1 【キール】《【あの方】はわたしを捨て石にする気なのか?》
彼女のコードネームは【キール】。その表向きの顔は、日売テレビの売れっ子アナウンサーである。
キールが所属する組織。その組織のシンボルからーは黒。その色に象徴されるように常に水面下に潜伏し、秘密裏、隠密裏に行動を起こす。
そんな組織のボスである【あの方】の命で、キールは、日売テレビに就職したのだ、報道部付きのアナウンサーとして……。
あからさまな矛盾に満ち満ちているこの現状を、いったいどう解釈すれば良いのだろうか。
《【あの方】はわたしをいざというときの捨て石に使う気なのだろうか》
彼女のそんな疑念が閉ざされている筈の深層心理から、いや、半開き状態のパンドラの匣から、モクモクと揺らめき広がる黒煙のように立ち上ってくる。
キールは、【あの方】からの信頼を得るために、自分の父親を自分の手で撃ち殺して見せた。この事をジンはかなり軽く見ているようだが、彼女にとっては血の繋がった父親だったのだ。
にも関わらず、この扱いである。全く以って、遺憾以外の何者でもなかった。
そんなキールに転機が訪れる。キールの運命を動かす者との出逢いがあったのである。
一目で判った。この女は同類であるのだと。一目で判ってしまった。この女の心の底に、深くて暗い怨唆の海が広がっていることを。そう、一目で判ってしまったのだ。今日の自分の番組のゲスト門倉麻里愛という女は、間違い無く、組織に引き込める相手なのだということが。
必要以上の装飾は一切無いシックな装いのセットに囲まれた二人の美女。その一挙一動を絶対に逃すまいと、6台のカメラがそれぞれの定位置で必死にその動きを追い、それを操る者共の生命を繋ぐ糧となっている。
何度経験しても振り払う事の出来ない〈生放送〉のプレッシャーと必死に闘いながらキールは女と対談を続ける。
「あなたのご両親はどのような方なんですか? とっても素敵な方なんでしょうね」
キールが発した質問は、至って当たり障りの無いものだった。全く以って、当たり前な日常会話の筈だった。
だが……、
「関係無いでしょ! そんな……、あたしん家の事情なんて、どうだっていいじゃないですか!」
女は明らかに取り乱した。
生収録中に、人気急上昇中のアイドルが、片目を狐目に、逆の目を般若のような目に歪め、青筋の浮かんだ顔をピクピクと痙攣させながら、至近距離で猟銃による発砲事件でもあったかの様な轟音を起ててデスクを殴りつけ、獲物を捕える猛禽類のような素早さと力強さを兼ね備えた身のこなしで立ち上がってしまったのだ。
この女のパンドラの匣は、どうやらこれであるらしい。どうせなら、とことん喰らわせてやろう。暗闇に沈めれば沈めるほど、そこから救い上げてくれる【あの方】の存在が大きくなる。
「どうかしましたか?」
とりあえず探りを入れてみる。
「あっ、いえっ……、あの、サスペンスドラマ製作関係の方、見てますかぁ〜!? あたし、こういう演技も出来ますんで、性格悪いことやってブッ殺される役以外の役も下さい!」
そう言うやいなや、女は見事に顔から青筋を消し去り、目付きを目尻の下がった鈴なりの目に矯正してきた。さすがは芸能人といったところか。
ここでこのような話題に逃げたくなるのも解る気がした。なにせこの女、ファンから授かったニックネームが【死体美の極致】である。
【二時間サスペンスのテレビ欄に門倉麻里愛の名前を見たら、一番始めに死ぬと思え】という不文律があるぐらい、この女は二時間サスペンスドラマの常連であり、そして、ほぼ間違い無く一番始めに殺されてしまうのだ。
こういった事情もまた、引き込む材料となりそうだ。
《直ぐに転がる側じゃなくて、転がす側に回してあげるわよ……》
ここから先、先程のような波乱もなくスムーズに放送は進んでいった。
杯戸シティーホテル前。日売テレビ本社はそこにある。その建物から、ホテルに直行する女が二人いた。縛った髪を下ろして顔に被せ、リングの山村貞子のようになったキールと、化粧を落として、毛先をもてあそびまくった女だ。
美女二人のツーショットであることに変わりは無いが、なにやらホラー映画の世界に迷い込んでしまったかのような一種異様な雰囲気が、この二人によって杯戸シティーホテル前の公道にもたらされていた。
初めての出逢いから数ヶ月が経ち、キール等はかなり解り合うことが出来た。これもひとえに、キールがテレビカメラの前で見せている打ち解け易いイメージのお陰であろう。
だが、
まだ女のパンドラの匣をこじ開けるには、時期早焦だ。そこでキールは、女の心にどこまで自分が根付いているかの確認に入る。
「あの……」
眉を下げ、伏し目がちにして、とても言いずらそうな雰囲気をかもし出す。
……、……、……、……。
長い沈黙。このタイミングのそれは、まるで時間が止まってしまったかのような、二人を取り囲む全てが止まってしまったかのような空間を作り出す。
「どうしたの、怜奈さん?」
沈黙に耐えかねたのか、女が表向きの名前を呼んで問うてきた。
「あのね、100万円貸してくれるかな……」
キールが、申し訳無さげに極限まで眉を下げて切り出す。その言葉に、女はあからさまな驚愕の表情しか返してこない。鈴なりな垂れ目は大きく見開かれ、瞳孔が開いて瞳が白くなっている。
「なんだって急にそんな……! そんな大金何に使う気なの!?」
やっと返して来た言葉は、疑問符の嵐だった。
その問いに対して、キールは更に顔を伏せ、消え入るようなか細い声でこう答える。
「あのね、弟が……、来週手術なの……。白血病で骨髄移植なんだけど……、一括で100万円必要なの!!」
