2 【月桂冠】 《組織に残留する理由はもはや皆無なのである》
――わーっ! ひとごろしがきたぞー!――
それは、彼女が生まれついてまだ一桁の年数しか経っていなかった頃に浴びせられた言葉。
――やーいやーい! おまえのとうちゃん ひとごろしぃー――
それは、どんなに逃げようとしても、いつも彼女のすぐ後ろを追ってくる【真実】。
――たすけてー ころされるぅ! 逃げろー!――
《なんでなの!? あたしはただ……、
友達が欲しいだけなのに……》
――おまえのとうちゃんひとごろし! ついでにおまえもひとごろしぃ!――
《ひどいよみんな! あたし 誰も殺してないのに!!》
子供達が、一人の女の子から逃げるように遠ざかっていく。
――……姐……、……、す……い――
女の遠い日の悪夢に、割って入る男の声。
最近やけに聞き馴染んだ、バスでもテノールでもない不思議な声。
《どこなの!? あたしを呼んでくれるあなたはどこにいるの!?》
彼女が、プライベートで誰かから呼び掛けてもらえることなど、そうざらにあることではない。
「誰なの、お願い! 顔を見せて! お願い!」
必死に呼び掛ける彼女の前に、突然何者かが現れ、脇見疾走中の彼女と衝突してしまった。
当然二人は、冷たいアスファルトの上に尻を落としてしまう。
「……、ごめんなさい……」
相手の女が謝ってくる。
聞き覚えのある声。
職業的なものなのか、必要以上に張りのある、よく通る女の声。
彼女は思わず声をあげた。
「怜奈さん!」
と。
水無怜奈は親友だ。怜奈が自分を見捨てる筈がない。
彼女はそう、信じて疑わなかった。
「あっ、ごっごっ……、ごめんなさいごめんなさい! 助けて下さい助けて下さい! 殺さないで下さいぃー……」
「えっ……????」
震えによってガチガチと奥歯を鳴らし、泣いて土下座をしながら命を乞う。
その行為は、明らかに彼女が殺人鬼だと認識されている根拠となる。
「なんで……? やめてよ……。
なんで怜奈さんまで、そんなこと言うの?」
彼女が必死に語り掛ける言葉も聞かず、怜奈はひたすら命を乞い続けている。
「……、……、……」
時間が止まってしまった。
彼女の心の中に、虚しさと悲しみの風が吹き抜ける。
「……、……、……」
やがてそれは、嵐となり、
「……、……、……」
そして、冷たい冷たいブリザードとなって、彼女の心全体に渡って吹き荒れてしまう。
「……やめて、お願い……、もうやめてええぇ!!」
――麻里愛!!――
突然名前を呼び付ける声。
怜奈とぶつかる前にきいた、中音域の男の声だ。
――目ぇ醒ませ!――
突然頓珍漢なことを怒鳴り付ける男。
《何だってのよ!? 起きてる相手に【起きろ】って》
正直訳が解らない。
自分は確かに、覚醒しているのだ。
次の瞬間、両側の頬に熱さを伴う鈍い衝撃が走り、彼女の意識は暗黒の彼方へ引き込まれていった。
「えっ!?
あれっ?
怜奈さんは?」
月桂冠が意識を取り戻した場所はシンプル且つ、シックな調度品がここしかないという絶妙な位置にセットされてある、なかなか小洒落た雰囲気の白を基調とした一室、杯戸シティーホテルスイートルームだった。
その風景と同時に目に飛込んで来た二人の男が居た。190cmは有るかと思われるヒョロッと細長い体格に金色の流れるような長髪。
組織内で【ジン】と呼ばれている男と、なにかスポーツでもやっていたのだろうか、ガッチリムッチリした筋肉質の体格に、いつも外さないトレードマークと化しているサングラス。
組織内で【ウォッカ】と呼ばれいる男だ。
いつものように、気だるそうな動きで煙草に火をともしながら、四六時中瞳孔が開ききったジャンキーのような目付きで月桂冠を一瞥した後、
「テメエから呼び付けといてホテルでお昼ねたぁ、いいご身分じゃねえか……」
との言葉をドスの利いた低音域でジンが投げ掛けてきた。
この男、見た目によらずなにげに嫌味であるため時々対応に困ることがある。
「あたしを騙して引き込んで、いいようにコキ使ってるあんた達よか身分は低そうだけどね」
騙された。初めはそう思っていた。たが、それはあくまでも、自分の不注意だった。
石橋を叩いて渡って来た筈の自分が、親を生き返らすことができるという言葉に釣られて、危ない橋を猛ダッシュで渡り切り、振り向いた時にはもう橋が崩れ落ちてしまっていたのだ。
黙ってさえいれば、若手アイドルの中では一番の美人ではないのかと噂される端正な顔立ちが、瞬く間に落胆に歪んでいく。
「まあ、普通に考えたら完全な状態の死体も用意しないで、奴らを生き返らせれるなんてことあるわけないんだけど……」
自分の不明であることが解りきっているだけに、その表情は更に沈痛さを増していく。
暫くの沈黙。
正に気まずく滞ってしまったように思えるこの時間がまだしっかりと動いているのだと教えてくれる存在は、ジンが口にくわえている煙草から立ち上る一筋の紫煙のみである。
この異世界に迷い込んでしまったかの沈黙を破ったのは、夢に出てきた例の中音域だった。
「でもキールのヤツは月姐引き抜くとき、薬の効能は漏らさず伝えたって言ってやしたぜ?
