僕が彼女を初めて見たのは、
いや、
その光景に初めて遭遇したのは、
夕暮れ時の図書館でだった。
その日、
会社が休みだった僕は、
家でのんびりダラダラと過ごし、
夕方になってフラリと近所の小さな図書館へ出かけていった。
もう少しだけ足を伸ばすと、
最近できたばかりの近代的な図書館があるのだが、
僕は近所のその小さな図書館が気に入っている。
その小さな古びた図書館の中は、
一年中ひんやりとしていて、
薄暗い。
そのせいか、
本も心なしか湿っぽくしっとりしている感じがする。
特に読みたい本があったわけでもないので、
内容も確かめず、
ただ表紙に惹かれただけの雑誌を手に取り、
僕は奥の大テーブルへと進んでいった。
僕がこの図書館を好きなのは、
この大テーブルがあるからだ。
この大テーブルの置いてあるこの部屋は、
天井が高く、
とても広く、
僕はこの部屋へ入るといつも、
まずは深呼吸をするのだった。
薄暗さに、
圧迫感を与えられることもなく、
僕にとっては、とても居心地のいい空間だ。
僕がこの図書館を気に入っている理由はもうひとつある。
それは、
利用者が少ない、ということ。
天井が高く広いその部屋の大テーブルに僕だけ、
という日は少なくない。
でも、
その日は、
ひとり、
女性の先客がいた。
何かの本を熱心に書き写している。
僕は、
その女性から離れた端の方に座った。
(だってテーブルは広いんだし、僕ら二人だけなのだから。)
低めのゆったりとした椅子に深々と腰掛け、
静かに深呼吸をしながら、
天井を見上げる。
黒々とした梁に歳月が感じられる。
そして、
ゆっくりと目の前の大テーブルに目を移す。
天板が厚く、がっしりとしたテーブルだ。
年月を経た光沢が僕を魅了する。
ひとしきりくつろいだところで、
僕は手にした雑誌を開いた。
特に読むでもなく、
ゆっくりとページをめくる。
ふと、
どこかで声が聞こえた気がして僕は顔を上げた。
なんだろう。
気のせいかな。
その時また聞こえた。
あの女性だ。
何を言っているのかはここからでは聞き取れないし、
実際、大きな声ではない。
ただ、
何かを絶え間なく呟いているのだ。
小声でずっとぶつぶつ言っているから耳についたのだろう。
念仏か? お経か?
そして、
相変わらず、
熱心に書き写している。
真剣そのものだ。
それにしても熱心だなぁ。
なんて言ってるのかな。
しばし、ボンヤリと見つめてしまって、
我に返る。
ま、いっか。
さて、帰ろう。
僕はその女性を横目に見つつ、
図書館を後にした。
翌週、
僕は、
いそいそと図書館へ出かけた。
期待通り、
彼女はやはりそこにいて、
やっぱり何かを呟きながら、
熱心に書き写していた。
僕はパッと目に入った本を手に取ると、
彼女の近くに座った。
本に視線を落とし、
読んでいるふりをしながら、
僕は彼女の動向に全神経を集中した。
「ご・・・・た・・が・・・・・・い。
ごし・・・・・・・・・・・・き・・・。」
彼女の呟きは、
小声なので途切れ途切れにしか聞き取れない。
では、
熱心に書いているそれは何なのかと、
そーっと横目で観察してみる。
本をじっくりたっぷり見つめては、
傍らのスケッチブックに書く。
少し書いては手を止め、本に目を移す。
そして、たっぷりと見入ったあと、
また書く。
僕はその動きを見て、
模写でもしているのかと思った。
が、違った。
彼女は文字を、
『描いて』いたのだ。
文章をただ書き写すのではなく、
文字ひとつひとつを丁寧に『描いて』いるのだ。
5センチ四方くらいの大きさで。
意表をつかれた。
彼女は熱心に描き続ける。
呪文をぶつぶつと呟きながら。
気がついたら僕は彼女に話しかけていた。
「ねぇ? キミ……。」
彼女がゆっくりと顔をあげ、
ゆっくりとこちらを見る。
ここで初めて僕は、
彼女の顔を正面から見ることになる。
熱心に描いている横顔の彼女の目は真剣で、
表情は覇気に満ちていたが、
真正面から見る彼女は、
色白で儚げなひとだった。
僕の顔に焦点が合うと、
ちょっと小首をかしげ、
話しかけられたのは自分だろうか、という顔をした。
急に眠りを妨げられた人のように、
心ここにあらず、という感じだ。
「ねぇ、キミ、
そんなに熱心に何の本を見ているの?」
まだボンヤリしたまま、
彼女はまた少し首をかしげ、
ゆっくりと本へと目を落とす。
そして、
そろそろと本へ手を伸ばし、
ゆっくりと手に取ると、
表紙をこちらへ向けて寄越した。
ミルトンの失楽園。
「へぇ〜。
それで、
なぜその本を書き写しているの?」
彼女は、
「え……?」
と言ったきり目を伏せてしばらく考えていたが、
やがて目を上げると、
また少し首をかしげて、
「表紙が素敵だから……。」
と言った。
「ふふ、そっか。
そしてキミは何をずっと呟いているの?」
すると、
彼女はいまやっと眠りから醒めたように、
ハッとした顔をすると、即座に、
「わたし、うるさかったですか……?」
と僕にたずねる。
「いやいや、そんなんじゃないよ。
ただ、ずっと同じことを呟いているようだから、
何の呪文かなぁ、なんて。」
彼女は、
目を伏せると、
すまなそうに、
「すみません……。」
と言った。
「いやいや、かえって僕の方こそごめん。
変なことを聞いて。
うるさくもないし、
僕は全然気にしていないから、
