レディ・チャイナ 1
午前1時。
人気の絶えた地下街に、コツコツとピンヒールの音が響き渡る。
ホームレスの辰さんは、その夜めぼしい得物にありつけず、空腹を抱えてダンボールハウスの中で寝ていた。
----- あぁ、せめて酒が見つかってりゃ、ちっとは飢えもしのげるっていうのによォ・・・・・
茶色から黒へと変色しかかっている毛布を巻きつけて、辰さんがブルッと身を震わせたその時、前を通り過ぎようとしていた足音が止まった。
すわっホームレス狩りの若者かと身構えると、ガバッと入り口のダンボールが剥ぎ取られ、何かがそこから投げ入れられた。
「うわぁ!」と声をあげて頭を抱える辰さんの身体に、何やら軽い物がポコポコと当たって下に落ちる。
次に、ガチャンとガラスの触れ合う音をたてて、大きなビニール袋が床に置かれた。
「寒くなってきましたね。皆さんでこれ分けて召し上がってください。少しは温まると思います。どうか気を落とさず。 きっと楽しいことがありますよ・・・・・・」
地下街の照明が邪魔して姿は判らないが、そんな女性の声がした。
まだ固まっている辰さんの耳に、またピンヒールが道を叩く音が聞こえ始め、遠ざかってゆく。
そっと目を開けて、自分の身体に当たった物を手にとってみると、それはあたりめの袋。
暗闇で見えなかったが周りには、乾物屋かと言いたいくらい、乾き系おつまみの袋が散乱しており、入り口には酒瓶が詰まった袋があったのだ。
なんだかわけがわからなかったが、危険は無いと悟った辰さんが、おっかなびっくりダンボールハウスから顔を出して外をのぞく。
煌々とした光に照らされながら、背筋を伸ばして去って行く、派手な後姿が見えた。
真紅のシルク生地に、鮮やかな刺繍で大きな龍が描かれた、全身をタイトに包むチャイナドレス。
左手には、ロンリコ・ラムの瓶が握られている。
そう、言わずと知れた、洋一の姿であった。
やっぱり女装して街へと出てきてしまったのだ。
彼は始め、己の足を殴ってあの部屋に行くのを止めようとした。
だが、ただ痛かっただけで、足は普通に母のマンションのドアをくぐっていた。
今度は、手を押えて女装を止めようした。
しかし、気が抜けて鼻をほじった瞬間に、女装が始まってしまった。
せめて部屋の中で我慢しようと試みたが、鏡に映る自分の姿に満足して、ついうっかり傍にあった酒を飲んでしまって、全ては終わった。
----- そうだ!ホームレスのおじさんたちにプレゼントを持っていってあげよう!
そんなムチャムチャな理由をつけて、洋一はそのままの姿で外へと飛び出したのだった。
差し入れが、あたりめや酒だったのは、かけらほど残っていた男としての本能がチョイスさせたものかもしれない。
アルコールで解放された魔性によって、洋一は地下道を通り、地上へと続く階段を登り始めた。
その足取りに、ためらいや戸惑いは微塵も無い。
女装お散歩を開始してまだ二夜目だというのに、ピンヒールを危うげなく履きこなし、声まで女性化しているこの男はいったいなんなのだろう。
正体不明の曲をハミングしながら大手を振って-----今夜はスリットの深いチャイナなので足取りは静々とだったが-----中華乙女・洋一は地上へと舞い降りた。
白檀の扇子を取り出し、パタパタと顔をあおぐ。
どこへ行こうかと考えているようだ。
正面はアーケードの西の入り口。
左は飲み屋街へと続く道で、右は繁華街を取り巻いている国道だ。
やがて行く道が決まったのか、優雅に扇子を仕舞うと、洋一は右に足を向けた。
艶めかしく揺れる腰と、スリットから見え隠れする白い足が、暗闇の中へと消えていった。
玲はアーケード北口にいた。
ダンスの練習や弾き語りでうたう人々が両脇に並ぶ中を、彼女は左右に目を配りながら歩いてゆく。
キャッチの黒服をかわし、横に並んで道をふさぐ酔っ払いの大学生を睨み倒しながら、玲はどんどん南へと進んでいった。
やがて信号が現れて、一番人通りに多いアーケードが終わった。
信号待ちをしながら考える。
----- やっぱ人の少ないアーケード方かな?それともこの周りの裏通りかな?
