凛 -反逆- 1
隠れ家に戻ってきた凛花は、そっと寝間をのぞいた。
布団をかぶり、規則正しい寝息をたてながら眠るレイラの姿を確認してからバス-----というか湯殿という表現が当てはまる古風な檜風呂に入って化粧を落とし、洋一に戻る。
どこか懐かしい、玉砂利を撒き散らしたみたいなタイル張りの床に敷かれた木のすのこの上に座り、格子窓から逃げてゆく白い湯気の行方をぼんやりと追った。
煙のヴェールの先にある月は、湯気でくすぐられて笑うように潤んで見えた。
こうしてほっと気が抜けた時、やっと洋一は身体が緩んでくるのを感じる。
なにかと精神的に緊張を強いられることが多かった日々を思い出した。
意外にも訪れた母との再会と共に過ごす時間。 この時がなかったとしたら、いったい自分はどうしていただろう。
そう考えると全身が総毛立ち、洋一は立ち上がると、ちゃぷりと湯船の中に沈んだ。
温かい湯と檜の香に包まれながら、ほっと息をついたとき、忘れていた母への疑問がまたひとつ頭によみがえってきた。
秘伝・桜花乱舞。 これを伝えるために帰国した、たしかそう母は言った。
しかし一時帰国しなければならないほど大事なことだったのなら、なぜ今まで忘れてしまっていたのか。それに以前に日本を離れる前になぜ自分に伝えなかったのだろう。
母が再婚した時、洋一は二十歳。今とそうたいして変わりはなかったはず。
やはりどう考えてもおかしかった。 秘伝の内容からして、とても重要な意味があるように思えてならない。
段々とたずねてみたい衝動が高まり、洋一は勢いよく湯船から立ち上がると、外に出た。
さっとタオルで身体をぬぐい、頭を拭きながら座敷にいくと、部屋の真ん中で凛が腕を組んで立っていた。
そのそばに置かれた、ヴィトンのヴィンテージトラベルケースを見てはっとする。
洋一が何かを言う前に、凛が腕を解くと、舞台の役者のような仕草で何かを投げてきた。
反射的に手を伸ばし受け取った物が、手のひらでチャラッと清んだ音をたてた。ジャガーのキーだった。
「そろそろ帰るわ洋一」
予想はしていたがあまりに唐突だったのでとまどう洋一に、母は自分の名と同じ声を出して言った。
「こっからはあんたたち・・・・・・いや、あんたで充分よ」
「そんな、まだ教えてもらう事が、手伝ってほしいことが・・・・・・」
そこまでいって絶句する息子の目を見て母は語りかける。
「もう教える事なんてないよ。さっきも言ったでしょ、もう後はあんたの心次第、ってね」
「でも秘伝は、なんで今になってこれを?」
うまく思いが言葉にならない。
あせる洋一をさとすように、優しい目になって凛は言った。
「ほんとはね、忘れ物なんてウソ。あんたに会う口実よ」
「・・・・・・」
ふふふとチャームに笑う凛を見て、洋一があんぐりと口を開ける。
「秘伝なんか伝える気なかったの。でもそうしたのは、今のあんたに必要だと思ったから。
本気であれを使いたいなら、あんたの中・・・・女の部分に隠れたものと向き合わなきゃいけない。
それは厳しいことかもしれない。でもそうすればきっとそいつを自分の味方にできる。
凛花とあんたは一つになれる。あたしはそれを願ってる」
気のせいか、母の声がわずかに潤んで聞こえた。
「まっ、ただのカンだけどねっ」
そういいながら凛は前に進むと、洋一の横をすり抜けた。
玄関へと向かう背中についてゆきながら声をかける。
「でも夜だよ、飛行機ももうないし、せめて朝まで待って・・・・・・」
「チケットはもうとってあるの。それに悪いけどもう一つ忘れ物思い出してね。すぐ取りにいかなきゃいけない」
つられて歩く洋一を凛はちらっと振り返ったが、足を止めずにタタキに置いていたパンプスを履いて立ち上がった。
「ありがと。 たのしかったよ、洋一」
そういって笑った凛の顔を見て、洋一はそのまま玄関にへたりこんでしまった。
拒絶ではない。 でも母の行動を止める術がないことがわかってしまったのだ。
放心する洋一を見て凛は一歩戻ると、背をかがめて息子の身体を抱いた。
再会した時と同じ夜来香が匂い、洋一の鼻を打った。
耳元で声がした。
「好きなように生きなさい」
さっと離れた身体と共に、甘く切ない香りが遠ざかってゆく。
洋一はただじっとそれを見送った。