焦燥
イレギュラーズが結成されてしばらく経ったある夜、一軒の場末のバーにシンの姿があった。
客は彼ひとりである。
二日泊まりで他県で行なわれる会合に出席する洋一に、シンがついてゆこうとすると、
「おまえここんとこ休んでないだろ?たまにはゆっくり遊んでこい。組にも顔ださなくていい」
そう言われて、無造作に万札の束を渡されて置いていかれた。
放心して空港で二代目を見送りながら『そういえば兄貴が女装をはじめてから休んだことがなかったな』とぼんやりとおもった。
けれども、急にできた休日にシンはとまどった。
洋一の世話以外、やりたいことがないのだ。
ほぼ無趣味のシンが、わずかに気を惹かれるのが甘い物だったが、それも店まで出かけてというほどではない。
なので休めといわれても、やることがなかった。
はじめに考えたのが、この機会に雄五郎の周りを探ってみることだったが、組に顔を出すなといわれているので断念した。
しかたなく部屋にもどって念入りに掃除・洗濯などしてみたが、それも午前中に終わってしまい、後はすることもなく本を読んだり映画を観たりして時間をつぶす。
しかしそれもすぐ飽きてしまい、ごろりとベッドに横になると目を閉じた。
すると、すぅーっとまぶたの裏側に凛花の顔が浮かんできて、あわてて目を開く。
だが一度浮かんでしまったその顔は、もう消えてくれなくなった。
----- なんだ? なんで俺はあの人のことなんか思い出しているんだ?
焦りながら寝返りをうつうちに、右手がシャツの胸ポケットに伸びそうになって、あやうく手を止める。
このまま部屋にいては危ない、そうおもって、シンは急いで起き上がると、ネクタイを締めずにスーツを羽織って外へと出た。
所在無く、行くあてもないまま、街を彷徨っているあいだも、凛花の顔が脳裏をよぎり続け、彼を悩ませる。
あるときはナース。そしてネコ耳。
そしてチャイナにレディパイレーツと、凛花は次々とその姿を変えては、シンの頭と心を翻弄する。
『シン!』
凛花が自分を呼ぶ声が聞こえてきて、シンは路上で固まった。
彼女が自分の名を呼ぶはずがない。これは己が造り出した幻の声・・・・・・
そう気づいたときシンは、自分は気が狂ってしまったのかと愕然とした。
----- 凛花さんは兄貴なんだ。 そして兄貴は男なんだ! ありえない、それだけはありえないッ
きつく目を閉じて耐えた。
だが身体が震え、額には汗が浮かぶ。
一度大きく傾き始めた心は、彼をどこかへと連れて行こうとしていた。
それを止めるために、シンは目の前にあったバーの扉を押し開けたのだった。
「お兄さん・・・・・・ かなり飲んでるけど、ぜんぜん酔えないみたいだね」
かすれた声が聞こえてきて、シンの意識が現実に戻った。
声がした方へ目をむけると、いつの間にか隣に女がひとり座っていた。
カウンターの上に頬をあずけ、バーには不似合いな猪口を手にこちらを見ている。
「憂さ晴らし・・・・・・ってわけでもなさそうだし、普通に悩んでる感じでもなさそう」
頭の中を覗かれた気がして、シンがおどろいて目を開く。
女は徳利をつまんで酒をつごうとしたが、中が空なのに気づき、舌打ちしてそれを高く掲げて振った。
カウンターの内側にいた、見事な白髪をオールバックに撫で上げた口ひげのマスターが無言で徳利を受け取ると、足元から一升瓶を取り出して詰めようとする。
それを見て、女がぼそりとつぶやく。
「コップにして。 このお兄さんの分も」
やがて、何の変哲もないガラスコップに波々とつがれた日本酒が、受け皿にのせられて二人の前に置かれた。
「飲んでよ」
いつもなら他人からの酒など丁重に断るのだが、今夜のシンはやはり少しおかしかった。
何も言わずに黙礼すると、コップを掴んで、縁から酒がこぼれるのも気に留めずに、一息で飲み干してしまった。
酷く甘ったるい安酒だった。
となりでは女が組んだ腕の上にあごをのせて、ちびちびとコップの中身をすすっている。
シンが音を立ててコップを受け皿に戻すと、マスターの手が伸びて、また酒が満たされた。
三人とも一言も口を利かず、ただ酒と時間だけがなくなってゆく。
その静寂に包まれているうちにシンは、自分がほんの少しだが落ち着き始めたことに気がついた。
ふと視線を感じてとなりを見ると、うつぶせで顔をこちらに向けていた女と目が合った。