考えている内にパッとシグナルが青に変わった。
くるっと90°ターンすると、玲は右へと足を向ける。
繁華街を取り囲む国道と平行して通っているアーケードの方ではなく、さきほど歩いてきた周辺をまた探るつもりのようだ。
タクシーが縦列駐車するのを脇に眺めながら、玲は肩にかけたバッグを揺すりあげると足を早めた。
洋一は国道脇の歩道を悠々と進んでいた。
この国道は、さきほど玲が渡らなかった交差点から、彼が初めに出てきた地下道へと続いて通るアーケードと平行してはしっている。
昨夜、洋一が暴れた国道とつながっていて、今はちょうど真逆の位置を彼は歩いていた。
この辺りはデパートなどの大型店が立ち並ぶ区画で、深夜の人通りは少ない。
それでも彼の姿は人目を惹き、酔客から好奇の視線がそそがれた。
自分を見つめる者に、嫣然とした微笑で洋一はこたえている。
その笑顔を見て、ある男は鼻を伸ばし、ある若者は実らぬ恋に落ち、あるおとうさんは、恍惚のあまり家族土産の寿司の折り詰めを道におっことしてばら撒いた。
それを見て、洋一の快感ボルテージはどんどんと上がってゆく。
----- きっもちいぃ!!
まさか自分を探している不届き者がいるとは夢にも思わない彼は、こみ上げてくる心地よさを隠しきれずに、甘い吐息をつきながらゆっくりと歩いてゆく。
だから、普段の洋一ならすぐに感づいていたはずの視線を察知しそこなっていた。
ちょうど彼の100メートル後方。
奇しくも洋一の組が経営する高利回り金融の看板の陰から、熱い視線でこちらをうかがっている男がいた。
「まさか兄貴がこんなことになっていたとは・・・・・・・」
頬を赤らめながら洋一の背中を見ていたのは、口調が示すとおり、忠実な付き人、冴島 心であった。
シンの尾行は、洋一が事務所を出たところからもう始まっていた。
彼の追跡がまったくバレていないのは、洋一の脳容量の99%を女装が占めている証であろう。
シンは始め、知らないマンションへと入ってゆく洋一を見て、やはり新しい彼女のところだったかと思ったが、やがて出てきた兄貴の姿を見て、何事にも動じない彼が持っていたカフェラテのカップをボトリと取り落とした。
ちなみにシンは酒も好きだったが、甘い物はもっと好きだった。
ドクドクと流れ出す甘ったるい香りに囲まれながら、シンは己の目を疑い、何度も何度もこすって確認した。そのために目が真っ赤になった。
----- 間違いない、兄貴だ・・・・・・ 姿形が変わっていても、俺が兄貴を見まちがうはずがない
そう確認すると共に、あまりに恐ろしい現実に、シンは身体が震えてくるのを感じた。
だが、全てはちゃんと見届けてからと考え直し、ヒタヒタと洋一の後をつけてきたのだった。
そうやってついてゆく内に、シンは自分の身体の異常を感じてふと考えた。
----- おや、まだ身体が震えている。 もう落ち着いているはずなのになぜ?
