凛 -反逆- 5
不吉な影絵のような立ち姿の中、吊り上がった紅唇からのぞく八重歯が白く輝き、義隆が顔を歪める。
「り、凛!? なんじゃわれ、なにしにもどってきたっ」
「忘れ物を獲りにきたのさ・・・・・・ 別れる前にあたしゃ言ったよねェ、クスリとチャカだけはさばくなって。そのやっちゃいけないことをやった時には、エンコの一本も貰いにくる・・・・・・そうきっちり言っといたはずだけど」
そんな昔の話を持ち出されても、すっかり義隆は忘れてしまっていた。
だが凛の押し殺した声を聞いて、変に真面目で固く、言いたいことをずけずけという、その性格が嫌で離縁したことまで思い出した。
ゆっくりと近づいてくる凛の右手に握られた小柄が放つ不気味な光芒を見て、やがて義隆は恐慌を起こした。
「なにしとんじゃこら! はよやらんかい、二人とも殺ったれ!!」
その言葉に何人かは動くのだが、雄五郎の巌の身体を乗り越えてまで中に進む者はいない。
ほんの数メートル先まできて、凛の足が止まった。 そしてリボルバーを投げ捨てると低く唸る。
「書きなっ」
「な、なにを?」
「本家入りの辞退状と、クスリを扱うことをやめる詫び状」
「そんなん今さら書けるか! 相手は本家直系の若中やぞ?」
義隆が叫んでいる間に、袖口深く入れられていた凛の両手がふいに抜き出され、半月を描きながら目の前で交差した。
「ぐわっ!」
「あんたの能書きなんざ誰も聞いちゃいないんだよ。 書きな。次はぶっすり腹に突き立てて空気抜かせてもらうよ!」
斬られた自分の両耳を走る激痛と、流れ出した生暖かい血の感触に、義隆の全身から汗が噴き出す。
「紙と筆もってこい!」
凛の後ろで、雄五郎が刀を構えたまま怒号した。
数分後、義隆は皆が見守る中、寝室の床に正座させられ、二通の書状を書かされた。
「これでええんか? そやけどこんなんで向こうはおさまらんぞ」
「いいんだよ、あんたはそんな心配しなくって」
書きあげて筆を投げ出した義隆を冷たく横目で見てから、凛は書状の内容を確かめた。
「用がすんだんなら帰れ! ふん、けったくそ悪いっ」
そう罵る義隆の前に、ずいと凛が片膝を立てて進み出た。
「な、なんじゃい・・・・・・」
床に片手をついて義隆がのけぞると、意外にも凛がにこりと微笑んだ。
女神の笑みに周りの空気が緩んだその時、大きく凛の右手が上から下へと断ち斬るように振り下ろされた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
屋敷中に響く悲鳴が義隆の口からあがる。
右手の親指と人差し指の付け根を貫いた小柄によって、床へと縫いつけられた手のひらの下から、ゆっくりと赤いものが滲み出す。
やい、と凛が立膝で足を踏み鳴らし咆えた。
「てめえも極道の端くれなら、これっくらいでがたがた騒ぐんじゃねえ! 小指の代わりにこれで勘弁してやろうってんだ。ありがたくおもいな!」
夜叉の表情に変わって切った凛の啖呵の迫力に、雄五郎の肩まで震えた。
乱暴に小柄を引き抜くと、義隆の手をつかみ上げ、二通の書状に書かれていた署名の下に血判を押す。
その後、壊れたおもちゃを投げ出すようにつかんでいた手を捨てると、もう一度小袖の裾をからげて膝の上に顎をのせ、義隆を睨み据えて言った。
「いいかい。この件はこれで手打ちにしてやるよ。 この先、妙な真似しやがったら、世界中のどこにいたって24時間以内に戻ってきて命もらうよ」
手の痛みを越える恐怖に義隆はすくみあがった。
この女はいつも本気だと知っている。
義隆の目に従う色を見て取った凛が、くるりと顔を後ろへと向けた。
「雄さん。 すまないがこれっくらいで勘弁してやっておくんなィ」
刀を納めた雄五郎は深く凛に向かって頭を下げた。
「ありがとうございます、姉さん」
「じゃ、帰ろっか」
からからと明るい笑いを立てると、凛は立ち上がって雄五郎の背を押して寝室を出た。
取り囲んでいた組員たちを押しのけながら雄五郎が先立って進んでいた時、背後に殺気を感じて振り返った。
狂気に駈られた義隆がリボルバーを構えている姿が目の端に映り、とっさに凛をかばって前に身体をさらす。
「舐めくさってからにっ。 極道脅してこのまま帰れるおもたんか!!」
泡を噴きながら義隆はわめくと、血だらけの指で引き金を引いた。
誰もが雄五郎が撃たれたと思い目を閉じた。
だが銃声は鳴らなかった。
やがて目を開いた組員たちは、焦りながら懸命に引き金を引いている義隆を唖然として見つめた。
自分をかばった雄五郎を押して出てきた凛が、手のひらの上で銃弾を弄びながら意地悪な少女の笑い声を立てる。
「バーカ。 舐めんじゃないわよ、このあたしを」
使い慣れない義隆はまだ気づいていなかったが、リボルバーの弾倉は空だった。
自分の顔と小柄に義隆の注意を集めておいてから、凛はその隙に魔法のように弾を抜き取っていたのだ。
そのことを悟った雄五郎が目を剥いて見つめる中、凛の眼が凄みを帯び、悪魔的に歪んだ口から底知れぬ闇の声が漏れる。
「まだわかってなかったみたいだねェ、この男は・・・・・・ 雄さん。ちょっとみんな集めてこっちに入らないようにしといて」
そう言い捨てると、まだ銃を構えている義隆を張り倒し、襟首をつかむと寝室へと引きずって行く。
「か、かんべんしてくれえ、凛! もうせん、もうせんからぁ!」
「うっさい! あんたいっつもそうだったじゃないさ。
もうやらないもうしないとか言っといて、それで何人妾囲ったとおもってんのよ!
