1―17 彼女に捧げるもの
三木香織とは、顔を知っているというだけだった。
初めて話を交わしたのは、僕が22歳。香織も誕生日がきて22歳になったばかりの冬だった。
その年は暖冬で12月だというのに、ダウンなど着ている人は旅行客ぐらいで、陽が照れば春先に着るような薄手のジャンパーでも平気で街を歩くことができた。
雪がない真冬は、砂煙が舞っていた。
香織はその年の新入社員だったけれど僕のほうが4年先輩だった。
4年制の有名な大学を卒業してきた彼女でも、新卒なので同じ歳ながら4年後輩ということになる。
当面はスタンド勤務となった香織と、現場を走り回っていた僕は当然のように会う機会がなかった。
彼女は目立たなかった、というより目立ちたくなかったらしい。とはいってもその容姿でそれは許されなかった。当然のことだった。
そのギャップが「暗い」というイメージの電波を拡張して発信することになったのかも知れない。
入社当時には、「誰もが声をかけたいリスト」の常連に顔を覗かせていたらしい。
しかし良く言っても精神面が弱い、悪く言えば偏屈で暗い、と言う自称「遊び人」の彼らのからかい半分の話を鵜呑みにして「積極的にはなあ・・・・・・」と、本を跳ばして読むように言って、僕らは違う話題に切り替えた。
小さい顔と切れ長の目はフランスで活躍している日本のモデルに良く似ていた。要するにスタイルがいいと言うことだ。
長い髪の毛は後ろで一本のときと、たまに両方に2本で分けて結んでいるいるときがあった。
「話す時にな、目を逸らさないんだよ。吸い込まれそうになるぜ。おっかねえぜ」大げさにへらへらと言うこいつは、きっとにべも無く振られたのだろうと僕は思うことにしていた。
「氷の女」と噂された。
「触れた者は一瞬で氷漬けになる」という大馬鹿なやりすぎの話には、氷漬けはお前の脳みそだろと、思わず口に出して眉間に皺が寄る。
だから・・・・・・社内でも最低3人は振られたと、指を折って僕は予想をたてる。
「大学で経済を学んだ才女が、スタンドでガソリンの給油しているの? それはもったいない」と言われる反面で、「性格が人並みではない野人か河童みたいな、それは人に似た妖怪みたいな一面があるのではないか? 」と言う無責任な笑い話の主人公にもされていた。
こういうのは「言われる人」の側に「言われる才能」があるのではないかと思うほど、「言われる人」というのは決まっている。
「言う側」が「言う事」に飽きないほど魅力がある、とも言えるけれど「損な星の下に生まれたとしか言いようがないな」と、湧き出る週刊誌のネタのような話題に僕は鼻を掻いた。
学歴をひけらかすでもなく、香織本人としては事務職よりも動いていたほうが労働時間のテンポとリズムが軽快で体に合っているらしかった。
それが自分に対する健康ヘの義務のように。
実際、ユニフォーム姿の彼女のステップのような足取りは、サワードリンクのテレビコマーシャルを見ているような爽やかさがあった。
仕事を率先してこなす「氷の女」は、案外客受けが良かった。
▽
3年前の忘年会で前社長が酷く悪酔いをした。
自宅へ送り届ける役に仕立てられたのが、僕と、偶然そばに居た香織だった。僕はあまり飲めないために送る役回りが多く、当然のように「悪いな」と頼まれるようになっていた。まあ、その方が僕としても我慢して飲むより都合が良かった。
運転は香織がするといってきかなかった。
こんな場面で、女が運転し、後部で男が介抱するなどというパターンは、映画でもドラマでも観たことがなかった。僕としては不自然極まりないと言うか、変なプライドが許さないと言うか、とにかく運転は僕がすると突っ張った。
が、負けた。
