桜花乱舞 2
天空に架かる輝く大きな弓。
そんな新月の淡い月明かりの下、濃緑のMG-Bが、古風な排気音を奏でながら走っている。
ハンドルを握る凛の、うなじで留められた髪が、夜風にサラサラとなびいてシートの背面で踊っていた。
さっき洋一の前に姿を見せたときは、肩口でばさりと切りそろえた髪だった。
そのウィッグが、ナビシートに座る息子の膝の上で、同じように入ってくる風になぶられたいる。
おそらく今の髪型が本来の凛のものなのだろう。
月のせいで蒼白く光る青磁器にみえる母の横顔を見つめながら、懐かしく洋一はおもう。
----- そういえばかあさんは、いつも役者みたいに髪や格好が変わってたよな
その趣味が自分に影響しているとは、考えてもみないようだ。
どんなに姿形が変わっていても、一本通った筋を感じさせる凛を、憧れの想いで見上げてしまう。
そんな母だから、不思議におもっていた。
「ちょっと近くまできたから」
そんな理由にもならないことで、わざわざ帰ってくる人ではないのだ。
口の端にほんのわずかに笑みを浮かべた凛の横顔に、訳をたずねてみたくて口をひらくけれど、声は喉の奥でとまってしまう。
そんな二人を乗せて、MG-Bはパイパスを抜けて郊外へと出た。
ぽつぽつと家の窓に明かりが点る古い街道をゆくうちに、緩い勾配を上がり始めた。
登りきった先に見えたものは広い石段。
その下の玉砂利が敷かれた空き地に凛はMG-Bを停めた。
降り立った二人が見上げると、大きな山門が見える。
そこは洋一でも知っている、全国的にも有名な古刹の寺であった。
凛が石段を登り始めたので、あわててついてゆく。
百段以上あるそれを三つほどあがると、本堂が上にあった。
だが凛はそこを上がらずに、右手の藪を切り開いた小道の方へと入ってゆく。
緩やかにみえて意外ときつい坂道を登りきったところで、急に平らな場所に出た。
100メートル四方のこんな広い敷地が、山奥にあるとは思えない。
まるで桃源郷が突然目の前にあらわれたような錯覚を洋一はおぼえた。
向かって奥に横に二棟つづいた日本家屋があり、左側の小さい家の方へと凛は歩いてゆく。
右の家は横長い集会所のようだったが、木の雨戸が閉まっていてよくわからない。
古びた引き戸を開けると、凛は自分の家のように三和土の壁にあるスイッチを押して明かりをつけると、パンプスを脱ぎあがってゆく。
十畳ほどの座敷と台所、そして六畳の寝間があるだけの小さな家だった。
凛は座敷の方へと洋一をいざなうと、「すわってなさい」そう優しく声をかけて、閉まっていた雨戸を開けてゆく。
澱んでいた空気が入ってくる夜風に散らされ、掻き消えていった。
なぜか中央に正座して母の後ろ姿を眺めていた洋一の目に、開け放たれた戸の向こうから、市街地の明かりが飛び込んできた。
三方を海にかこまれた街は、まるで暗い空間に浮かぶ色とりどりの光の花束だった。
鴨居に両手をかけて、凛も外を見ている。
鮮やかで美しい夜景を、母がその腕を広げて胸に抱いているように、洋一には見えた。
やがて凛は肩越しに振り返ると、洋一に笑みを投げた。
その神秘的な姿と、穏やかで優しい笑顔に、腰が抜けてしまう。
あひるみたいにへたり込んで正座を崩した洋一の横をすり抜けて、凛は台所に消えると、一升瓶と湯呑み、そして小鉢をさげて戻ってきた。
ちょいちょいと空いている小指を曲げて洋一をまねき寄せると、雨戸の外側、濡縁へと誘う。
母子はそこに腰かけ、月を見上げ、光る街を見下ろした。
二人の間に置いた二つの湯呑みに、波々と酒を満たすと、凛は両足を前に投げ出した。
そして片足をひきつけ、立てひざになる。
チャイナのスリットが割れ、なめらかな腿が見えて、うっと洋一は息を詰めた。
だがそんな莫連な姿も、粋な芸者のように美しかった。
しばらく凛は夜景を見つめていたが、やがて洋一の方へと身体を向けて、湯呑みの一つを手にすると、息子の目をみてにこりと笑った。
「で、どうなってんの?」
さっきは気づかなかったが、凛の声の端に少しだけだが、おっとりとした土地のイントネーションが混じっている。
洋一は自分の前で、凛が母親に戻ったのを知った。
涙目になった洋一に、細い指でもう一つの湯呑みを指し示して飲むようにうながすと、自分も口をつけながらまた前を向いた。
満ちてきた安心に押され、シンがいなくなってからずっと重く閉ざされていた口が動き出した。
やくざの道への疑問、女装のこと。それに伴ってあらわれた危険な魔性のこと。
そしてシンのこと。
若いときにはできなかったが、今、生まれてはじめて母にむかって想う事のすべてをぶちまけた。
凛は一言も口を挟まず、時おり酒を口にしながら、外を見つめて話を聞いている。
重要な部分を話すときだけ、洋一の目を見た。
そんな姿に向かって話しているうちに洋一は、なぜか母はもう自分に起きた出来事の大体のところを掴んでいる、そんな気がした。
洋一が語り終えても、凛は何も意見を言わなかった。
「飲みなよ。 雄さんがもってきてくれた、いい酒よ」
そうすすめただけだ。
湯呑みを手にしながら、ふと洋一は雄五郎と凛の間をおもった。
記憶の中に二人がいっしょにいた光景はなかったが、あの因業な老人と母に何かつながりがあるのだろうか。
そう考えながら口にした酒は、馥郁とした味わいだった。
すべてを語り終えたのに、まだ心の中に硬い芯が残っている。
その芯が人の形をとろうとした時、となりで声がした。
洋一、そう凛が言っていた。
「いいかい? 人は一つしか心を持てない。 いくつに見えても、それは一つのおまえ自身なんだよ」
よくわからなかった。
見つめる洋一の視線を受けて、凛はまた笑顔を浮かべるとつづけた。
「迷いは迷いのままでいい。 胸に抱えるんじゃない、外に出して、その腕に下げていきな。 そうやって歩いてりゃ、いつの間にか別のもんに変わってるさ」
まだよくわからなかったが、なんとなく伝えたいことを受け取った気がした。
目の奥にそれをみたのだろう。凛は洋一を抱き寄せると、軽く背中をたたいてから手を放した。
あたたかなぬくもりと、やわらかい肌の香りにぼんやりとしてしまう。
だから自然と疑問が口から出たのだろう。
「かあさんはなんでまたもどってきたの?」
声が半ば凛花、そして幼子の口調になっているのに、洋一は気づかなかった。
くっと片方の唇を上に曲げ、凛が笑う。
女神のようだった笑みが、精悍な笑い顔に変わった。
「忘れ物をおもいだしてね」
それはなに?とまたたずねようとした洋一の前で凛が立ち上がった。
「つづきはまた明日。 今夜はもう寝よう」
寝間にいくと、押入れの中から布団を引っ張り出して、手早く凛は二つ並べて敷いた。
そして着替えもせずに、そのまま片方に潜り込んだ。
あっけにとられていた洋一が、しばらくして膝立ちで枕元ににじり寄ると、もう寝息をたてて凛は眠りの世界へと旅立っていた。
『なんでかあさんはこんなに軽やかに生きれるんだろう』
不思議におもいながらもうらやましくなり、洋一は子供の笑みを浮かべて眠る凛の顔を見つめ続けた。