とてもアナウンサーの発している言葉とは思えないほどの要領の得なさだが、それがかえって、身内が大変なことになっているのだというリアリティーを生んでくれる筈だ。勿論その効果を狙って発した言葉であることは、言うまでもない。
「……、解った。100万円、作って来る。怜奈さん、給料日いつ?」
女は、承諾してくれた。だが、頭からそれを信用するわけにはいかない。女の言葉が本心か否か……、キールは確認に入る。
女の顎に左手をかけて、ようやく黒真珠のような輝きを取り戻した瞳を、色素の薄い青みがかった瞳でじっと見つめて……、こう問う。
「本当に100万円、貸してくれるの……?」
女が身震いした。あまりにも真剣な、キールが普段見せている表情とは全く正反対な、凄味を持つ真剣な顔が、女の顔の至近距離で息付いているのである。気押されるのも無理はない。
「大丈夫。一週間無利息と一ヶ月無利息のサラ金知ってるし、今までどこからも借りたこと無いから間違い無く50万ずつ貸してもらえる。」
プレッシャーにも負けずに女が返して来た言葉には、どうやら嘘偽りは無いようだ。本気で消費者金融に走ってまで100万円を作ってくれるつもりらしい。
女が自分のことを信用しきっていると判断したキールは、いよいよ女のパンドラの匣を開ける……。
「麻里愛ちゃん、あなた、ご両親と何かあったの? 初めて会ったときのあの反応、どう見ても普通じゃなかったし、わたしに出来ることなら力になるわよ」
親の話を出した瞬間、やはり女の目の色が変わった。輪郭こそ鈴なりな垂れ目をキープしてはいるものの、徐々に開き出したその瞳孔が、ここが精神的な急所であるということを如実に物語っている。
「……、わたしってそんなに、信用無いのかな」
そんなことは無いということは既に解っている。案の定、
「そんなこと……、ないけど……」
という返事。
信頼しているうえで言えないとなると、女にとってはよほどの大事なのだろうが、組織に引き込むためには、どうしても言ってもらわねばならない。
「お互い、隠し事無しで行こうよ……、ね? 麻里愛ちゃんが話してくれたらわたしもわたしのこと全部話すから。溜め込んでるより話した方が楽になれるんだし」
自分もまだカードを持っていることを匂わせてみる。
……、……、……。
止まった時間を動かしたのは女だった。
「あたし、殺してやりたい奴らがいるの」
突然始まった驚愕のカミングアウトにも、目の色一つ変えずにキールは聞き入る。
女が仕事でオーダーした杯戸シティーホテル3019号室は、まるで無人であるかのような静寂が支配している。その空気を震わせたのは、またしても女の声だった。
「でも、どうしても出来ないんだ……。産んでくれたとか、育ててくれたとかそんなんじゃなくてさ、その、もう……、死んじゃってるから、……あいつら」
この後、もうどうにもならないんだよね、と自虐気味に笑いながら女は締め括った。
女の告白は、終了した。今度は、キールが自分を語る番だ。
「気持ちは解るわよ。わたしもお父さん、殺した女だから」
無論現段階では、心の中でね、との嘘を付け加えたのだが。
「だからこそ、あなたを助けてあげたい。わたしには……、それが出来るから」
もう、言っても大丈夫だろう。キール達の組織の目的、自分が身を置く場所のことを。
「わたしね、新しい世界を創ろうとしてるの。そしてそれには必要不可欠な薬、体細胞組織のレベルから一度破壊して、それを新たに紡ぎ直すことの出来る薬をわたし達は、今作ってるの。そのくす……」
言い切る前に、目を皿にした女が割り込む。
「完成すれば死人を生き返らせれるってこと!?」
どうやらそれなりに頭が切れるらしい。余計な説明を加えずに済むのは正直な話、とても助かった。
「そう。出来るだけ多くの人を真更な状態に戻して一から出直す。それが組織の目的」
かい撮んで目的を話す。
「なるほど、神になろうって訳。そうなれば間違い無く、国家レベルの戦争は、核戦争は無くなりそうだわね。反戦団体なの?」
反戦云々はおそらくはジョークの類なのだろうが、とんでもなく頭が切れる女らしい。もしかすると、ジン以上かもしれない。
「で、組織員の勧誘に具体的な薬の効能を出してくるってことは、ある程度出来上がってんでしょ、その悪魔の薬」
ここまで読まれている。刑事か探偵の血でも引いているのだろうか。
《敵に回しちゃいけない。そして、絶対引き込まなきゃいけない》
それがキールの出した結論。運良く、女はいい方向に考えてくれているようだ。ショッキングな話をしているにも関わらず、その瞳は今までに無いようなそれはそれは素晴らしく澄み切った、黒真珠以上の輝きを放っている。
「玲奈さんがボスなの?」
明らかに入る気満々の返事だ。この女とは馬が合うし、間違い無く上手くやっていける。それよりなにより、作戦参謀として、これほど心強い味方はない。
《殺してしまうのはあまりにも勿体無いわね》
最終判断を下すのは、あくまでも【あの方】だが、気に入ってもらえるための、精一杯のサポートをしようと、キールは女の親友として心に誓った。こうして、彼女は、女を組織に加えるべく杯戸シティーホテルを出たのである。
彼女のコードネームは【キール】。表向きの顔は日売テレビの報道アナウンサーだ。
【あの方】からの指令は、【構成員のスカウティング】。
駆け出しの頃はその指令に疑問を抱いていたが、今では、天命であると実感している。だって、組織内に親友が出来た上に、彼女に【人を見る目】の確さを認識させてもらったのだから。
親友の名は門倉麻里愛。コードネーム【月桂冠】。キールの仕事の初成果であり、組織の作戦参謀だ。
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