発進と同時に「鳥羽一郎」が歌いだした。憎い虫でも叩くように香織はスイッチを切った。
「このエロ爺は、何だかんだ言っては触ってくるんですよ」
「社長がか? 」へーと、僕は可笑しくなって「こんなに酔ってりゃそんなことも出来ないだろう? 」と言いながらルームミラーに目をやった。
ミラー越しに目が合って香織はすぐにそれを逸らした。さっきから見られていたようだった。
凍結していない道路は走りやすい。つられてスピードも上がる。
「悪魔がくるぞ! 」エロ爺が大声を出した。「わあ! 」
香織はブレーキを踏んで後ろを振り返った。「寝言ですか? もう」ビックリしたわ! と胸をを撫で下ろす。
「社長? 大丈夫ですか? ほんとにぃ」僕は眉を下げながら社長を揺すった。
「宮下・・・・・・。悪魔がくるぞ。だから・・・・・・俺は辞められない」
「悪魔! ですか? 」
「そうだ。覚えろ」
「覚えろって、なんですか? 」
しかし、社長はそれきりまた眠ってしまった。
「覚えておけって事じゃないんですか? 」ルームミラーの香織が言ってくすっと笑った。
社長の自宅には何度か呼ばれて、ご飯をご馳走されたのでよく知っていた。僕の案内通りに先週3度目の車検を取り終えたクラウンは、左折して止まった。
見事な白髪の社長婦人はとにかく上がってお茶を飲んで帰れと、困る僕らを引き止めた。
礼を言って玄関を出たのはもう深夜1時を回っていた。
帰る車は僕が運転した。先に香織が助手席を占領したからしょうがなかった。
「要領、良すぎじゃねえか? 」いいのは言葉遣いだけだなあ、などとは言いながらも結局は意外に話が合っていた。
しかし、視線というものはこんなに感じるものか? 左の頬がびりびりとする。香織は外を見るでもなく前を見るでもなく、さっきから僕の顔を見詰める目は動かない。
「あのなあ。左側だけ日焼けしそうだぞ、そんなに見たら」
それでも逸らさない。
「あのなあ? 」もう一度言った。
「分かりませんか? 」と、香織が首を傾げたので、腹が空いたかそれとも、お手洗いかと思って、僕はコンビニを探した。「ああ、ごめん。もう少し待てる? 大丈夫? 」
「もう一度、言って・・・・・・」香織が言った。
「ええ? もう一度謝らせるのかあ? 」なんだよ? 僕は笑ってしまった。
「『大丈夫? 』って、言って・・・・・・もらえませんか? 」
さっきまでの雰囲気と変わってしまったので、心配になった。
「どうした? 大丈夫? 」
「ありがとう・・・・・・」
やっぱりおかしいな、と思いながら振り向くと、香織は、小さく笑っていた。対向車のライトが照らした。映し出された顔は泣いているように見えた。
「あれ? 」僕は車を脇へ寄せて、止めた。
年末が近いせいか、この時間でも車の通りは多かった。後ろから近づいてきたライトは迷惑そうに逸れて、僕らの車を追い越していった。
香織が昨日あったことのように語りだしたのは、ずいぶん前の、子供の頃の話だった。
地面に落ちても積もらないだろう雪が、旋回するように降りてきて、ボンネットの上で水玉になった。
▽
あの時の私は、嬉しい気持の出し方を初めて覚えた気がした・・・・・・。
小学校3年のとき、私の頭には腫瘍があった。
薬の副作用で顔が腫れて、豚と狐のような顔をした私は体調もすぐれず、学校も休みがちだった。クラスでも病気が感染りそうだといわれた。今思えば子供の口は残酷で容赦がない。
口を利いてくれる子は1人か2人だった。それも仕方が無く「うんうん」と口に出すだけですぐに離れていった。
吐き気がして玄関で膝を抱えていたときだった。男の子が声をかけてくれた。宮下君だった。驚いたより怖かった。どうして私に話しかけるの?