にやりと彼女は笑うと、そのままの姿勢でいった。
「マスター。 そろそろ出してもいいよ」
ロマンスグレイのマスターが、今度は足元にあったアイスボックスの中から一升瓶を取り出す。
栓を抜いた瞬間、シャンパンやダージリンのファーストリーフに似た、みずみずしい芳香が立ちのぼり、おどろくシンの鼻をくすぐった。
慎重な手つきで、マスターはその酒を新しく出してきたコップに注ぐと、指で静かにカウンターの方へと押し出した。
出された酒を口に含んで絶句する。
濃い米の旨味が口中を満たし、次に得も知れぬ華麗な香りが鼻へと抜けたのだ。
さきほどの安酒とこれが、同じ日本酒だとはとても思えなかった。
「浦霞の大吟醸・・・・・・ これは一気に飲まれちゃ嫌だからとっといたの」
『また読まれていた!』
シンの心臓がびくりと大きく波打った。
自分より少し年上。二十代のどこかだろう。
ゆるいウェーヴのかかった赤茶けた髪を、そっけなく垂らしている。
きつそうな眼が印象的だった。
その眼を見た時、なぜかシンはデジャヴを感じた。
彼女は見られていることなど気にも留めず、無表情で浦霞を舐めている。
その姿に気後れして、声をかけそびれてしまった。
シンがまた前をむくと、ふたたび静寂が訪れた。
顔を少しうつむけて、薄明るい照明の中、揺れるコップの中身を見つめながら味わって酒を飲んでいると、マスターがパイプを取り出して火を入れた。
浦霞とは違った芳香と煙がコップの上をゆっくりとよぎり、二人のあいだを漂う。
それを嗅ぐうちにシンは、普段は吸わない煙草が欲しくなってきた。
すると、さーっとテーブルの上を滑って、ジタンの箱が目の前で止まった。
しばらくそれを見つめていたが、また女に黙礼すると、一本取り出して口にくわえる。
ボウっと隣でマッチの火が点り、少し間を空けてから近づいてきた。
身体を寄せてそれを受けると、ゆっくりとジタンを吸い込んだ。
硫黄の香りがきれいに飛ぶまで待ってから、自分のところへと持って来た女の仕草をみて、シンはさっき感じた擬似感の訳がわかった。
人の考えることを先読みして動く。 そこが自分と似ているのだ。
そう感じてしまうと、めったに他人に興味を示さないのに、つい口が動いていた。
「冴島 心と言います。 失礼ですがお名前は?」
「あたし? あたしは、ひめ」
「姫・・・・・・」
「燃える火の女と書いて、火女」
おそろしく古風な名を口にして、火女は燃え尽きたマッチの軸を灰皿に投げ入れた。
話はそれで終わりとでもいうように、またカウンターの上に身体をあずけて、ちびちびと酒を飲み始める。
その素っ気無さが今はありがたい、そうシンはおもい、前をむくとジタンをふかした。
マスターの吐き出す濃い煙のヴェールに、自分の煙が絡み合うのを見ながら、コップに手をやり、一口飲んだ。
飲むほどに香りと旨味が強くなってゆく、そう感じる。
この人はどんな仕事をしているのだろう。
少し崩れた空気をまとっているので、はじめはこちらサイドかとおもったが、立ち振る舞いを見ると品がある。
かといって普通のOLとか水商売のように、女っぽいものは感じない。
「あたしは娼婦・・・・・・」
またシンの心を読んだ火女がつぶやいた。
絶句してしまった気配を気にせず、口調も声を変えずに、彼女は言う。
「男の望みを身体でかなえてやるのが仕事・・・・・・ 最近は援交だのなんだのってきれいな言葉で飾ってるけど、やってることは昔と同じ・・・・・・ だからあたしは娼婦、いつもそういってる」
素直なのか投げやりなのかわからない台詞に、めずらしくシンがとまどっていると、急に火女がこちらに顔を向けた。
その姿を見て息がとまった。
さっきまでの男っぽいスレた空気はかき消されたようになくなり、息苦しいほど美しい女がそこにいた。
酔って幻覚を見ている、そんな気さえするほど妖しく変化した火女が、溶けるような優しい声を出した。
「今は必要ないみたいだけど、もしあたしがいるならまたここに来てよ」
火女はそういうと、怠惰な猫のようだった身体に力をみなぎらせて立ち上がると、するりとシンの後ろを抜けて、出口へと歩き始める。
ドアの前で、一度片手を上にあげてヒラヒラと舞わせてから、彼女はバーから出て行った。
あっけにとられるシンの目の前で、マスターが同じ姿勢でパイプを燻らせていた。