百花繚乱 -終章- 1
「なにか街が騒がしくなってきてますね、お嬢」
ウッディーな香りがする紫煙をくゆらせながらマスターが、少し前にやってきて、無言でバーボンを口に運んでいる火女に語りかける。
答えがないのをわかっているのか、また一人で話し出した。
「例の関西から来てる連中があちこちに顔を出してます。 紅椿の者ともめてる・・・・・なんて話も出始めてますよ」
「・・・・・・」
「なんでも連中、この街出身の歌手を探してるんだとか。知ってました?」
「・・・・・・よくしゃべるね、今夜のあんた。 遠まわしになんか言いたいことでもあるわけ?」
「いえ、別に」
マスターのしゃべりが気に入らない、そんな様子で火女がぶっきらぼうな声をあげた。
グラスに手を伸ばしたとき、マスターがこっちを向いた。
近くで見てもよく動きが読めないその眼に見つめられた火女が立ち上がった。すぐに出口へと歩き出す。
「ウザいから帰る」
扉を開ける前にそういい捨てると、火女の姿は外に消えていった。
変わらぬ表情でパイプをくわえていたマスターの眼が、カウンターの上に置き去りにされていたグラスのところで止まる。
「飲み残し・・・・・・ めずらしいですね、お嬢」
そうつぶやくと、手を伸ばし、顔に似合わぬしなやかな長い指で、グラスの縁をピーンと弾いた。
アパートの階段を、一段一段ゆっくりと上がりながら、火女は自分に言い聞かせた。
『あたしは娼婦で悪女だ。だからどんな男も、立ち直った時はちゃんと未練なく送り出してやった。今度も同じことなんだ』
自分の部屋の前に立ち、ロックを解いてドアを開ける。
「おかえり。 遅かったね、今夜は」
おだやかなシンの声と煮物の香りに包まれて、さっき自分にかけた魔法はあっさりと解けてしまった。
「ちょっと用事が長引いちゃって」
「ご飯つくってるけど食べる? 今日は金目鯛の煮付けだけど」
うん、とうなづくと、火女はリビングのテーブルに向かった。
手早く並べられた夕食を、シンと二人で食べながら、たわいのない会話をぽつぽつとする。
もうこの部屋の中で火女は、仮面をかぶれなくなっていた。
今ではシンもいつも明るい顔をしていて、悲しみや苦しみの表情を見せない。
お互いに、出会った時のことやここに来た日のことなど、なかったことになっていた。
シンが少しづつ自分に歩み寄ってきてくれている。
その気配だけで嬉しくて、火女は失うことなど考えないでいた。