火女 1
火女とシンが出会ったバー。
夕刻、まだclosedの札が下がっているその扉が開いた。
火女が姿を見せ、白い布で丁寧にカウンターの上を磨いていたマスターの前までくると、すぐそばの席に腰掛けた。
別に気にする風でもなく、マスターは一連の動作のようにカウンターの内側へ入ると、布をたたんでステンレスの流しの横に置き、足元のアイスボックスから緑色のペリエの小瓶をつまみ、火女の前に出した。
ペリエに手を伸ばした彼女の右手が、瓶に届く寸前、マスターの声がした。
「お嬢・・・・・・」
火女の手の動きが静止画像のように止まる。
いつ見ても眠たげだったマスターの目が薄く開けられ、火女を見つめていた。
火女はいつも、下はデニムで上はカットソーといった、ラフで動きやすい格好だったが、今日は黒のリクルートスーツにタイトなスカートと、会社勤めの身なりだ。
目がきつめで、どちらかといえば派手な顔立ちなので、お世辞にも似合っているとはいえない。
「ああ、ちょっと妙な奴がこっちに入ったって聞いてさ。調べてたんだ」
珍しい自分の姿を見て声をかけてきた、そうおもった火女が自嘲気味に白い歯をみせながら笑っていった。
「そうじゃありませんよ」
否定したあと、マスターの能面を思わせる固い無表情が崩れ、顔に笑みが浮かんだ。
きちんと歳をとってきた男がみせる、いい笑いだ。
けげんな顔をして、ペリエの瓶をつかんで飲む火女を眺めながら、またマスターがしゃべる。
「ひさしぶりに顔が笑ってますよ、お嬢」
うっと息が詰まった顔で、火女が喉の動きを止めた。その姿に、くくくっと喉の奥でマスターがこらえきれない笑い声をたてる。
カッと火女の顔が赤くなり、拳を握ってなにか言おうとカウンターに身を乗り出すが、笑いつづけるマスターの顔をみると急に力を失くして、またストゥールにトンと腰を落とす。
そしてペリエの瓶をひざの上に置き、両手を添えてうつくいた。
「わかる?」
鉄火で蓮っ葉だった口調が、恥じらいを含んだものに変わった。
「はい。穏やかで・・・・・・ とても綺麗ですよ」
満更お世辞でもなさそうな口ぶりでマスターがこたえる。
くるくると手の中で瓶を回している火女を包む、優しい言葉がふわりと投げかけられた。
「惚れましたか?」
さっきとはちがう色合いで染まる火女の顔を見つめるマスターの表情は、娘か孫でも眺めるようにあたたかい。
「ちがうよ。 なんか他人事って思えなくって・・・・それだけ」
そういった火女の前でマスターが動き出した。
背面のボトルラックからフォアローゼスの瓶をつかむと、ロックグラスを二つカウンターに並べ、静かに注いで、すっと前にすすめた。
そして意外と似合う、いたずらな顔でこういった。
「知ってますか? こいつは恋の由来を持つバーボンなんです。 帰るときにもっていってくださいよ」
鮮やかに咲く、四つの薔薇の花びらを描いたマークを、ピーンと人差し指で弾く。
「いい夜になりそうです。 あの男のところに戻る時間まで、お嬢に付き合ってもらいましょうか」
がっしりとした手がグラスをつかむ。
マスターはバーボンを口に含むと旨そうに目を細めて、満足げにもう一度火女に向かって微笑んだ。
マスターが持たせてくれた、フォアローゼスのLTDボトルが入った紙袋を胸にかかえ、火女はアパートの階段を駆け上がった。
二階の一番奥。自分の部屋のドアの前で足をとめると、弾む息を整えながらきつく目を閉じ、そっと音を立てないように強く紙袋を抱きしめた。
少しうつむいた顔が袋にあたり、パルプの乾いた懐かしい香りが鼻をくすぐった。
楽しく遊んで家に戻ってきた、そんな子供のようだった満足げな表情が、息苦しく切ないものに変わっていた。
ほんの数秒そうしてから、はみ出ていたボトルの頭に、まるで愛しい男に捧げるような熱く優しいキスをひとつすると、袋を右手に下げた。
その時にはもう、いつものどうでもいいといった風な、ねむたげな顔になっていた。
後ろでまとめていた髪をほどくと、首を一振りしてから左手で掻き揚げて乱す。
がさつな音をたててドアノブにキーを差し込んでまわすと、勢いよく開けて中に入った。
「おかえり」
涼しいアルトの声と、清んだ紅茶の香りが火女を迎えた。
ジタンの残り香がわずかに混じったその芳香は、ハイランドアッサム。
独りじゃないことを感じさせてくれるその声と紅茶の香りに、さっきの表情が戻ってきそうになって、あわてて火女は声をあげた。
「・・・・・・ただいま」
そうぶっちょう面で小さくこたえ、パンプスを脱ぎ捨てて廊下にあがると、その先の左側からひょこっとシンが笑顔を見せた。
廃人だった顔に笑みが戻ったのは、この数日前からだ。
ため息が出そうなほどの喜びを隠して、火女はバサバサとせわしく髪を掻きながら右側、キッチンにつながるリビングに足を向けた。
普段は小ぎれいにしていたが、シンを呼び寄せるときに乱雑にした部屋の中が、塵ひとつなく掃き清められ、すべての物がきちんと整理されていた。
自分がいないあいだにシンがやったことを見て、肩越しに振り返ると、紅茶を淹れる後姿を見つめた。
その背中に飛びついて、唇を奪いたい。
身が震えるほど強く思ったが、視線を引き剥がし、顔をまた前に向けてテーブルのそばにどさっと横になった。
そばにあったクッションをかき寄せて、あごの下に敷いてうつぶせに寝転がる。
さっき聞かされたマスターの言葉が頭の隅をよぎった。
「惚れましたか?」
軽く目を閉じて、口までクッションの中に埋めて、心の中でさけんだ。
『惚れたがどうした、悪いの?』
部屋に男を連れてきたのは初めてだった。
今でもなんでそうしたのかわからない。
もっとわからないのが、こうやって二人で暮らしていることだった。
始めは、偶然に自分の目の前にあらわれた紅椿の男から何か聞きだそう、そうおもっただけだった。
あの一家の主だった男たちの顔はすべて記憶している。 特に次期二代目の周辺にいる者は、どんな人物かまで詳しく調べてあった。
だから一目見てすぐ、二代目に影のように付き従っている冴島心だとわかった。
だがそれと同時に火女の人の感情を察する力が、目の前の男がなにか-----おそらく恋愛について悩み、葛藤していることを気づかせたのだ。