3 【ジン】 《この瞬間、俺は宮野に負けたんだな……》
どうしても急がなければならない。
このままでは、体が崩壊してしまう。
時の流れに逆らおうとした者が受ける罰、それは、筆舌に尽し難い程、極めて凄惨なものだった。
アポトキシン4869。
彼等が出来損ないの名探偵と呼んでいた毒薬は、毒薬として開発した物ではない。
これを毒薬として量産することを思いついたのは、データ検分の最中で毒薬として使えることに気付いた宮野厚司だった。
本来の目的は、若返り、不老化、死者蘇生。
この三点だ。
これを医療の世界で役立てようとしていたのである。
あの時までは、研究は順調に進んでいた。
だが宮野とジンのせいで、組織は新たなる研究に手を出さなければならなくなってしまった。
結局そのことが、シェリーとの破局、そして、己の崩壊寸前な肉体へと繋ってしまったのだ。
ジンが、かつて結婚の約束まで取り交わしていた女性を殺害するために追い回さなくてはならなくなってしまった原因は、彼が自ら刃物で喉元を突いたことにある。
闇の世界。
それは、徹底した完全実力主義の世界。
あの時のシェリーはまだジンの身分に及ぶ程の功績を上げてはいなかったのである。
にも関わらず彼等は、交際を始めてしまった。
当然ジンは下から、シェリーは上から、物凄いバッシングに遭う。
《なんであんなこと……、しちまったんだろうな……》
そんなことは例え本人であれ、解る筈もない。
黒のパンツ、黒のロングコート、白いハイネック、黒と黄色の山高帽。
それがいつものジンのスタイルだ。
さすがに夏場は若干暑いが、建物にも、愛車のドイツの雨ガエルにも、ガンガンエアコンが利いているため、然程辛くもない。
ジンにとっては、暑さよりも返り血の目立つ服装や、喉元の傷跡が見えることの方が余程辛いのだ。
だから、黒ずくめの長袖に、ハイネックなのである。
ジェットコースターの風圧にも飛ばない山高帽はご愛嬌だ。
あの日もこの服装で、埠頭にいた。
海辺にはいつも、必要以上に強い風が吹いている。
《これで……、決定打になるんだろうな……》
フィアンセとの破局。
どうやら後戻りは出来ないようだ。
10億円の受け渡しが終われば、取引相手の体に余計な穴が1つ増える。
生きるのに必要のない穴、死ぬのに必要な穴。
相手の名は宮野明美、シェリーの……、
姉だ。
彼女自身には、何の非もない。
そんなことは、解り切っている。
だが、ジンはどうしても明美に銃弾を撃ち込まなければならなかった。
完全な形で自分を取り戻すために。
浜風は、より一層強さを増し、狂ったように吹き荒れている。
来ないでほしいと心のどこかで願い続けている彼の僅かに残っている良心を吹き消してしまおうとしているかのように。
取引きの時間まであと一時間四十五分。
時間は無情にも、ジンからシェリーを引き離していく。
あの宮野厚司の娘なんかに惚れてしまった時点で、こうなる運命だったのかも知れない。
研究中のアポトキシンを毒薬として使うことで、組織の乗っとりを目論だ宮野厚司の娘に。
当然この瞬間から、宮野家は組織の殺害ターゲットに挙がっている。
それを解っていながらジンはシェリーに、否、宮野志保に手を出してしまったのだ。
《この瞬間……、俺は宮野に負けたんだな……》
……、完敗だ。
取引きの時間まであと一時間三十分。
ジンの、壊れかけの体に情け容赦無く浜風が吹き付けてくる。
明美には、10億円の強奪に成功すればシェリーを解放すると言ってある。
あの女だって馬鹿ではない。
組織内における宮野家の者の立場というものも、薄々感付いたのだろう。
直ぐに乗ってきた。
だが、ジンにとっては、金などどうだって良かったのだ。
なぜならこの10億円事件は、明美を自殺に見せかけて殺すことのみを目的として計画したものだったからである。
取引きの時間まであと一時間十五分。
取引き時間は、丁度この埠頭から船が出る時間にセットしてある。
当然汽笛に併せて裏切り者の娘に銃弾を撃ち込むためだ。
宮野は、娘達には自分の計画のことは話してはいなかったようだ。
明美の暮らしぶりからも、志保がジンの求愛を受け入れたことからも、それは明らかだといえる。
だからこそ、今まで生かしておくことが出来たのだ。
だが、明美は交際してしまった。
NOCと交際してしまったのである。
