綾乃 1
結局その夜はそれから何事も起こらず、中央公園の一角に住んでいる人たちのところを訪れて酒や食べ物でねぎらうと、そのあと大宴会となり終わった。
翌日の午後まで眠ってから、洋一はいつものように夕方に組事務所に顔を出した。
自分のオフィスへと行こうと足を進めていたら、さっと横合いからシンが出てきて耳打ちする。
「おはようございます兄貴。・・・・綾乃姉さんがお見えになってます」
「え?」
「お部屋の方にお通ししてますので」
「・・・・・・」
なんの用だ、とは思わなかった。
----- このタイミングでやってきたということは・・・・・・
ダラダラと洋一の顔に黒い幕が下りてきた。
その顔を、昨夜の一部始終を見ていたシンが、痛ましそうな目をして見つめている。
----- 兄貴・・・・・お可哀想に。玲の奴、もっとうまい誤魔化し方はなかったのかっ
そう己が妹を恨んではみたが、綾乃と洋一の双方に顔を知られているので出るに出られず、物陰で一人やきもきしていた自分にその資格は無いと悟って、口を強くつぐんだ。
がちゃりとドアを開けると、デスク前のソファーに腰掛けた綾乃がこちらをむいた。
昨夜とは違って、落ち着いた菖蒲柄の和服をしどけなく着ていた。
すばやくいつもの爽やかな笑顔を作って声をかける。
「おう、綾乃、めずらしいな、事務所に来るなんてよ」
「おひさしぶりね、洋ちゃん。ずいぶんとご無沙汰だったから、ちょっとのぞきにきたの」
とろりとした声と笑みを浮かべて彼女が答える。
だが言葉の影には、ちくっとトゲがあった。
----- なーんだ。最近連絡してなかったから、いやみ言いにきただけかも
少し明るい気分になって、洋一は彼女の向かいに座ると、煙草に火をつけた。
『あれ、そういえばシンがいないな』と思っていると、綾乃の声がした。
「ここのとこちっとも顔を見せてくれないから、てっきりあの真子とかいう子のところかと思ってたけど・・・・・・」
顔を何かチクチクとしたものが刺してきたが、百戦錬磨の彼はいっこうに動じず、さてなんと言い訳しようかと余裕をもって考えていたところに、すぅーっと幽霊のように次の言葉がきた。
「まさかあんなおいたして遊んでたなんて・・・・・・」
煙草を口にしようとしていた手が止まる。
そんな彼の変化を楽しそうな表情で眺めながら、おっとりとした口調で綾乃はつづける。
「気づいてないと思った?」
「え、なんのはなし?」
「あらあらおとぼけ?おっほほほほ」
口に手を当て、ころころと上品に彼女は笑う。
「かわいく化けてたわよねぇ。いっしょにいたあの娘の仕業かしら? でもこの綾乃の目をあんまり安く見てもらっちゃ困ります」
「・・・・・・」
「何度もこの肌で感じてきた、洋ちゃんの顔と身体ですもの、すぐにわかったわ」
そういって白い指を和服の袂に揃えてみせる。
やがて固まってる洋一の腕へと手を伸ばすと、煙草を奪って自分の口に含み、うまそうに目を細めて煙を吐き出した。
「まぁ、他の子のところじゃなかったから安心したけど・・・・・ ちょっとああいうことになった事情を聞きたくってこうして顔を出しました」
にこりと妖艶な笑みを浮かべて足を組む。
裾から美しい足がこぼれて、それがさらに凄まじい色気を醸し出した。
「話してもらいましょうか・・・・・」
柔らかいが拒否は許さぬ口調だった。
こちこちと壁に掛けられたアンティークな時計が時を刻む。
洋一から奪った煙草を吸い終えた綾乃は、西陣織の巾着からセーラムのメンソールを取り出すと、しなやかな指で一本つまみあげて火をつけた。
爽やかなミントの煙が二人の間をゆっくりと漂い始める。
5分、10分
洋一は『シンが現れないか』とか『電話が入ってこないか』とか期待していたが、一向にその気配は無い。
「えっと、ちょっとこれから仕事が・・・・・・」
「今日の予定はシンちゃんから全部聞いてます。急ぎの仕事が無いってこともね」
言葉を途中でさえぎって、綾乃はさらりとそういった。
15分、20分。
二人の周りはまるで時が止まっているかのように、物音一つ聞こえてこない。
「そだ! コーヒーでも飲みながら・・・・・・」
「大丈夫です。話が終わるまで誰もこの部屋に入らない・・・・・ 電話も取り次がないように頼んでおきました。 あ、そうそう。携帯は切っておいてね、洋ちゃん」
「・・・・・・」
25分、30分。
じれる洋一とは対照的に、どんどんと綾乃の腰はすわってゆく。
事がはっきりとするまでこの女は千年でもここにこうして座っていそうだ、そう錯覚してしまうほど、堂に入った居座りぶりであった。
そして一時間が経過した。
洋一は自分の煙草を吸いきってしまい、灰皿に目を落とす。
そこにセーラムの吸殻は2本しかなかった。
フィルターに口紅の跡を残さない、たしなみのある吸い方に感心しつつ、テーブルに置いてあった彼女の煙草の箱にそろりと手を伸ばしたら、華奢な指が箱を上から押えた。
おもわず見上げると、そこにはにこにこと微笑む綾乃の顔。
「話が終わってから・・・・・ねっ?」
洋一はまたがっくりと顔をうつむけた。
ふぅーっと息を吐いて、彼女は困ったような顔で、最後の追い討ちをかけた。
「それとも・・・・・雄五郎さんに聞いた方が早いかしら」
なぜか自分と仲の良い老極道の名を口ずさんで、くすりと笑う。
完敗であった。
かくして洋一は誠に不本意ながら、己の女装癖を綾乃に白状することになった。
他の彼女たちならいざ知らず、綾乃にはどんな言い訳や色仕掛けも通用しないことを、彼はよく承知していた。
この街No1の称号は伊達ではないのだ。
全てを聞き終えた綾乃は、へんな大汗をかきながらうつむく洋一を前に、「ほほほっ」と楽しげに笑った。
「洋ちゃんはいずれこんなことになるんじゃないかって思ってたけど・・・・・ まあゲイとかバイじゃなくってよかったわ」
そして今度はいたずらっ子の目になると、
「そういうことなら、この綾乃も協力させてもらいます。今度はもっとうまく、もっと綺麗に化けさせてあげるわ。おーっほほほほほほ」
そう高らかに宣言すると、手の甲を口に当て、甲高い声で笑い出した。
えっという顔をする洋一を見つめながらまたいう。
「なかなかうまく化けてたけど、まだまだよ。やっぱり高校生くらいのキャリアじゃ、まだあのくらいのもんよねぇ。でも大丈夫。今度はこの綾乃がお手伝いするから。本当の女ってものを魅せてあげるわっ!」
また口に手を当てて笑い始めた彼女を見ながら、『こいつ、本当は玲に対抗心燃やしてるんじゃないか?』と疑う。
しかし次から次へと自分の秘密を知る者が増え、そしてその人物たちがことごとくその秘密を大きくしていっているような気がしてきて、洋一は身震いした。
玲といい綾乃といい、彼の女装癖を叱責せず、かえって煽るようにそれに参加しようとしているこの二人。
実は彼女たちも普通ではなかったのだが、またやってきた新しい厄災に怯えるこの男には、それがわからないのであった。