1―1 プロローグ(イメージの袋)
彼女のいいだすことはいつも前置きがない。だれかが勝手にリモコンをいじったテレビ画面のように切りかわる。それは・・・・・・。
タンスの上からこっちをめがけて、まるで、ダイビングでもするように落ちてきた空箱のように、びっくりするのとおかしいのとがうしろから追いかけてくるような、そんな話からはじまる。
▽
「じゃあ・・・・・・。
へーちゃん? 」
たしかにこっちを見ていた。まっすぐに見ていた。そしていいだしたんだ。
ひとりごとか? と思ってしまった。それほど彼女のいいだしたことは駅員が差し出す切符のように唐突であり、洗練されているというか無駄がないというか。だから差し出された切符には自然に手がでる。改札をくぐればもう引き返すのはおっくうなのだ。
「え? 」うしろの誰かにいったのかい? 僕は緊張したまま背骨と頚骨をねじる。筋肉痛をがまんするように後ろを振り向いた。恐る恐るといったほうがわかりやすいだろうか。
誰もいない。
手入れのいきとどいた濃い緑色をした観葉植物があった。小学生の背丈ぐらいだ。
何といっただろう。この木のなまえ。2本の幹がおさげ髪のようにきれいに絡まりあっている。ひし形のいちばん上の葉っぱが加減された空調の風にゆられて涼しげに笑っているだけだ。その奥の葉っぱのすき間から見覚えのある瞳に見られているような気もするけれど、誰もいない。
彼女に目をもどす。
大きな黒目に見つめられている。見つめられているのはやっぱり僕だった。
「なにが? 」いや、誰が、か? 僕は言葉をつまらせた。
困る───。
まったく困る。
意標を突かれるのはきらいなんだ。一瞬、おろおろする自分がちらりと見える。すると少し虚しいなにかをかじったような気になる。そのまま飲み込むのかそれとも吐き出すのか、そう、その一瞬のうろたえる時間だ。
ビーム砲の発射スイッチに指をかけてでもいるような眼差しの彼女の思考を探る。考えていることなんかわからない。それでも僕の脳みそは「あーでもない、こーでもない。いやいや、こーかもしれない」と、しょーもない大騒ぎをするのだ。
これを「うろたえる」という。
僕はこの「うろたえる」のが嫌い(すきな人はいない)で、だからそれを変にだとか、過剰に意識してしまって補正をし過ぎてしまう。結局、もっとうろたえてしまって、あとになってひとりで反省をし、もっと後になると虚しさに変色し、そして徐々に後悔の色にかわる。
なにが? を「否定」ととったのどろうか、彼女はなにが? の種類をかえた。
「じゃあ、へー君? 」もっとわからない。
「・・・・・・? 」と、僕の首はフクロウの柱時計ようにチクタクと傾き始める。悪いけど、もうこれ以上かしげられない角度まできたようだが。
彼女の先制攻撃は続く。「どうする? 」
といわれても。決まっていないおかずの材料を買ってこいと言われてるみたいで、やはり返答は口の中でサイダーの泡のようにシュワッときえる。
「・・・・・・? 」
「じゃあ・・・・・・おい! とか、ねぇ! とかになっちゃう? それは駄目よぉ」と彼女はかぶりを振った。
「・・・・・・?」
「なんて呼ぶのか、決めなくっちゃ! 」
呼ぶかって? 決める? なぜ? どうした? それに。
”へー”はなんとも。それはやめてほしかった。
そこにある置き物のように固まってしまっていた僕は、小さな息で吹くシャボン玉の、数珠のように並んで飛びだすその「はてな? 」の玉をどう捕まえて、どう消したらいいのかわからず、とりあえずは最初から仕切りなおしをしようと考えた。リセットをする置き物はあんまりない。
たとえば。高級マッサージチェアみたいな商品を。だれそれが描いた絵画を。手品師のような巧みな会話やテクニックで飄々と売りつけるキャッチセールスなんかだったり・・・・・・。いやいや、彼女は好みのタイプなのでそうは思いたくない。
たとえば、宗教団体?勧誘? 勧誘!・・・・・・。勧誘が「へーちゃん」とか言うか? まず、ないだろ。
スカウト? なんの!? 笑える。
たとえば・・・・・・。
僕を誰かと勘違いしている。これはありえなくない。ふつうに考えればそうだろ。
