紅椿 3
両手の指に二本の刃を握った瞬間、女装もしていないのに、洋一は凛花に変化していた。
この身体を、この肌を傷つけるなんて許せない。
腰を落とし、片ひざをついて、鳥が翼に力を溜めるように、両腕を後ろに引いて構える。
そんな凛花を見て、雄五郎がいぶかしげな眼をした。
----- 若が何かに変わった。 なんだこいつは?
さすがの老極道も、この変化は見抜けぬらしい。
声をあげればバレてしまう。
理性ではなく冷静な保身が、凛花の口元を引き締めた。
『さぁ、やっちゃおう・・・・・・ こいつはほんとの敵だから、切り裂いても大丈夫』
あの夜と同じ、危険な部分がそうささやき、そして雄五郎の殺気に反応して高まる。
止める者は誰もいない中、間合いに入られる前に、凛花の両腕が交差するように前に動いた。
左手の小柄が上、右手が下を狙って飛び、雄五郎の全身に集まる。
見切ってわずかな足さばきでかわそうそした時、飛んでいた小柄が上下の位置を急に変えた。
「! ・・・・・」
辛うじて二本を峰で弾いたが、残りに肩と足を切り裂かれ、雄五郎は口元をゆがめる。
その隙に、凛花が引き戻した小柄に向かって、中腰のまま前に駆け出す。
走りながら指の間に納めた刃を、雄五郎目掛けて真横に振った。
その腕を狙って上から落ちてきた刀を、左手の小柄ですりあげてかわし、その手で下段から斜めに薙ぎ上げ、後ろに駆け抜けた。
すばやく向き直った凛花の眼に、斜めに切り裂かれた雄五郎の背中が飛び込む。
切れて垂れ下がる、背広と白いシャツの隙間から刺青が覗いていた。
描かれた唐獅子の目玉が、凛花を睨みつける。
背を向けたまま、雄五郎は左手でネクタイを毟り取ると、ボタンごと引き千切って背広とシャツを脱ぎ捨てた。
ありふれた唐獅子牡丹の鮮やかな絵柄が目に沁みる。
だが何かが違う。 濃く赤い花弁が牡丹ではない。
それは真紅に乱れ咲く紅椿。
刀をだらりと下げたまま、ゆっくりと雄五郎が凛花の方を向く。
老侠客が、口の端を吊り上げ、にやっと笑ったのがわかった。
「俺ァ、先代に十九の時に拾われてすぐこの墨を背中にいれた。
牡丹の代わりにこの紅椿しょって、白れェもんも黒く飲んで、組に弓引く奴ァこの手でぜんぶ叩っ斬ってきたんだ。
大恩背負ったこの背中。 斬れるもんなら斬ってみなせえ!!!」
雄五郎の身に獅子が宿った。
無造作に間合いを詰めると、防御もなにもなく、雷のような一撃を上から凛花目掛けて叩き込む。
『受けても押し切られる!』
とっさに右に転がって避けた。
だがそれを狙って、槍のように切っ先が襲ってきて、凛花が転がる畳に穴を開ける。
必死で間合いを切った凛花は、ハァハァと荒い息を吐きながら、立ち上がった。
あの夜など比ではないくらい、物凄い速さで快感が押し寄せてくるのがわかった。
肩でつく大きな息遣いの中に熱い吐息が混ざる。
同じ歩幅で、滑るようにまた雄五郎の巌の身体が凛花へと向かってきた。
その手足を狙って小柄を飛ばす。
揺らぎもせず、切り裂かれながら、まっすぐに雄五郎は刀を振り下ろした。
手を突いて、右後ろに飛んでかわした凛花の目の前で、畳みに深く突き刺さった刃が明かりを受けて鈍く輝く。
激しい攻防をつづけながら、高まる快感の波に浸る凛花の胸のうちで、煙のように消えかかっていた理性が、懐かしいものを呼び覚ました。
大きく駆けて距離をかせぐと、凛花はまた始めの態勢に戻って腰を落とした。
幼い頃、こうしてこの男に庭で打ち据えられた。
