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桜花乱舞 3


翌朝、洋一が目覚めると、となりに布団がなかった。

かわりに木綿の胴着と紺色の袴がきちんとたたんで置かれていた。


いぶかしく思いながらも、起き上がって台所へつながる戸を開けると、煮物の香りと温かさがむっと全身を包んだ。

目の前に同じ胴着と袴を着けた母の背中があった。


トントンと刻む包丁の音が聞こえ、すぐに葱の匂いが鼻をつく。

凛がコンロにかけてあった鍋の蓋を取ると、まな板の上のそれを中に落としてまた閉める。

そしてくるりと振り返った。


「そこに座ってなさい」


洋一がまだぼやっとした顔のまま、小さなちゃぶ台の前に座ると、じきに朝食が並べられた。

あじの開きにしじみの味噌汁。そして若布と胡瓜にちりめんじゃこの酢の物、蕪と壬生菜の香の物。


簡単な物なのに、どれもすばらしく旨かった。何十年も口にしていなかった味だ。


むさぼり食う洋一を笑いながら、凛も同じ物を並べると、向かいに座って口にする。

先に食べ終わった洋一は、母の手早いのに優雅に見える箸使いを、舞でも観る気分で眺めた。


「なんでそんなに立ち振る舞いが綺麗なの?」そうたずねたらきっと凛は

「舞踊とかやってるからかなぁ」と軽くこたえるだろう。

人の何倍もの物事に手を出し、それを身に付けてきたからこそ美しい母の姿を見て、あらためてその凄さに気づいて信奉してしまう


凛の食事が終わり、淹れてくれたほうじ茶の香ばしさを楽しんでいると、声がかかった。


「着替えたら庭に出てらっしゃい」


その言葉に何かを感じて、洋一はそこで湯飲みを置くと、奥の間に戻って急いで胴着と袴を身に付けた。

縁側に出て気がついた。


昨日は夜でわからなかったが、広くならされた何もない庭の向こう端に、藁を巻きつけた棒が八本、等間隔に並んでいた。

自分の着ている物とその光景を頭の中で合わせた時、今から起きるであろうことの予感に、おもわず身震いしてしまう。


また寝間に引き返すと、いつも肌身離さずに持ち歩いている、小柄を納めた革の腕輪を手にして縁側に行くと、素足のまま藁棒の方へと足を進めた。








洋一は的の前、20メートルほどの位置に立っていた凛のそばにいった。

母のしなやかで長い指のあいだに八本の小柄が握られているのを見て、背筋が引き締まる。


菊池流の小柄は通常の物と違いやや長く、20cmほどあり、刃の部分が平たく、横幅が二倍もあった。

刀身も厚みがあり、尖端から鍔元にかけて段々と厚味が増してゆく、独特の造りだった。


ぱっと見は日本刀を縮めた普通の小柄だが、この工夫が読めない動きを生み出すのだ。

その挙動を柄尻に結んだピアノ線ほどの細引き紐-----苧麻という繊維を編んだ強靭な綱-----で、さらにあやつる。

その技を集成したものが、菊池流だった。


凛の顔が自分に向けられたのを感じて、目を合わせる。

その目が「いいかい?」そうたずねていた。


一度大きく深呼吸してからうなづくと、立っていた凛の身体がビンッと伸びたのがわかった。

まっすぐに的の方を向くと、左足の前に少し右足を出すと、右手を軽く曲げて頭の上に、そして左手を水平に寝かせて胸前で構える。フラメンコダンサーのようなポーズだった。


数分の静寂の後、野鳥のさえずる甲高い鳴き声がして、それが合図のように、うっと凛の頭上にあった右手が半月の形を描いて閃き降りた。

その瞬間には片ひざ折って腰が地に落ち、左手が真一文字に横に斬り薙がれ、最後に両手が耳元に上がって、疾風のごとく前に振られた。

その時、初めて洋一は、両の手の平にも小柄が一本づつ握られていたことに気がついた。


右手から放たれた小柄は、的を大きくはずしてかなり上を飛んでいる。

左手のそれは地を駆ける獣の勢いで、地面すれすれを飛び、最後の二本はまっすぐに中央の的に向かっていた。


『攻撃の意図が見えない』

そうおもった時、凛の右指が複雑な律動を見せ、同時に左指が、くんっと小さく跳ねる。

鍵盤を叩くピアニストのアクションに、細引きで繋がれた小柄が反応した。


的の真上にきた小柄が飛ぶのをやめ、飛蝶の動きに変わって落下した。

同じく地上をゆく小柄が、燕のように鋭角に飛ぶ角度を変え、斜め上に走る。

的の頭上に落ちる小柄は、花が風に巻かれるように、螺旋に舞い乱れた。


「あっ」

意図がわかって声が出た時、十本の刃は八本の的にそれぞれ突き立ち、朝日にその刀身を鈍く光らせていた。

立ち尽くす洋一の耳に、確かな凛の声が響く。


「秘伝、桜花乱舞」


初撃の的外れの小柄は陽動。 いや、地上のものも二本も、三つの動きそれぞれが、マジシャンが振る赤いハンカチのように目くらましのフェイントかもしれない。

相手の動きに合わせ、そのどれかが本当の攻撃に変化するのか?


そこまで考えたとき、構えを切った凛が立ち上がった。


「直上からくる攻撃が一番避け難い。 しかも動きが螺旋だ、まずかわせないよ」


静かにそう語った後、急に凛の表情が溶けたように緩み笑顔になった。

朝日を頬に受けながら、目を細めて声なく笑う。


「これが忘れ物よ」


なんで今になってこれを?

その疑問を洋一は飲み込んだ。 母が意味のないことをするわけがない、そう確信していたからだ。

固い顔をしたままの息子の手をとると、凛は引っ張って家の方へと戻りはじめる。


「さ、あとは道場で教えてあげるよ」


シンがいなくなってわだかまっていたものを、洋一は忘れていたことに気がついた。

そして母との再会の喜びを、やっと素直に感じられた。

今、やる事ができたことで、固まっていた心がほぐれ始めたのがわかる。

取られた手を強く握り返すと、洋一は力を込めて、自分の足で歩き出した。








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