そういえば心臓もまだドキドキしていた。頬もなんだか熱い。
しばらく変調を不審に思っていたが、今は兄貴のことと、また意識を前に向けたとき、洋一の行く手を数人の影がふさいだのが目に入った。
「いた!こいつよハルちゃん、あたしらおどしたの」
ある国の原住民をおもわせるメイクをした、やたらと薄着の女の子が洋一を指差して叫んだ。
「牛島さん、こいつっス!俺ら襲ってきた女は」
ハルちゃんと呼ばれた男が、かたわらに立つ大柄な男にそうささやいた。
街灯の明かりからはずれていて、その男の姿はよく見えない。
脅してきたのは彼女の方だし、襲ってきたのはこいつだったが、あの夜のことは快感とシンの顔以外よく覚えていない洋一は、小首をかしげて考え込んだ。
が、やっぱり思い出せないので、ロンリコをぐいっと一口飲む。
そんな彼の後方では、危険を察知したシンがいつでも飛び出せるように身構えている。
牛島という男が、のそりと暗がりから姿を現した。
身長168cmの洋一より頭一つ、いや一つ半は高い。
短く刈った髪をツンツンに立たせて、四角くえらの張った顔にはいかつい髭がたくわえてあった。
ごつい身体と相まって、見るからに腕力に自信あり、といった風だ。
どうやら昨日、洋一がやってしまったチームのボスキャラらしい。
凄むわけではないが、やる気満々という空気を漂わせて牛島は洋一をにらんだ。
だが彼は、薄笑いを頬に浮かべながら、扇子を使って涼しげな顔をしている。
辺りを不穏な気が取り囲み、暴力の予感がひしひしと高まってきた時、とつぜん牛島の殺気が消えた。
よく見ると、目は厳しいままだが大きく見開かれていて、口がOの字を作っている。
おどろいている表情だった。
そのうち、ごつい身体がプルプルと震え始めた。
手下のハルちゃんとその彼女も牛島の異変に気づき、「なんでやってしまわないの?」という非難の目をむける。
むふーんと荒く鼻息を噴いて、牛島が口を開いた。
声は渋いバリトンであった。
「か、かわいい」
「えっ?」
ハルちゃんと原住民女子が、同時に疑問の声をあげる。
「つ、つきあってください、ぼくと」
「マジ?」
また二人が同時に声をあげた。
彼らの思惑と180°違う展開についてゆけないようだ。
「ひとめ惚れなんです、お願いします!」
もう二人は何も言わない。だがこのセリフには上機嫌でいた洋一もシラフに戻った。
野獣のような男にいきなりカミングアウトされても-----たとえイケメンだったとしても同じだろうが-----気持ち悪いだけでコメントしようがない。
牛島が一歩前に出る。さすがの洋一もこれには半歩下がらずをえない。
「ど、ドライブいきませんか?」
「・・・・・・イヤ」
「じゃ、飲みにでも」
「・・・・・・ムリ」
「それではちょこっとだけお茶でも」
「・・・・・・てかウザい」
洋一の精神攻撃にも屈せず、牛島は前へ前へとつめてくる。
殴り飛ばすわけにもゆかずに下がる洋一。
だがその均衡も、牛島の熱愛がついに臨界に達して俄に破れた。
彼は猛然と洋一に飛び掛った。
牛島はその時見た。
チャイナドレスのスリットが割れ、細く美しい脚線を描く足が高々と上へとあげられるのと、その足の奥にある物を。
----- わぁ・・・・・しろい・・・・・・・!
牛島の顔に喜びがよぎった刹那、彼の右頬にピンヒールがめり込んだ。
直線から鋭く真横に飛ぶ、必殺の回し蹴りだ。
あわれ牛島くんもアスファルトに接吻かと思われたが・・・
彼はやはり体格通りの猛者であった。
首を少し曲げただけで姿勢も崩さず、その身体は微動だにしていない。
それどころか顔はまだ笑ったままだった。
牛島の手が、まるで愛おしいものに触れるようにそっと足首を捕らえた。
その感触に、ヒッと洋一が悲鳴をあげる。
なんだかよくわからないが兄貴のピンチと、シンが歩道へと駆け出した。
その目の前で、洋一の身体が華麗に空を舞った。
掴まれた足を支点にして躍り上がると、空いていた片足から牛島の顔面へと膝蹴りを放ったのだ。
「変形真空飛び膝蹴りっ!」
おもわず技の名を口にして立ち止まるシン。
モロに決まった膝に牛島が鼻血を噴出すと、その隙に掴まれた足をはずして洋一は駆け出す。
「牛島さん大丈夫っスか!」
そう言って近寄ってきたハルちゃんをなぜか裏拳で殴り飛ばして、牛島は叫んだ。
「逃がさん!おまえは俺の女だぁ!」
その言葉にかっとなったシンが、牛島に走り寄ると思いっきり拳を顎にたたきつけた。
これにはたまらず、牛島は仰向けに倒れたが、そいつにはもうかまわず、シンはマイ兄貴の後を追って走る。
だがすでに洋一の姿は消えており、シンはあせって闇雲に路地裏へと踏み込んでいった。
ポツンとそこに残された原住民風女子は、ぶっ倒れている彼氏と牛島を見下ろしながら、何が起こったのか理解できずに呆然とするのだった。