苦く辛い思い出だったはずなのに、それが今、ひどくあたたかく感じられるのはなぜだろう。
こうして戦いながらも、自分に真剣に向かってきた者は、この男とあと一人だけ・・・・・・
想いはそこでぷつりと途絶え、エクスタシーへと昇る高い波がやってくるのがわかった。
小柄を挟んだ指から力が抜けそうになり、ぐっと脇を締めた。
だが全身は総毛立ち、小刻みに震えだす。
肩ひざをついたまま、うずくまって凛花はやってくる快感に耐えるしかなくなった。
その変化に気づいた雄五郎の目が、わずかにひるんだが、それもつかの間。
「おう!」
裂帛の気合と共に、刀が上段へと振りかぶられた。その時・・・・・・
「ちょいと待ちねェ!」
開け放ってあった入り口から、しわがれた男の斬るような声が響いた。
振り返った雄五郎と、その肩越しに視線を向けた凛花の目に、小柄な老人の立ち姿が飛び込んできた。
両腕を胸前で組んで、足を踏ん張り自分たちを睨んでいた男がまた口を開く。
「仕事だってェからきてみりゃ、なんでぇこのざまァよ。 斬った張ったで入れなきゃならねえ彫りもんなんざ、この世にねえぞ。 いいかげんにしろィ!」
吐き捨てるように吠え立てる男の背後に、すうーっと立った人影を見て凛花が洋一に戻った。
「かあさん!」
前に自分が着てしまった真紅のチャイナを身に付けた凛が、晩香玉の花のように艶やかに微笑んでいた。
「ちょいと雄さん。そのへんでやめときなィ。 彫玄のおじさんのいうとおりだよ。もう目的が変わっちまってんだろ、それじゃ」
パタパタと扇子で顔を扇ぎながら、凛乃の目が雄五郎を見、そして洋一の顔に移る。
刀を下ろすと、雄五郎は恥じるように斜めを向いてうつむいた。
彫玄は、つかつかとその脇を通り過ぎると、畳に転がっていた鞘をつかんで、雄五郎の足元にほおった。
凛もそばまで行くと、雄五郎から刀をもぎとって足元の鞘を拾い上げると、目も覚める鮮やかさで手を閃かせて中に納めた。
そして刀の柄頭で、トンと軽く雄五郎の胸を突いてささやく。
「まァ、あんたの想いもわかるけどさ。せっかくこうして帰ってきたんだ。後はあたしにまかせておくれよ」
「・・・・・・すいません、姉さん」
次に凛はしゃがみこんで洋一の方を向くと、蓮のうてなの上に座る菩薩の笑みを浮かべた。
「ひさしぶりだね洋一。 ちょいと見ない間におもしろい面になっちまってんじゃないかい」
「か、かあさん・・・・・・ フィンランドにいたんじゃ」
「ああ、あっちは籍があるってだけでね。ほとんどジュゼといっしょに世界中を転々としてんのよ。 ちょうど今はバンコクにいたから、顔見せにこっち寄ったってわけ」
伝法な口調を突然あらためてまた微笑むと、ポンと洋一の肩を叩いてから、肩越しに振り返る。
「彫玄のおじさん。 名人をこっち呼んどいて悪いんだけど、そういうことなんだよ。すまなかったね。 この埋め合わせはきちっとするから、今夜のとこはあたしの顔に免じて許しておくれな」
凛の言葉に、傲岸だった彫玄の顔が、皺の多い笑みに変わる。
「へへへっ。凛ちゃんにそういわれちゃこっちも何も返ェすお題がねェや。 あいよ。このままひっこましてもらうわ」
ちらっと雄五郎の方を見て、目配せしてから、凛は放心気味の息子の身体を抱えて立ち上がった。
その胸元から立ちこめる、夜来香の匂いをかいで、洋一の瞳が懐かしさと安心で潤む。
屋敷を出て門前に立つと、凛は止めてあったメッキグリルの古い英国車-----MG-Bの助手席に洋一を放り込むと、屋根のない車内を照らす月明かりの下を走り出した。