
 香織がビタミン剤を補給するように言っていた、癖のように呼吸のように自然に使っていた言葉はその数をかけ合わせたしたように重かった。
 香織───。君は僕に頑張れと言った。けれど君はさっきまでそこに見えていたはずの湖の波紋のように消えた。君はとても深く傷ついたけれど、せめてもう少し僕の帰りを待っていてくれたら、僕は『頑張れ! 』と言ってやれた」・・・・・・はずなんだ。抱きしめて、必ず言ったはずだ。
 君は僕に「すまない」と「顔向けができない」と思ったのだろうか? 僕が今でもそう思って、眠れない長い夜を過ごしているように・・・・・・。
 それとも、もっと他の理由があったのか? (ありがと・・・・・・さよなら・・・・・・へーちゃん)だけじゃ。
 分からないよ・・・・・・。

 鈴は勘のいい子で、見えない呵責の布で何層も包んだようなそれを瞬時に読み取ったのかもしれない。初めて無口な父親に叱られた子供のように話すことを止めて、淋しさの降る中で佇んでいた。
 帰り際に精一杯の息で言った。あの。
「頑張りたいのに頑張らなくて・・・・・・、わざと頑張らないふりをして・・・・・・」
 声、という形に現わされて初めてはっとする。
 超えられない───。と思い込んでいた敷居の外へいとも簡単に引っ張り出してしまう「声になった言葉」
 僕にはその声の必死さが切なかった。そして、そして鈴を抱きしめた。
 鈴が愛しくて抱きしめたのか? その後の言葉が声になるのが怖くて、口を塞ぐために抱きしめたのか?
 それとも香織を。もう居ないはずの香織を抱きしめていたのか?
 僕は・・・・・・頑張りたいのか? 
 僕は・・・・・・頑張らないふりをしているのか?
 僕は・・・・・・誰かにそれを言われることを、待っていたのか?

 抱きしめられた鈴はそれをどう受け止めただろうか?
「また会える? 」という問いに頷いただけの答えを、鈴はどう解釈して、手を高く上げながら何度も振り返りホームへ消えていったのか?
 
 生まれたと同時に、くじに当たったも同然の二代目が、ある日から突然権力を手にする。そして処方が分からずに持て余した権力を軌道を無視した薙刀なぎなたのように振り回す。
 今まで練り上げた努力も苦しんだ年月もゴミのように、なかったようにあっさりと破り捨てられても。硬く手を繋いでいた筈の仲間も上司も、まるでいまさっき紹介された者同士のように、胸の探り合いを始めても。
 そこで、なお、頑張る必要はあるだろうか?
 笹木専務のように実力を押し殺して「召使い」を演じていたほうが賢くて、結局はその方が正しかったのではないのか? 
 頑張りたいのに頑張らなくて、わざと頑張らないふりをしているのと「召使い」を演じているのは───同じではないのか? 
 僕も───「召使い」になっていたら。香織は死なずに済んだか? 今でも。得意のパスタを作ってくれていたか? プリンをごっそり買ってきたか?
 今でも。夜の公園にギターを担いで行って、手を叩いて・・・・・・その日の気分で作った歌を歌っているか?
 
 実際。
 香織がいちばん悲しみの雨に打たれていた時間。ひとりで川で立ち尽くしていたような時間。途方に暮れていた時間。
 僕はそばにいてやれなかった。いや、やらなかった。
 逆上して、仕返しをすることしか頭になくて。仕返しをして、楽になりたかったのは自分で、結局、かっこつけてただけで・・・・・・。独りよがりで・・・・・・。
 
 どうすればよかった───?
 ふたりで、白でも黒でもない灰色の沼へ逃げ込めばよかったのか? 灰色と言っても、薄い灰色から濃い灰色までそれは無限にあるはずで。
 安直に「一応ここで」と羽をたたんだ場所で、はたして気を休めることはできただろうか?

 何をどんなに後悔したところで・・・・・・。

 香織が一人で死んだ日。死んだような僕は留置場にいた───。 
 
     ▽
 
 重い体を起こしてテレビをつけ、薄く焼いたパンとインスタントコーヒーだけの朝食を済ませると、毎日の行動パターンが呼び起こされる。優先順位が替わる。
 そして。後悔や怯えや不安を圧縮して隅へ追いやって、錆びた自転車を漕ぎ始めるようにこれから始まる1日へ向かう。
(適当にやってるのがお前には似合っているよ・・・・・・)
 あの声がした。空気が抜けたサッカーボールの、頭骸骨に似た、あの・・・・・・。 

 朝のニュースは幼児虐待が1件。強盗殺人が1件。政治家の汚職。
 札幌では白昼堂々と引ったくりをした奴がいる。盗んだバイクで若い女性のバックを力ずくでもぎ取ってすすきのの街へ消えた。依然、2人組みの足取りはつかめていない。むちゃくちゃだ。
 明るい話題だってそれは、ある。
 スポーツ選手が海外で活躍した。有名人が結婚した。ただ、1日は終わってみなければ分からない。

 携帯の電源を入れた。メールの問い合わせが開始される。
 出会い系か何かの迷惑なコマーシャルが1件。そして。

 鈴からだ。1件。

 開封せず、返信はしなかった。












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