置き物は結局、自己紹介を始めた。
名前はね。「宮下洋兵」
「みやした・・・・・・」
2度目はゆっくり。
「ヨウヘイ。ナンダケド・・・・・・」
名前はカーリングのストーン球を押し出すようにもっとゆっくりと、そして慎重に、狙いを定めるようにいった。だから、指を離れる瞬間に点数がわかってしまうような「やった! 」みたいな感覚を期待した。だけど。
自分の名前なのに彼女に尋ねているような、答案用紙の四角の枠に名前を記入するときのような「これであってますよね? 」みたいな。どこか変ないいまわしになって、それをとりつくろうためにまたまた渋茶を飲んだような、中途半端にへんな顔になった。
「だからっ。へーちゃん? 」
背中に髪の毛でも入ったように細い体をよじりながら彼女がいった。「じれったい」という文字をからだで空中に描いている。薄くコロンが香った。
「どーして? 」黒い縁の眼鏡のまん中を中指で上げながら僕は訊きかえした。
「じゃあ、へー君? 」ちゃんを君にかえただけだろ。さっきと同じやり取りが続く。この調子だと間違いなく夕方まで続きそうな気がした。
ため息だと勘違いされないように、大きな深呼吸を吸って。それから横を向いて、鼻から吐いた。
「いや・・・・・・『ちゃん』とか『くん』とかの問題ではなくて」
僕は立候補の演説でもするように、テーブルに両腕を突っ張っいた。
「ではなくて? 」彼女のでっかい黒目がいっている。───なんなの?
(だから───)
「なんで下をとるんだよ? 」少し腹がたってきた。
「なんで上をとるんだよ? 」彼女はまったくおなじ言葉をおなじ音程とリズムで返してきた。おまけにテーブルに両腕を突っ張っいる。僕がいうのもなんだが、そっくりだ。
かたほうの目が少し細くなって力がはいっている。噴き出しそうになるのをこらえているからだ。目の下の頬骨の辺りに薄く書いてあるのだ。『爆笑我慢中!』 と。
指でどこかの肉を押すと「ポン!」と小さな爆発音がして紙吹雪が舞いそうだ。
「へって。へーはおかしいだろ? いやだよそんなの! それに、あれだ。間抜けっぽいし」
「そうねぇ。おかしいね」彼女は嬉しそうにいった。
(・・・・・・おかしいよ)
「でも! でもでも、間抜けではないわよ! 」と、次の瞬間には、草を食んでいたトムソンガゼルが、風上の気配を感じて首を上げたときのような真剣な顔だったりする。
失礼な! そんなことを言われる筋合いはない。馬鹿にしないで! と言っているようだ。
しかしながら、発端は彼女の「へーちゃん」の一言からのはずだった。
「みんなは洋とか洋ちゃんとか、宮下とか。ふつーに・・・・・・」
「かっこ悪いよね。『へ』だもん。クククッ。笑っちゃう」
今度は笑いだした。 声を出して。
「それからさ・・・・・・」僕は咳払いをして続けた。
「へーじゃないよ。のびないんだ」
兵隊さんの「ヘィ! 」と勇ましく敬礼をして足を鳴らす。
「だって───」異論を唱えた唇は尖っていた。いや、尖らせようとしていた。
(なんだ? )
僕は考え込むときや納得していないことを尋ねるときには、眉間に皺が寄る。深く寄る。悪気や脅かすつもりはない。あるわけがない。
すぐにそのことだけに集中してしまって、自分の世界に入ってしまう。これが少し厄介だ。顔を近づけると一瞬引かれてしまうことがある。
大きめの荷物を抱えたおばあさんに道順を親切に教えすぎて、結局怖がらせたことがあった。本当に覚えたのかを確かめすぎたのだ。たいていの親切はここまですると仇となる。
子供に上の「お」と下の「を」の違いを説明していて泣かれたこともあった。熱が入り過ぎたからだが、結局は上の「お」も、下の「を」も理解に至るまで子供の集中力が持続せず、根性の無駄使いとなった。この子は今後「お」と「を」がトラウマとなってしまうのではないだろうかと、やってしまってから後悔する。
多分、今もそんな形相で、照明を取り込んだ彼女の目を、水晶玉を使うにせ占い師のように覗き込んでいたにちがいない。
しかし、空気はまったく変わる様子はなく。むしろいい具合だ。初夏の風のようにさわやかに乾いている。くつろいでどうしようというのか。アッケラカンとはこのことだろうか?
