窓から柔らかな日の光が降りそそいでいる。優しい風が、レースのカーテンをふわふわ揺らせる。ママは今日も一日中部屋の中、鉛筆でデッサンを描いている。こんなに良い天気なんだから、外に散歩に行ったらいいのに……。ママは目の前のリンゴに夢中。
ママは絵を描くことが好きなんだ。時間があればいつも絵を描いてる。でも、ママは夢中で絵を描くと、他のこと全部忘れちゃうんだ。掃除も料理も洗濯も。だから、パパは怒って出て行っちゃったんだね。ママは絵を描いてる間、パパのことも僕のこともすっかり忘れてしまうから。
最近のママはすっかりやつれて、老け込んじゃったみたいだ。前はとっても綺麗なママだったのに、髪は白髪が増えたし顔の皺も増えた。僕の家はとっても貧乏だから、ママはいつも苦労しているからかな?
ママは古新聞に鉛筆でリンゴの絵を描いてる。本当なら真っ白い画用紙に描いたらいいんだけど、画用紙を買うお金もないんだ。だから、捨てられた新聞を拾ってきて、画用紙代わりにしてる。一本しかない鉛筆も、随分ちびちゃったね。
それに、リンゴはもう腐りかけ……。こうなる前に食べた方が良かったのに。前はママが描いた絵がいっぱい飾ってあったけど、ほとんど全部売ってしまった。今、部屋に飾っているのは一枚だけだね。
ママはフーと大きなため息をつくと、鉛筆を置いた。そろそろ午後三時だ。ママと僕の楽しい時間がやってくる。
ママは机の引き出しの中から、古びた財布を取りだした。財布の中をチラリと覗いて、また一つため息をつく。お金なんてほとんど入ってないんだ。でも、ママは財布を握るとゆっくりと立ち上がった。
「さぁさぁ、坊や。ママはお買い物に行ってくるわね。ちょっとお留守番していてね」
ママは僕の方を見て、ニコリと笑う。笑顔のママはやっぱり綺麗だよ。
ママは少し足元をふらつかせながら、嬉しそうに部屋を出ていった。
午後三時。それは、僕にとっても凄く素敵な時間。何故って、あの子に会えるから……。今日も明るいあの子の笑い声が聞こえてきた。僕は夢中になって窓の外に目を向ける。
あの子だ。栗色の長い髪を肩までたらした美しい少女。
学校帰りのあの子は、友達たちと楽しそうに話しながら歩いて来る。長い髪が風になびいて、サラサラ揺れてる。外の光の中の、あの子の笑顔が眩しい。僕は食い入るように少女を見つめた。
行きたい。僕もあの窓の外へ……光の中に出て、あの子と話しがしたい。
でも、それは出来ないことなんだね……。
あの子の笑い声が遠ざかっていく。学校のある日の午後三時だけ、僕はあの子の姿を見ることが出来るんだ。ほんの数秒。それが、僕のただ一つの幸せ。
「ただいま、坊や」
しばらくして、ママが帰って来た。ママの声は弾んでいる。
「今から美味しい紅茶を入れてあげるからね。待ってて」
どんなに貧しくても、ママは午後の紅茶を忘れない。一緒に添えるお菓子はなくても、ママは嬉しそうに紅茶を入れる。それが、ママの幸せだから。
紅茶の良い香りがする。ママの入れた紅茶はとっても美味しかった。今の僕には飲めないのが残念だけれど……。
「坊や、良い香りがするだろ?」
ママは嬉しそうに香りを嗅ぎながら、僕の前に紅茶の入ったティーカップを差し出す。
「おや、坊や。なんだか嬉しそうな顔をしているねぇ」
ママはじっと僕の顔を見る。
「ほんのりとほっぺたが赤いようだよ。昨日と違って見違えるような顔をしてる」
優しい笑顔のママ。そうだよ、ママ。昨日はどしゃぶりの雨で、窓もカーテンも閉め切ったままだったもの。あの子が通る姿が見えなかったんだ。
「可愛い私の坊や。いつまでも私の側にいておくれね」
ママはゆっくりと、美味しそうに紅茶を口に含む。僕はいつもママの側にいるよ。ママが僕を描いてくれたお陰で、僕はずっとここにいることが出来るんだ。
ありがとう、ママ……。
薄汚れた部屋で、一人の腰の曲がった老婆が絵画に向かって話し掛けていた。しわくちゃの手に端のかけたティーカップを握り、出がらしの紅茶をすする。
彼女の視線の先には、油絵で描かれた古びた絵画が一つ。絵の中の幼い少年は、老婆を見つめて微笑んでいるようだった。 了
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