月姐も聞いてやすでしょ?
人を殺して、そしてそれをすぐに生き返らせれる薬だって」
キールから聞いた説明を俗っぽい言葉に言い換えると、おそらくこの類の言葉になるのだろう。
月桂冠の思考がまとまらないうちに、ウォッカがまた、言葉を続ける。
「信じられねえ気持も解りやすがね、実際薬で生き返った野郎が俺達の目の前を……」
ウォッカは二の句を継ぐことが出来なかった。
「そこまでだ、ウォッカ……」
というジンの言葉が割って入ったためである。
心なしかいつもよりドスの利いた声色を発していたような気がする。
微妙な声色の変化で相手に様々なプレッシャーを与えてくる男、それがジンなのである。
そして、声色の魔術師ジンは、こう二の句を繋いだ。
「月桂冠、俺達に寝顔を観察さすために呼び付けた訳じゃねえんだろ……。
用があるならとっとと済ませろ……」
と。
「もし……、いや、もしもの話だよ?
もしわたしが抜けるって言ったら、あんた達はどう出る?」
これは、真実に気付いたときに、ほんの一瞬脳裏をよ切った考え。
両親の蘇生は不可能であると理解した時に生まれた、偽らざる本心。
月桂冠が執着する薬の使用目的は、あくまでも両親の蘇生であり、それが叶わないことが確定している現段階において、彼女が組織に残留する理由はもはや、皆無なのである。
だが……、
やはり、このような戯言を聞き入れてくれるような集団ではないらしい。
ジンから返ってきた返事は、
「そんときゃ、おまえの願いが叶うときが来るだけさ……。
おまえがあっちに両親に会いに行く形でなぁ……」
というものだった。
黒沢陣。
この男には、なぜ相手に有無を言わせなくななるような、まるで閻魔大王でも相手にしているかのような会体の知れない威圧感があるのだろう。
この男が放つ、史上最強クラスのプレッシャーによって、タレントとして培ってきた度胸も、陰陽師として培ってきた技も、自分のアイデンティティーもろとも、見る影もなく叩き潰されてしまった。
ジンによって誘われた総てが歪んで醜くひしゃげた世界から脱出するには、とにかく何かジンに向けて言葉を発さなければならない。
月桂冠が選んだ言葉は、
「いや、冗談だよ冗談。
なにマジんなってんの?
乗った船には最後まで乗っかってるわよ。
ましてこんな面白そうな船旅、途中で降りるわけ無いじゃん」
ジンの、相変わらず瞳孔の開いている瞳を凝視しながら放ったこの言葉だった。
【男がこの行動を取りながら語る言葉は、真実である。
だが、女の場合は、嘘である確率が九割近くにのぼる】というデータが臨床心理学の世界で発表されている。
ジンがこのデータを知っているか否かは定かではないが、
「まぁいい……。
こっちもおまえに用がある……。
あの方からのお達しだ……。
杯戸中央病院に潜ってたチューハイが連絡を絶った……」
そう言いながら、ジンがまるで勿体付けるように煙草の灰を灰皿に落とす。
そして、
「そこにキールが捕まってることは間違い無えようだ……」
と、言葉を繋げた。
《怜奈さんが!?》
親友の、宿敵であるFBIに監禁されている親友の所在が確認された。
月桂冠の脳内で、救出作戦のビジョンがめまぐるしく構築され始める。
「俺達は病院に乗り込んでキールを……、……、……」
肝心の指令内容の中核を告げる段階でジンは意味不明な間をつくっているが、そんなことはどうでもよかった。
救出作戦のビジョンは既に八割方完成されている。
ジンは、吸い切った煙草を灰皿で揉み消しているようだ。
そして、作戦が完成したその切那、月桂冠は二度と這上がることが出来ないような底無しの闇の世界に放り込まれてしまった。
「バラすことになった……」
それがジンの口から継がれた二の句。
そして、
あの方からの……、命令。
《冗談じゃない!
玲奈さんを殺すぐらいなら、もう身動きが取れないレベルまで組織をブッ潰してやる!》
月桂冠、否、門倉麻里愛はたった一人での親友救出作戦を考え始めた。
彼女のコードネームは【月桂冠】。
彼女は今、一身上の都合により、組織を内側から潰そうとしている。 |