あ、なんかいろいろ思いだして腹立ってきた・・・・・・ もう許さない!前の分もまとめて思い知らせてやるわ!!」
なんだかよくわからない悲鳴をあげる義隆の姿が寝室に放り込まれると、バタンとドアが閉じられた。
「あ、姉さんっ どうかお手柔らかに!」
おもわず叫んだ雄五郎の言葉は、凛には届いていなかった。
騒動が終わり、雄五郎と凛が屋敷を出ると、肌寒いが身も心も心地よく引き締める、すがすがしい朝の空気が二人を包んだ。
「・・・・・・姉さん。オヤジは?」
「ああ。しばらくはお妾も可愛いがれないかもね」
あははとおかしそうに笑う凛に、雄五郎が引きつった顔を見せた。
「じゃあそろそろ帰るわあたし」
「送っていきます」
そうこたえながらも、わずかな凛との時間を惜しんで雄五郎は顔を曇らせた。
門の外に出ると、その脇にある車止めに置いてあったファントムの後部席を開け、小腰をかがめて待つ。
もう一生会うことはないだろう。 そんな考えがドアを支える手を震えさせていた。
だがいつまでたっても凛は乗り込んでこない。
いぶかしんで顔を上げた雄五郎の目に、人差し指を顎に当て、まるで子供が次の遊びを考えている、そんな仕草で空に視線をさまよわせる凛の姿が映る。
「姉さん?」
声をかけた雄五郎に、振り向いた凛が童女めいた表情で笑いかける。
「そう思ったけど・・・・・・ 若い子と遊ぶの面白そうだから、もうちょっと残るわ。 まっ、手は出さないけどね」
意味がわからず首をかしげる雄五郎の手をファントムのドアノブから引き剥がすと、凛はその腕に自分の手を絡ませ引っ張った。
「あ、姉さん!? なんですかいったい!」
「いいのいいの。ひと仕事終わったから飲みにいこっ」
「いや、あのまだ朝で・・・・・・」
「あんたん家でいいわ。朝の散歩もしたいから、昔に戻って歩いていこ! 車はそこに置いときなさい」
「む、昔も今もそんなことありませんで・・・・・」
そこで思いっきりわき腹をつねられて絶句する。
「うるさい!ガタガタさわぐんじゃないわよ男のクセに。 それともなにかい。あたしと歩くのイヤだっていうの?」
恋する相手に腕をとられ戸惑う老極道に、凛は一方的にそうまくし立てると、雪駄の音を響かせながら上機嫌で歩き出す。
ある意味、男にとってもっともタチの悪い無邪気な女-----そんな凛は、雄五郎の気持ちなどお構いなしで捕まえた腕を放さず、笑みを浮かべながら引きずって行く。
二人以外歩く者のいない道を行きながら、凛はふと顔を上げると、雲ひとつなく清んだ青空を見上げつぶやいた。
「さて。洋一たちはこれからどうするんだろうね」
「たち? 姉さん、若は今なにをやってるんですか?」
「うふふ。 天女活動・・・・・だったかな?」
「?・・・・・・」
また首をかしげだした雄五郎の肩に可愛い顎をのせると、ぎょっとした顔に向かって目を細めて甘くささやく。
「そういうことだから雄さん。組はあんたがうまくまとめといて、洋一はしばらくフリーにしておいて」
言っている意味などさっぱり理解できなかったが、このまま死ぬんじゃないかと思うほど高鳴る胸の鼓動が命じるまま、雄五郎はうなづくしかなかった。