静寂
時間を凛が帰国する前に戻そう。
警察から解放されたシンは、兄貴分の狂介がマル暴の刑事に挨拶している間に署を出て、駅へと向かっていた。
偶然がさせたこととはいえ、ああして自分の想いを凛花にぶつけてしまった以上、この街にはもういられない。
そう考えての行動だった。
言えてよかったと荷物を下ろしたような安堵感と、口にしてしまったことで空いた胸の穴の空虚さが、足を早めながらも身体を重くさせていた。
他にも様々なことが頭の中で渦巻き、いつもは姿勢よく歩くシンの背中を丸めさせ、顔をうつむかせてもいた。
所詮は届くはずのない想いだったのだ。
だが後悔はしていなかった。
兄貴を慕う気持ちが、凛花の美しさですり替わってしまったのかもしれない。
留置所の中でそう考えたりもしたが、そんなに単純なものでもないだろう。
積み重ねられた一つ一つが綾なしてできた想いなのだから。
先のことなど何も考えられなかったが、自分一人の始末などいつでもつけられる。
今はこの街を離れて、あの夜を抱いて、どこかでゆっくりと過ごしたかった。
「凛花さん・・・・・・」
小さくそうつぶやいた時、やわらかいものに右手を掴まれて振り返った。
穏やかなフェルメールの絵の中の光に似た夕日に染められて、火女がシンを見つめていた。
音楽も客もないあのバーへと連れてゆかれ、夜が更けるまで二人は何も語らず、
ただグラスを空にしつづけた。
そしてバーを出ると、誘いの言葉もないまま火女に手を引かれ、入り組んだ路地のどんづまりにある古びた建物の一室へ入った。
旅館なのかアパートなのかよくわからない、殺風景な部屋だった。
その中にシンは倒れこむと、湿りを感じるカーペットの上に身体を丸めて横になった。
火女はその後ろにあるベッドの縁に腰掛けて、外を見ながらジタンを煙に変えはじめる。
小さな窓越しから差しこむ、輝くネオンの明かりが、そんな二人を様々な色に染めていた。
数本のジタンが灰になり、乾いた牧草の香りがする白い煙が部屋に満ちた頃。
落ちそうで落ちない、酔いに浮かぶ眠りの岸にいたシンは、背中から火女の身体に包まれるのを感じた。
すぐにその上から白いシーツが膜のようにかぶさる。
乾燥した布と人肌の匂いが漂ってきた。 そして、熱い血のぬくもりが伝わってくる。
それがシンの瞼を閉じさせた。
火女は一言も口をきかず、ただ男の身体をその胸にかかえ、あたためつづけた。
頬に日の光りを感じてシンが目を覚ますと、それまで蓋っていた火女の身体が離れて立ち上がった。
寝転がったまま見送った彼女の背中が、音もなく開かれたドアの隙間に滑り込んだかとおもうと、閉じられて消えた。
----- ずっと・・・・ おきて、いたのか・・・・・・
それだけおもった。
南向きの小窓から差し込む太陽は、シンを照らしながら少しづつ動いてゆくが、思い出の中に埋没する彼の身体は、わずかにみじろぐだけだ。
白黄だった陽光が、やがてオレンジの黄昏に変わる頃、大きな買い物袋を両手にさげて火女が戻ってきた。
彼女は部屋の隅にあった小さなテーブルを出してくると、雑多なオードブルとアルコールをその上に並べた。
火女はシンにすすめるでもなく、自分一人でいるように、少しづつ肉や野菜の煮物を口にしてはビール、やがて赤ワインを飲んだ。
夕日が月にとって代わり、昨夜と同じネオンの火がともる中、街のざわめきから切り離された部屋の中で、火女はまたシンを抱き眠った。
そんな、物音しかしない日々が、三日に渡って続いた。
四日目の夜。脂じみて髭が伸び、前の面影がすっかりなくなってしまったシンが、干からびた口を動かした。
「・・・・・・なんでこんなことをする?」
長く出さなかった声は、ひび割れて聞こえた。
「お客だからね」
赤ワインを口にしていた火女は、そっけない物言いで、シンの方を見もせずにこたえる。
意味がわからなかった。
「娼婦じゃなかったのか?」
膝を抱えて座っていた火女が、クスッと笑う。
「そうよ、娼婦。 でもあたしはちょっと変わっててね。気に入った男の相手しかしないの。だからあんたは自分で決めたあたしのお客」
明かりをつけていない部屋は、原色のネオンのせいで、水槽のように感じる。
その水の空間の中、火女のグラスを持った手が揺れていた。
彼女の華奢な肩を、意外に思いながら、シンはぼんやりと見ていた。
そんな夢とうつつの区別がつかない時の中で、澱んでいた空気が消え、すうーっと何かが流れはじめたのをシンは感じた。
『なんだろう、この感覚は』
そう考えた時、横になっていた自分の唇に冷たいものが押し当てられて、びくっと身体が動く。
ゆっくりとなぞる火女の指につけられていたワインが、干からびた唇を潤すのがわかった。
苦く渋い酸味が、乾いた口中に少しづつ浸みて、ほんのりとした甘さに変わる。
甘味を感じた口が、別の生き物のように湿りを帯びて、生き返り始めた。
目を閉じてされるがままになっていると、口がよみがえったのを悟ったかのように指が離れた。
数秒の間の後、目の前に火女がきた気配がしたかとおもうと、頬を手のひらで挟まれ、口づけされた。
彼女の中で、とろりと暖かなものに変わっていたワインが、静かにシンの中に注がれる。
受け入れて喉を滑り落ちた赤い液体は、空っぽの胃を熱く照らした。
それから火女は、三日目と同じように、シンの背中を抱いて眠らせた。
日がすっかり高くなって目を覚ましたシンが、まだぼーっとしている間に火女はすばやく立ち上がって視界から消えると、すぐに湯気の立つ白いマグカップを手に戻ってきた。
横になった世界の中、それが自分の前に置かれるのを、じっとシンは見ていた。
コーンとミルクの甘く優しい香りを鼻先に感じた時、パタンとドアが閉じる音が聞こえ、火女が出て行ったのがわかった。
よろめきながら起き上がり、震える手でカップを包み込んで口をつける。
おだやかに揺れるポタージュの中に、一滴しずくが落ち、すぐに包みこまれて消えた。