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傘を広げて
作:沙堂 瑠々亞


 渡ろうとしたのに、横断歩道の信号は赤になっていた。
 この信号を渡って左に曲がれば、家に着く。慌てて駅に行こうとする朝と違って、帰り道はこんな間の悪い時でも許せてしまうから、不思議だ。
 私は傘の柄を右肩に乗せながら、曇天の空を見上げた。ぱらぱら降るのは小糠雨というらしい。服が少ししっとりとするのを覚悟であれば、傘を差さずにでも帰れる細かい雨だ。それでも傘がある以上、私は広げて雨を避けている。
 信号が青になった時だった。歩き出そうとして、見知らぬ影が横を通り過ぎていったのに気が付いた。信号待ちをしていたのは、てっきり私だけだと思っていたのに。 
 私は傘を上にずらして、斜め前を見た。
 ――影だと思ったのは、スーツを着た男性だった。小糠雨に降られて、ジャケットがところどころどす黒く染まっている。髪の毛も濡れ羽色に光って見えた。…どうやらこの人は傘がないまま家へ帰ろうとしているらしい。
 その斜め後ろの顔をちらと見ただけで――誰なのかちょっと解ってしまう自分が居た。
 肩をすくめながら歩く癖がまだ直っていない。石ころを蹴飛ばすみたいに、爪先を少し上げながら歩いている。手持ち無沙汰の時には そうやってポケットに手を入れる。相手が変わっていないのがおかしくて、自分が気付いてしまったのがおかしくて――声を掛けずにはいられなかった。
「ハンギョウくん」
 先を歩いていた誰何が、名前を呼ばれて振り返る。ああ、やっぱりと思った。
 横断歩道の向こう側にたどり着いた後、私はためらいもなく傘を差し出す。
「家遠いんでしょ。少しくらい入れたげるよ」
 ハンギョウくん――荻行 人誠。ハンギョウ ヒトセと読むその四文字は、一見読みやすそうでたいそう読みにくい名前だった。
 中学に上がりたての頃、隣の席になったのが彼だ。活発な少年は その名が示すとおり人に誠実で、いつも皆が周りを取り囲んでいた。ムードメーカーで、誰かが一人でいると気さくに話しかけてきて、スポーツの試合には必ず活躍する目立ちたがり屋で、でも日常どこか抜けている少年だった。 
「なんだ。まだこっちに居たのかよ」
 傘を差し出した私に合わせてくれたのか、彼は持ち柄を受け取ると、自分も中に入ってきた。
 横断歩道の信号機の前でふたり立ち止まり、傘の下 話をし出す。
 十年越しの再会なのに、久しぶり、の一言もない。だけどそれが私たちらしかった。
「大学は寮だったんだけどね。就職先はこっちにしたから、実家暮らし」
 ハンギョウくんは?と返すと、俺も似たようなもんだ、と答えてきた。彼は今、塾で専属講師をしているらしい。大学時、都内の名門学院で教育実習をして、ちゃんと教員免許も取ったのだそうだ。
「お互い前から実家に戻ってたか。近くなのによく会わなかったなあ」
 偶然の再会を驚く彼に、私は合わせた。
「近いからこそ案外会わなかったのかもね。じゃあ今日の偶然は小さなキセキってことで」
 嘘だ。
 本当は、何度も彼の後ろ姿を見ていた。中学を卒業したばかりの春休み、高校に上がってしばらくした日曜日、大学が休みの時に帰ってきた日、入社式の帰り、……何度も彼を横断歩道で見送っていた。声が掛けられずにいた。過ぎ去った過去を、呼び止めるのが怖かった。
「お前も変わってないよな」
 私の返し方を聞いて、彼が微笑んだ。近くに居るのに、思い出を懐かしむような遠い目をしていた。
「なに言ってるの。私もうおばさんだよ」
「おい、それなら俺だって年食ったってことになるだろうが」
「大丈夫。ハンギョウくんも前と変わってないから」
 今度は嘘を吐かなかった。
 あの時から 彼は少しも変わっていない。
 いや――確かに変わっていた。身長も伸び、色黒で精悍な顔付きになった。髭を伸ばし、笑うときに皺が生じ、硝煙の匂いも纏わりつかせていた。性格も、まさかあの時の純粋な少年のままでいるはずがないだろう。
 それでも、どんなにあの時から時が経っていても、私には中学生の時の彼が映っていた。
 あの時の幼い彼が、同じ仕種をして、同じ喋り方で私と話していた。
「まあ、こうやって話しててもラチ明かないしな」
 そうして 最初に会話を打ち切ったのは、彼だ。
「お前ん家は左だったっけか」と、左の方角を指して 自ずから傘の元を離れていった。
 左右に分かれた道を歩いていくと、それぞれ住宅街に繋がる。
 左の道に進んだ住宅街の一角に私の家があることを、彼は未だ覚えていたらしい。
 貸そうか、と聞いたけれど、相手は首を横に振った。返す見込みねぇだろ、なんて言われ、尤もだと納得する。
「じゃあ、また何処かで会ったら」
「うん。また何処かで会えたら」
 次に会うのなんて、約束をする宛ても意味も、必要も なかったから。
 振り返ることもなく彼は右に歩き出した。再び濡れ始める彼の髪。ますます濡れ羽色になっていく後ろ姿。
 その後ろ姿を見送りながら、いつかの放課後を思い出していた。
 あの時もさらさらと降る小糠雨だったように思う。
 生徒玄関で、急に降ってきた雨をぼうっとして見ていると、部活帰りの彼と鉢合わせした。
 なんだお前、帰れねぇの? …男友達にするのと同じように、彼は笑って話しかけてきた。
 すっと傘を差し出される。どうしていいか戸惑っていた矢先、雨模様の鉛色の世界が、ぱっと紺色に変わった。
 彼が紺色の傘を目の前で開いてみせたのだ。ワンプッシュ式の傘は、羽根を一気に広げ、本来の形になった。
 貸してやるよ。明日、絶対返せよな。 
 今でも覚えている。あの雨の日、無理やり渡してきた彼の傘の柄が温かかったこと。幼かった彼が照れていたこと。走り出す彼の背中を、茫然として見送ったこと。
 その背中を、私は何度見てきたのだろう。あの時は、伝えられないばかりに。今までは、過去であるばかりに。雨というきっかけがなければ、私はきっと、さっきの瞬間も声を掛けられないままでいた。
 それなら今日は、雨に感謝すべき日だろうか。
 奥に引っ掛かっていたものを取りだして、いまいちど懐かしむ日だろうか。
 ……だったら今日は、私も濡れて帰ろう。
 広げていた傘を閉じて、私は彼から背を向けて歩き出した。濡らしていくは、雨。雨。小糠雨。


例えば君を、想った日。切なかった日、区切りをつけた日、懐かしむ日。













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