凛 -反逆- 2
凛が洋一の前から去った翌朝。
街の中心を見おろす高層マンションの15階。雄五郎はそこにある自宅の居間に正座していた。
男の一人住まい。 ヤクザ渡世を決めてから、雄五郎はずっと一人だった。
おどろくほど物が少ない部屋の中を三白眼が見回す。
綺麗に整理されているのを見取った後、背広の内懐に右手を差し込むと、紫の袱紗を取り出す。
膝の上で丁寧にそれを開くと、中から出てきたのは白い盃。
親と早くに死に別れ、頼る親族もいなかった雄五郎は、先代に拾われてこの盃を下ろしてもらった。
それ以来、紅椿一家は彼の中で家族と同じ意味をもった。
建前は組のためだが、雄五郎はいつもその胸の内で、家族のためと唱えながら、自分たちに仇なす者の前に身体をさらしてきた。
静かに袱紗ごと盃を床に降ろすと、自分の脇に置いてあった白木の刀を取り上げた。
目の前でそっと鯉口を切る。
胴田貫-----人を斬ることのみを考え造られた、武骨な斬人刀の刃に映る自分の眼を見つめる。
この刀を持って洋一と対峙した時のことが、ふと頭を過ぎった。
一家は家族、そして二代目は孫。 そう雄五郎は考えていた。
だが違った。
気に入った時だけ可愛がればいい孫などではなく、洋一は自分にとって良い時も悪い時も真剣に向き合う息子だった。
そうあの斬り合いの時に気づいたのだ。
家族を知らず、またその温もりも知らない雄五郎は、今まで精一杯の気持ちを込めて洋一に接してきた。
嫌われていることは早くに察していた。 だが他に愛するすべを知らない。
ヤクザ渡世が一番だとは思わないし、洋一が乗り気でないこともよくわかっていたが、自分といっしょに紅椿一家-----家族を守っていってほしかった。
そのためには洋一に対して、強引なやり方になると知っていても。
自分と共にいく決心してくれるのなら、墨などどうでもいい話だったが、この無口な男はそれを伝えるすべさえ持たず、ああして刃を交えることしかできなかった。。
そんな雄五郎だったが、どんな時でも洋一の事を思っていた。
あの時、容赦なく切り裂かれながらも、雄五郎の刃は洋一の身を毛ほども傷つけなかった。
刀を鞘にしまい床に置く。
姿勢を正し、瞑目してから右袖のシャツのボタンをはずし、たくし上げた。
傲岸なこの男に似つかわしくない、白百合の花が艶やかにその腕に咲いていた。
凛が洋一を連れて去った後、雄五郎は彫玄に言った。
「せっかくきてもらったんだ。 代わりに俺に墨入れてくれねえか?」
「んっ? おめえさんに墨入れるとこなんか残ってたか?」
いぶかしむ彫玄に向かって、雄五郎は右手を差し出した。
「後はここしかねえ。 白い・・・・・・そう、百合の花でも描いてもらおうか」
「まった妙なこと言いやがるっ」
そう悪態をついたが、何かを感じ取ったのか、彫玄はその後は一言もたずねず、「本物も目ェつぶすくれェ、一世一代のを入れてやらァ」そういって笑った。
しばらく雄五郎は腕の上に咲くたおやかな白百合を見つめていたが、やがて惜しむようにゆっくりとそれをシャツの中にしまい込んだ。
そしてまた床の上にある、白い盃に目をやる。
組に良かれと思い、これまで義隆のあくどい稼業にも目をつぶって従ってきた。
それに辛抱すれば、洋一の代になれば、きっと組は生まれ変わる。そう信じて、耐えて二代目を育ててきた。
だが今度の本家入り、いやクスリに手を出すことだけは見過ごす事はできなかった。
クスリは組の、家族の命を縮める、そう考えたからだ。
しかし傲岸な雄五郎もはじめは悩み、凛に本家入りの事だけ電話で相談して帰って来てもらった。
そして自分の介添えとしてついてきてもらい、忠告するつもりだった。
それほど-----家族を愛するがゆえ、その頂点に立つ義隆には逆らえなかった。
だが、もう・・・・・・
知らず知らずのうちに、左手がそっと白百合を撫でていることに気が付いた。
『やはりあの人を巻き込むわけにはいかねえ』
今は凛に電話してしまった己の弱さを呪っていた。
急がなければ、地獄耳の凛は必ずクスリの一件を探り当ててしまう。
『俺がケジメつけるっ』
さっと腕をしまうと手を床につき、雄五郎は盃を前ににじり下がった。
そしてそのまま額を床に擦り付け、土下座して叫んだ。
「先代、雄五郎、親に叛きます!」
やがて身を起こしたその身体には、老いも迷いもなかった。
盃を袱紗に包みなおして胸に収めると、刀を黒い布袋に入れて立ち上がる。
そしていつもと変わらぬ足取りで部屋を出た。
ドアが閉まりきる直前、隙間に差し込んだ朝日が、玄関に置き去りにされた部屋の鍵を照らした。