「どうしたの? 大丈夫? 」
そしてランドセルを保健室まで運んでくれたんだ。
「先生。俺、何かやることある? ない? おい、大丈夫か? 」真ん丸い目がおろおろしていた。
「嬉しかった・・・・・・」大丈夫? って言葉が・・・・・・。
嬉しくても涙が出ることを知った。
思い出して、泣いた。思い出しすぎるのがもったいなくて、我慢して少しづつ思い出そうとしたけど、よけい涙は止まらなかった。
私の両親は離婚していた。
私はお母さんと一緒にいたけれど、東京にいるお父さんの元で入院して手術を受けるために転校をすることになった。そして、また前の苗字に変わった。
そう、あの瞬間で私は宮下君を好きになったのだと思う。だから、焦ってしまったのだと思う。
普通に呼んだのではすぐに忘れられてしまうと思った。どうしよう・・・・・・。
今思うと変な形の変な向きの勇気だった・・・・・・。
ありえない「へー」と呼んでみたけど、それは返って嫌がられてしまって、とうとう顔さえ合わせることはなくなった。
私はそのまま父に連れられて、函館を出ることになった・・・・・・。
△
「え? なに? 」
僕は頭の中の記憶を猛スピードで巻き戻す。え? え? と呟きながら。
たしかに「へー」と呼んで近寄ってきた女の子がいた。不甲斐ない僕はわざと素っ気なくその子を遠ざけた。
しかし───、香織ではない。別の子だ。違う。香織は勘違いをしている。
僕はその頃のあたりの記憶を、また巻き戻しては再生をしてを繰り返した。
そういえば、名前さえ知らない・・・・・・。
僕にはまだ、信じられる話ではなかった。
「それにしても、今は同じ会社にいるなんて、すごい偶然だな」
「偶然ではないです」
「は? 」
発進しようとしていた車はまた止まった。体が前のめりになりシートベルトがきつくなった。香織がまた、とつとつと話し出す。
「お母さんが一人で北海道にいるので、就職はこっちでしようかどうか迷っていました」
「うん」
「会社の求人募集のパンフレットに、ヘルメットを被った宮下君をみつけたの」これは偶然。
「あ、あの? 指を指して上を見てるやつ」
「そう」
「でも、小学生からは変わってるでしょ? 分かったわけ? 」
「分かった。だから、電話で確かめたの。宮下洋兵さんはそちらに勤務していますかって」
「いたわけだ」
「そう」
「で、入社? 」
「うん」
「ええー! まじな話? 」
「大まじ。入社から今日まで話もできなかったけれど・・・・・・。社長が任せろって」
「エロ爺が仕組んだわけ? 」
僕は参ってしまった。
こんな零細企業に有名大学を卒業した女子が入社した。社長も興味がない訳がない。
香織がする社長の話は僕らよりも親しげだった。
それから僕と香織は帰宅途中に夕飯を一緒にするようになった。
香織は僕を「洋兵君」と呼んだ。同級生だったなごりだそうだ。
あの時「へー」ではなくて「宮下くん」とか「洋兵くん」と皆と同じように呼ばれていたら僕は、それでも避けただろうか?
お気に入りの横山珈琲館で待ち合わせた。香織はパスタとプリンが好きだった。ホラー映画を観た。アニメも観た。
二人で漕ぐ自転車に初めて乗った。なのに、香織は漕ごうとしなかった。
お気に入りアーティストのコンサートに札幌まで出かけた。
音感が良かった香織はギターもすぐに弾けるようになった。僕が適当に作った歌を次の日にはコードを付けて歌っていたのには驚いた。
新しいギターを買った日。どうしても部屋を出て歌おうと言い出したのは香織だった。渋る僕の重い腰を漬物石を持ち出すように力づくでグリーンベルトまで連れ出した。たしかあの時は、何か交換条件を出されたはずだ。
香織は「頑張れ」を連発する。「頑張ろう」「頑バ! 」「頑張れ」「頑張ってる」「頑張った」
滑り台とベンチがあり、街灯が灯っていた。人などいなくて、返って安心した。
香織が満足すればそれで良かったので、適当に作った例の歌を唄った。
≪ 秋には落ち葉が似合うのは 秋と落ち葉は恋してるから
だけれど冬の北風は 二人の恋の邪魔をする・・・・・・ ≫
珍しかったのか5人ほどが立ち止まっていた。香織は見知らぬ女子高生の手を握ってガッツポーズをとっていた。「頑張った」