これはもう、致命的だった。
一刻も早く死んでもらわなければならない。
海は浜風の煽りを受け、波止場に霧雨を降らせている。
ジンの胸中もまた、波の様に、高く低く揺れ動いていた。
取引きの時間まであと一時間。
シェリーはこのことを知ったとき、いったいどう出るのだろう。
彼女の性格から察するに、おとなしく引き下がることはまず無いだろう。
例え研究主任と言えど、今暴挙に打って出ることは、即、処刑と言う結論に繋がる。
明美のように、それを理解しているならまだいいが、全く解っていないからタチが悪いのだ。
埠頭には、澄みきった青空が広がっている。
にも関わらず強風が吹き荒れ、高波を舞わせている。
それはまるで、来ないでほしいと心の底から願いながら、絶対に明美を殺害しなければならいという葛藤と必死に戦っている彼の気持の揺れに大気が呼応しているかのようだった。
取引きの時間まであと四十五分。
時間にはわりときっちりしているターゲットのことだ。
もしかすると、そろそろ現れるかもしれない。
宮野にアポトキシンを盛られて副作用に見舞われるだけで済んだのは、ジンとベルモットだけだった。
確か、ベルモットが本名をシャロンからクリスへと改めたのは、丁度その頃だ。
それにしても、たったの十年ちょっとの間に色々なことが有りすぎた。
《まさか、二回もこんな目に遭うとはな……》
埠頭沿いの古ぼけた倉庫群は浜風に煽られ四六時中降り注ぐ霧雨によって、疲れ果てたジンの心同様にボロボロに錆び付いている。
取引きの時間まであと三十分。
なぜNOCは、組織に潜入したのだろう。
ヤツさえ沸いて出て来なければ、ターゲットはまだターゲットにならずに済んだのである。
FBI捜査官、赤井秀一……。
ジンですら、組んで仕事をしていたにも関わらず彼が組織から撤退するまで気付けなかったのだから、明美に気付ける筈もない。
だから、明美には何の罪も無いのだ。
だがもし、ヤツらが切れていないとしたら……。
その可能性が否定できない以上、一刻も早く、ターゲットには死んでもらわなければならないのである。
例えそれが、この世で唯一のフィアンセの肉親だったとしても……。
取引きの時間まであと十五分。
宮野を組織に招聘した時点で、既に分裂の兆しは見え始めていた。
それがあの様な結論を招くとは……。
アメリカ支部がFBIから目を付けられたのも、宮野がアメリカ全土から優秀な化学者を拉致同然に組織に引き込んでしまったがために、彼らの家族から出された捜索願いによるものなのだ。
《俺達が悪に追いやられた全ての原因が……、宮野なんだよな……》
そしてとどめの宮野が組織乗っとりのために引き起こした、組織幹部大量毒殺事件。
この事件で、本来アポトキシンを医療で有効利用することを目的として結成されたこの組織が、巨大犯罪組織へと方向転換せざるを得なくなってしまった。
これによって、ジン、ベルモットを含む平和利用派は、ほぼ壊滅状態に陥ってしまったのである。
そこから先は筆舌に尽し難い地獄画図となった。
組織を掌握した宮野派と宮野派への復讐しか考えなくなってしまった平和利用派での血みどろの潰し合いが繰り広げられ、それが落ち着いた頃には平和利用派が宮野派と殆んど変わらない集団となってしまうという最悪の結果を招く有り様となっていたのだ。
それが、二人ものNOCの潜入を易々と許すほどの組織の弱体化、明美の抹殺、そして、ほぼ間違い無くこの先に待っている、己の身を犠牲にしてまで手柄を立てさせようとしたシェリーとの破局、シェリー抹殺へと繋っていくのである。
取引きの時間……。
女の姿を確認したジンは、逃げ道を塞ぐために連れてきたウォッカと共にその前に踊り出た。
吹き付ける浜風が、三方を囲む倉庫と積み荷と船の壁に反射して、サイクロンの様に巻き上がる。
交渉は、想像通りの結果となり、ジンは計画通りに……、
明美に銃弾を、撃ち込んだ。
帰りのポルシェの中、ジンは、うわ言の様に繰り返していた。
「これで良かったんだ……。
何も……、間違ってねえ……」
と。
彼のコードネームは【ジン】
彼の心身は、研究段階のアポトキシンの連用と立て続けに発生した組織存続に関わる事件により、崩壊寸前に達している。
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