どうぞそのまま続けて。
ごめんね。」
「わたし……、
ゴシック体がきらいなんです……。」
「え?」
「わたし……、
ゴシック体がきらいなんです……。」
聞こえなかったと思ったのか、
彼女はもう一度同じように同じことを言った。
「あ、いや、ちゃんと聞こえたんだけど……。」
どういうこと?」
「ゴシック体がきらいなので、
明朝体で描いているんです……。」
「ゴシック体が……。
ちょっと見せてもらってもいいかな……?」
彼女の返事も待たず立ち上がると、
僕は彼女のそばへ寄る。
そして、
彼女の傍らから、
スケッチブックを覗き込んだ。
大きさがマチマチの文字がそのスケッチブック一杯に描かれていた。
それは……、
文字というよりむしろ、
ひとつの「絵」のようだった。
そして、
その文字は、
いわゆる「明朝体」ともまた少し違っていて、
その文字ひとつひとつが、
美しかった。
僕は言葉もなくただその「絵」に見入っていた。
「……あの……。」
「え? ああ、ゴメン。」
僕は、ほぅっと大きく息を吐いた。
「キミ……、すごいね、これ。
すごいね、キミ……。」
僕は彼女の傍らの椅子に腰掛けた。
彼女は何も言わず、ぎこちなく微笑んでいる。
「……、
でもなぜこういうのを描こうと思ったの?」
僕はまた同じ質問をした。
彼女は、
ゆっくりと首をかしげ、目を伏せると、
「……表紙が素敵だから……。」
と先ほどと同じ答えを呟いた。
「ふふふ、そっか。
じゃあ、なぜ、ゴシック体がきらいなの?」
彼女はゆっくりと顔を上げ、
何かを考えるように、
視線を遠くへさまよわせた。
やがてまたゆっくりと僕へ視線を戻すと、
「つまらないから・・・。」
と答えた。
「つまらない? なるほどね。
僕もゴシック体はきらいだよ。」
「きらい……?」
「うん。」
「そうなんだ……。」
と言うと、
彼女はニコッと嬉しそうに笑った。
笑った彼女の顔はとても素敵だった。
ちょうどその時、
図書館の係員が閉館を告げに来た。
僕らは立ち上がると、
連れ立って図書館を出た。
「キミ、家はこのへんなの?」
「ハイ。」
「僕もすぐ近くなんだ。
送っていくよ。」
「ありがとう。」
道すがら、僕らはいろいろと話した。
といっても、
彼女はものすごく口数が少ないから、
もっぱら僕が質問して、彼女がそれに答える、
という感じだったが。
彼女の家までの10分ほどの間に、
僕は、
彼女の名前が風子―フウコ―ということ、
両親と一緒に暮らしていること、
きょうだいはいないこと、
体が弱くて学校へはあまり行けなかったこと、
体が丈夫ではないので勤めには行っていないこと、
いま24歳だということ、
を知った。
彼女の家の前に着き、
僕は最後の質問をした。
「来週も図書館へ行くの?」
フウコは微笑みながら黙って頷いた。
「じゃあ、僕も行くよ。」
フウコはニッコリと笑うと、
また黙って頷いた。
笑顔のフウコはやっぱり素敵だった。
このまま来週まで会えないのが寂しくて、
僕はフウコに携帯電話の番号を聞いた。
「必要がないから、持っていないの……。」
フウコは申し訳なさそうに答えた。
「そっか、残念。
それじゃあ、また来週!」
軽く手を上げると、
僕はフウコに背を向けた。
少し歩いてから振り返ると、
フウコはまだ家の前で見送っていた。
僕はまた手を振った。
フウコも手を振り返してきた。
翌週、
また僕はいそいそと図書館へ向かう。
この一週間、
どう過ごしてきたのかよく覚えていない。
とにかくこの日が待ち遠しくて仕方がなかった。
フウコはもう来ていて、
相変わらず呪文を唱えながら「絵」を描いていた。
僕は本を一冊選ぶと、
彼女のそばへ行き、
その隣へ座った。
「やあ、久しぶり。」
フウコは顔を上げるとニッコリと笑った。
僕らは閉館まで、
ほとんど喋らず、
それぞれの趣味に没頭した。
こうして、
僕とフウコは、毎週、図書館で会うようになった。
そんなある日、
いつものように、
フウコが「絵」を描いているのを横で眺めていた僕は、
「ねぇ、フウコ、僕の名前を描いてよ。」
と言った。
フウコは手を止めると、
怪訝な顔で僕を見る。
「名前を……?」
「うん。
そしてそれを僕にくれよ。
額に入れて部屋に飾るから。」
フウコはなぜか困惑した表情のまま黙って僕の顔を見ている。
心なしか悲しげにさえ見える。
僕はおかまいなしに続けた。
「ね、描いてよ。
僕の名前は、
タカギ ゲン。
高い低いの高に、樹木の樹、ゲンは弦楽器の弦だよ。」
フウコは悲しげな瞳の色で僕の顔を見つめたまま鉛筆を差し出すと、
スケッチブックの新しいページを差し出し、
「ここに書いてくれる……?」
と言った。
「どうしたの? フウコ?」
フウコは鉛筆とスケッチブックを差し出したまま、
相変わらず悲しげに僕を見つめている。
「フウコ……?」
アッ……!
僕は気付いた。
そうか、そうだったのか……!
フウコは字が……。
「ゴメン、フウコ、ごめんね……。」
「いいの……。」
フウコはふっと表情を和らげると微笑んだ。
「貸して。スケッチブックと鉛筆。」
僕は、
スケッチブックと鉛筆を受け取ると、
フウコがするように、
明朝体で大きく「愛」と描くと、
フウコの顔へ顔を寄せた。
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