彼女は「だって・・・・・・」と、もう一度いってから「へーちゃんのほうが・・・・・・呼びやすいんだ。もん」と女子高生のように握った両手を口に当てた。
呼びやすさだった。
それなら「よーちゃん」でも「よーくん」でも変わりないと思うのだが、彼女の思い出やら理想やらがいっぱい詰まった価値観のイメージの袋を覗きこめば、僕は「へー」なのだろう。
たぶん一番上にあって取りやすかったか、探ってみて偶然触れて、バーゲンのくつ下みたいに引っこ抜いたのが「へー」なのだ。
なんともしまりがなく、残念そうな印象のその「へー」は、実は小学生のときに使われたことがある。
みんなからあまり好かれていない目のつりあがった女子が、ある日から急に「おはよう、へー」とか「へー、これ使って! 」とかと言いながら後をついてきた。なぜか偶然出会い頭にばったり、という回数も飛躍的に伸びた。
最初はあまり気にもしていなかったけれど、さすがに目につきだすと噂がささやかれるようになった。
僕はその「へー」がクラス中に蔓延することと、その子と仲がいいと勘ぐられるのを恐れ、面白がられ、冷やかされるのを嫌って遠ざけ、無視をした。
必要以上につれない態度をしたはずだ。
それが自分のためだけに幸をそうしたというべきか、その子の影は僕の周りから遠ざかり、そして徐々に薄くなっていった。
さすがに罪悪感が込みあげ、「ふつー」を意識しようと考え直した。ともあれ剣道の防具を身につけていたような体が少し軽くなった。
次の週、その子は転校をした・・・・・・。
そんな周りを気にする不甲斐なさや小心さや卑怯さが、僕のイメージの袋に入っている「へー」なのかもしれない。いや・・・・・・。
彼女への後ろめたさ。申しわけなさ。せつなさ。・・・・・・だろうか。
「呼ばれたって、返事───、しねーよ」
反動で出てしまった「ねーよ」はガラが悪かったかと思ったけれど、気にしないことにした。
彼女にとってそんなことはまったく関係のないことだと直感的に思ったというか、そこまで気が回らないだろうと安直に思ったからだが、いつの間にか焦点は、主題である「呼び方」をすっ飛び越している。返事をするか、しないか、さぁどっち? 状態になってしまっていた。
知らず知らず意図的ではない彼女のペースにはまってしまったということだ。
教え子の答えを待つ家庭教師のように、空白を数えていた彼女が水のグラスを傾けて、その中のなにかを探すかのように覗き込んだ。
氷はカランと半分回転して、また戻った。
そして彼女は、差し伸べた手に狙いを付けて落ちてきた雨粒のように、ぽつんと言った。
「返事は
───するよ」
遠慮気味に言われても決めつけられると、やっぱり反発の虫がかぁかぁと騒ぐ。
ひらひらと手をふりながら僕はいう。「しなーい。したければ、する。嫌なら、やっぱりしない」と、腕組みをしてかっこをつける。結局は言いなりになるのがしゃくにさわるだけなのだが・・・・・・。
「いきなり知らない、思ってもいない、違和感のある名前で呼ばれたって、それは人事と言うか、人事にしたくなる。だろ? だから。お返事は───。残念ですが。で、き、ま、せ、んーっ! 」
口をヘの字にして目をむいた。
赤頭巾ちゃんを食べる時のオオカミはこんな顔かと想像する。きっとすごいことになっているはずだ。
耳も伸びていたかも知れない。置き物はオオカミに変身した。
きょとん、とした彼女の顔をそのまま絵にして飾っておきたいと思った。
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