レディ・チャイナ 2
洋一は闇雲に夜の街中を駆けた。
その左手には、あれだけの事態の後なのに、まだロンリコ・ラムの酒瓶が握られている。
どれほど走っただろう。
もう追ってはこれないだろうと立ち止まると、荒い息を整えつつ、さっきの出来事をフィードバックした。
----- うはぁ、久々に男に迫られてビビったぁ! でも会って10秒で好きですはないよねぇ、歌の文句やマンガじゃないんだし
幼少期から青年期までに自分に言い寄ってきた男どもと牛島がオーバーラップして、洋一はうげっと顔をしかめた。
それ以上おもいだすのは辞めにして、ロンリコをごくごくと飲み干す。
煙草が吸いたくなってきた。
だが全て部屋に置いてきてしまっていたし、さすがにコンビニへ買いに行くのは、わずかに残っている理性が止めてと言っている。
----- 明日からはバッグ持って出よっとっ
この男、もうためらい無く女装お出かけを日課にしようとしている。
人生のがけっぷちに爪先立ちしていることを、洋一はすっかり忘れてしまっていた。
しかたかない。煙草もないし、今夜はもう帰るかと彼は歩き出した。
すぐにタクシーがたくさん並んでいる、アーケード同士をつなぐ交差点へと出た。
この道をまっすぐ西へ行けば、左手にさっき出てきた地下街の入り口がある。
洋一は空になった酒瓶を信号脇にあるコンビニのダストポットに投げ込むと、カツカツとヒールを鳴らして西へとまた歩き出した。
その時・・・・・
「みつけたぁ!」
野太い声に振り返ると、顔面を血に染めた牛島くんが、ハァハァ肩で息をしながらこちらを指差しているのが見えた。
恋する男のアンテナは、捕捉不可能と思われた追跡をやり遂げさせてしまったらしい。
絶句する洋一に、牛島はゆっくりと近づいてくる。
道行く車のライトに照らされて、怪しい光を帯びた彼の瞳が見て取れた。
口を横にイーッと広げて洋一は固まっていたが、牛島が間合いに入ったのを見てさっと車道に飛び出すと、走る車の間を抜けて通りを渡り、北の方角へと逃走を開始する。
「絶対に逃がさん!」
牛島も巨体を車道へと躍らせて追跡してきた。
突然飛び出してきた大男に、走っていた車が急ブレーキを踏む音が辺りに響き渡る。
洋一にはとにかく駆けた。
いつもの彼なら、相手が何者であろうと降りかかってきた火の粉はためらわずに実力行使で払いのけるのだが、なぜか女性化している時は、敵意を持つ者以外への暴力には抑止力がかかるらしい。
ホームレスへの差し入れと合わさって、これは女装状態での一現象と言えるだろう。
追跡を確認しようと洋一が一瞬うしろを振り向いた時、横合いからひょこっと女の子が出てきて、モロに二人がぶつかる。
ヒールを軸に洋一はかかしのように回って吹っ飛び、女の子はどしんと尻餅をついた。
「痛っ!」
「ごめんなさい!」
シネマの早回しのように素早く洋一は立ち上がると、女の子の出てきた方へと身をひるがえして走り去る。
こっちもなにか言おうとしたが、相手がいなくなってしまったので、女の子がデニムのスカートのすそを払いながら立ち上がった時、大男が目の前にあらわれ、ビクッとすくみあがった。
男はフンゴフンゴと息を吐きながら叫ぶ。
「どっちいった?チャイナの人どっちいった?」
「あ、あっち・・・・・」
その迫力に負けて、つい女の子が去っていった方向を指差すと、スチームのような鼻息を吐いて、大男はそっちにむかって駆け出した。
数秒、女の子は唖然としていたが、すぐに目が輝きを帯びたかとおもうと、大男の後を追って走り出した。
----- いつもメイドとは限らない。さっきのが噂の人だ!
記者のカンがそう告げている。
カモシカのようにしなやかな動きで大男に追いつこうとしている女の子。
もうおわかりの通り、女子高生ライターの玲であった。
薄暗い路地裏。
アスファルトの上に、規則正しく鳴り渡るピンヒールの音。
それにつづく荒い男の息と、軽いスニーカーの足音。
頭上で輝く様々な原色の見本市のようなネオンサインが、走る真紅のチャイナドレスをストロボで映し出す。
次に熊、そして少女。 もとい、洋一、牛島、玲だ。
三人の姿は、まるでスクラップスティックな映画の1シーンのようだ。
チャイナドレスの背中に牛島が叫ぶ。
「お、お名前を!」「イヤッ!」「じゃ、住んでるとこを」「もっとイヤッ!」
コメディを演じながら駆ける二人の後ろでは、真剣な表情をしてバッグに手を差し入れる玲の姿がある。
「あっ」
突然、洋一の姿が闇に沈んだかとおもうと、アスファルトの上を転がった。
彼の俊足に耐え切れず、ヒールが折れてバランスを崩したのだ。
肩を押えて立ち上がった洋一の目の前に、両手を上げて牛島が立ちふさがる。
「さぁ行きましょう・・・ 今すぐ・・・・・・・」
あらぬ妄想を鼻から噴出しながら、牛島は歩み寄ってくる。
その姿に、洋一の防御センサーが彼を敵と認識した。
ふたたび高まるバイオレンスの予感。
だが、その緊迫を打ち破る声が牛島の背後でした。
「そこの男どいて! 影になってて写らない!」
「えっ」
玲の叫びに牛島がおもわず振り返った時、洋一の身体が路面スレスレまで沈んだかとおもうと、弾のように前へと突進した。
玲の目には洋一の姿が消えたように見えた。
だが洋一は、瞬時に牛島の懐に飛び込むと、みぞおちに強烈な掌底突きを放ったのだ。
拳での打撃と違って、掌はインパクトを広く深く内臓へと波及する。
牛島の目がくるりと裏返ると、ズーンと音をたてて沈み、洋一の姿が玲の前にあらわになった。
----- チャンスッ!
構えていたデジカメのシャッターが切られ、フラッシュが辺りを白く染める。
しかし、カメラが捉えたのは、真紅の背中だけだった。
シャッターより早く、鮮やかターンで身をひるがえして駆け出す、チャイナの女。
玲は1チャンス1ヒットに失敗して、強く唇をかみ締めてその姿を見送る。
そんな彼女の背後10メートルの位置で、壁に身を隠して一部始終を見ていたシンがつぶやく。
「玲・・・・ なんでおまえが・・・・・・・」
湿りを感じる路地裏で、残された三人はそれぞれの姿で、影となって動きを止めたのだった。