香織の顔立ちと行動はアンバランスなので、慣れるのに時間がかかったことを思い出した。
手料理を食べ、互いのアパートへ行き来するようになり、ときどき泊まった。
香織が本を読む傍らで、僕は諦めていた国家試験の勉強にも身を入れるようになった。
香織は日が経つにつれ明るさを表面に出すようになった。それに比例して次々と交際を申し込まれ、その度に言い寄る男をバッサバッサと切り捨てていった。
僕は陰に隠れて鼻をいっぱいに高くして伸ばしては、気分の良い空気を吸った。
そして2年が流れた霧が立ち込める日が来た。
関節の痛みを思い出すようなどんよりとした日だった。
▽
現社長、佐東伸幸がメーカーの懇親会に香織を連れて行くと言い出したことを僕は知らなかった。香織も僕にはそれを言わなかった。そして───。
香織は犯された。
香織の初めての無断欠勤はとにかく心配だった。心臓が耳に移ったように大きく鳴り出した。
僕は香織のアパートのドアを叩いた。携帯を鳴らしながら、何度も何度もドアを叩いた。
初めて合鍵で開けようとしたとき、タオルを頭から被っておずおずと出てきた香織の顔は、大きな青痣が顔の半分を占領していた。唇は切れてずたずたで、鼻血が黒くこびりつき、片方の目は違う角度で、僕がいない何もないところを見つめていた。収まらない震えは、何かの振動機を掴んでいるようだった。あの美しく艶のある長い髪は、無残に毟られて半分に切られていた。
「こんな───」
僕は、佐東伸幸にクリスタルの灰皿で殴りかかった。「お前は死ぬべきだ! 」と確実にそう思って殴りつけた。
佐東はパンを食べた後のようにあっけなく、自分以外の誰かの事のように言った。
「お前の女なんだってなあ? 」といい「女が誘ったんだ」と嘯き「10万やるから10日休んでなんか食え」と僕を見上げた。
ゆっくりと上げた顔は、「俺は神なんだ」と言いたげだった。
「殺したいんじゃない! 生かしておきたくない! 」だからお前は死んだ方がいい───。僕は虹色に光る灰皿を振り上げて。・・・・・・振り下ろした。
躊躇? こいつにそんなものは必要ない! 人に躊躇させる栄誉なんかこいつには与えない。
それでも佐東は僕を薄笑いで睨んでいた。「やれるもんならやってみろ」と。細い目が当たる直前まで「やってみろよ」と。
社長室のドアが開いた。瞬間、ドアに視線を移した顔がぶれた。クリスタルの光は狙った頭蓋骨を反れ顔面を直撃した。鈍い音が手首に伝わった。意外に重い灰皿だと妙なことを思った。
象のような、馬が嘶いたような声の録音を伸ばしたような、緊張のない悲鳴とよだれを流しながら、スローモーションで佐東が椅子から転げ落ちていった。
そこでもなお権力を鼓舞するように高価な椅子は倒れず、向きを変えて倒れた主人を見つめているようだった。
先を潰したホースから吹き出る水道のようにじゃーじゃーと血が吹き出た。根性の色を表すように黒かった。
佐東はそれでもなお、笑っているようだった。
▽
ブランデーを1本空け、睡眠薬を50粒呑んで浴槽に沈んでいた香織のことを訊かされたのは、留置場の中だった。
良かったのか悪かったのか、佐東は頬骨を陥没し鼻を折られて、潰れた顔で生きていた。
香織の部屋から、佐東がいくつかの訓示で何を言ったか、香織をどう暴行したのかを録音したボイスレコーダーが見つかった。
「あなたは、やっぱり洋兵君が言った通りよ! 鼠のように小さい心の人間がどうして社長なのよ!? 愚鈍なのに運良く権力が降ってきただけじゃない! 」暴力の音はその直後から永遠と続く・・・・・・。
僕は懲役1年、執行猶予が3年と言い渡せれた。
ボイスレコーダーがなければ執行猶予はなかったと思う。香織が痛かった分や苦しんだ分。恐ろしかった分や悔しみの分で3年の執行猶予が付いた。
香織の僕のために食いつぶしたような人生を思えば、それが重いのか軽いのか分からない。僕はただ心のシャッターを下ろして、何処までも暗い穴のなかでひとりで休んでいたくなっただけだった。
遺書はなかった。
ただ、ボイスレコーダーの最後に・・・・・・。
「ありがと・・・・・・さよなら・・・・・・へーちゃん・・・・・・」
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