笑う千円札。
【概要】
千円札に感情があったら。
「あんにゃろチクショウ! 調子乗りやがってクソがぁッ!! 」
「一体どうしたというのですか。冒頭から罵詈雑言なんて、気持ちのいいものではありませんよ……?」
「そうでござるよ新入り殿。とりあえず落ち着いて、事情を話すでござるよ」
とある長財布に収められていた千円札2枚の元に、新たな千円札が一枚。引っ越し早々、ひと波乱の予感がよぎる。先住民の二枚は、その唯ならぬ殺気に紙先を震わせる。だが内心、それ以上に好奇心が疼く二枚。今か今かと告白タイムを待つこと数秒、ついに怒りの主は溜まるに溜まった鬱憤を撒き散らし始めた。
「一万円はそんなに偉いのかぁ!? お?! 」
「なんだ、そういうことでござるか。」
「散々議論され続けてきた議題ですねわかります」
「....ッ!? なっ、なんだよその態度はよぉ....! 」
好奇心という輝きを帯びていた瞳は、あっという間に死んだ魚の目へと様変わり。そのあからさまな白けようは、新入りのイライラを促進させるに十分だった。だが、それを分かっていながら言わずにはいられないと言った様子で、火に油を注ぐ先住民。
「ハァ…… 見たところ貴方は、体に折り目一つない新品そのもの。さしずめ発行され流通されて1週間といったところでしょうか。よかったじゃないですか、貴方は社会の洗礼を受けたのですよ。おめでとうございます」
「あぁん?! なんだとコノヤローッ!! 」
「まぁまぁ双方落ち着いて。ハニー殿も大人げないでござるよ。」
「ちょ、まさかハニーって僕のことですか? どうしてそうなったんですか、気持ち悪い」
「記番号の下3桁が821でござるッ!」
「それなら数字で呼ばれた方がマシです。そんな名前、断固拒否させて頂きます」
そう言うなり、新入りはニヤリと不敵に微笑んでみせた。その心はもちろん、先ほどの責め苦という名の嫌がらせへの、仕返しだ。
「んじゃあしばらく厄介になりますぜ、ハニーちゃん!」
「....ッ! 貴方と言う札は…っ」
「もー! だから落ち着くでござる!! こんなやりとりしても、鬱憤が溜まるばかりでござるよ。一体何があったか、吐き出してスッキリするでござるよ」
落ち着いた声色で諭され、新入りは少し自分を恥じる。このコミュニティーに入ってきていきなり最悪な態度をとったにも関わらず、なお話を聞こうと言う彼が大人に見えたのだ。それに比べて自分は敬語のヤツに言われた通り、ガキそのものじゃないか…と。頭の冷えた新入りは、謝罪を入れる。
「あー… 悪かったな、サム」
「拙者のことは、『サムライ』でいいでいいでござるよ?」
「いや、アンタ番号の下二桁、36じゃん。『ライ』なんかねぇよ。」
「『ライ』は心の目で見るでござるッ!! 」
「呼び方なんてどうでもいいじゃないですか、下らない。いつまでそんな非生産的な会話を繰り広げる気ですか?」
「へー、どうでもいいんだ。」
「へー、どうでもいいんだ。」
「あっ」
沈黙。
敬語クンの名前がハニーちゃんで確定したようだ。さて、自己紹介という雑談も一区切りついたところで、新入りが話を切り出した。
「確かにお前サン達の言う通り、俺ぁ流通してそんなに経ってねぇ。でもなぁ、あんまりだと思ったんだよ……」
そう呟く新人は、目の錯覚なのか紫色の霧を纏っている。さっきまで怒鳴り散らしていた様子とは一変、陰鬱とした空気が漂う。唯ならぬ気配を感じた2枚は、紙が縮み上がる思いで、続きを聞く覚悟を決めた。
「なんか…深刻な様子でござるな。」
「余程ひどい洗礼を受けたのですね……」
新入りはなかなか口を開かない。いや、開けないのだ。それだけ彼が心に受けた傷は深いものだった。それを察知した先住札は、黙って彼の様子を見守る。やがて、新入りはうつむき加減にぼそりと語り始めた。
「お年玉ってあるだろ? ガキんちょ共にとっちゃあ一大イベントだ。俺ぁ、その主役として封筒に入れられ、とある『兄弟』の『弟』の方に手渡された。そりゃあドキドキしたぜ? どんなふうに喜んでくれるのかってな。でもな……」
「先が読めたでござるッ!? そっ、それ以上傷口をファスナーで引っ掻き回すのは止すでござるよ!! 」
「僕が言いすぎましたごめんなさい」
「……いや、最後まで喋らせてくれや」
「だから先は読めたでござる....!」
「僕が言いすぎましたごめんなさい」
それ以上喋ったら吐くぞ……? と脅しになっていない脅しを体全身で表現する先住民。だが、続きを聞くことを拒否する彼らを華麗に無視して、新入りは気持ち悪いほど落ち着き払った声で言った。気のせいだろうか…新入りの夏目漱石が、悟りを開いたかのような眼で空中を見つめている。
「そのガキは言った。『なんでボクは千円なんだよ!? 兄ちゃんなんか1万円も貰ってるじゃんか!! 不公平だよ、変えてよ! ねぇ、早く変えてよ!! 』……と抗議が炸裂すること10分。親戚のおばちゃんは観念して財布から1万円札を取り出し、代わりに俺がこの財布の中に。で、今ここ。」
「…ぼヴぉえぇ……」
「ひどい話です。我々が3枚寄ってたかろうが、1万円には敵わない…… これが現実なんですよ」
葬式のように沈痛な空気が財布を満たす。大気の重力が、5倍も10倍も跳ね上がったようだ。それに押しつぶされまいと、新入りは必死に、呻くように呟いた。
「そりゃあっ…、そりゃそうだけどさぁッ! んな言い方ないじゃねぇかよ!」
「これ以上に言葉が替え用がないほど、揺ぎようのない真実ということです」
「.....っ!」
「ですが――」
「「・・・??」」
どう足掻いても覆せやしない筈の残酷な現実に、反語を言ってのけるハニー。そこに、一万円などには自分たちは負けないという、ハニーの強い意志を感じさせた。
「最初に言ったでしょう? これは散々議論され続けてきた話題だと。僕達は、1万円などに劣等感を抱く必要などないのです。これからもっと多くの場所を旅するであろう貴方に、僕から1つ前向きになれる考え方を教えましょう」
不意に降り注ぐ、一筋の光明。それにすがりつくように、この後に発せられるであろうハニーの言葉に、彼らは耳をそばだてる。
「くどいようですが、『価値』という観点において、我々は勝つことなど出来ません。だがしかし、『価値が高い』ことが我々にとって幸せかというのは、一概には言えないのです」
「なんだよオイ、詳しく説明しろや。」
「考えてもみてください。例えば、賄賂で1000円を渡されたらどう思いますか…? 苦笑されるか、ふざけるなとパイプを切られるでしょうね。借金取りだって、1000円程度では殴り込みに来ません。金の貸し借りであっても、1000円なら友人関係が多少もつれても、民事訴訟や刑事訴訟まで発展することはまずありえません。そんな人間共の汚い泥沼から一線を引く『綺麗なお金』、それが私達なのです。」
「おぉ、ハニー殿ッ! なんて前向きな見識をお持ちか!」
「なるほどな…… 確かに俺達は『綺麗なお金』だ! 1万円に生まれなくて良かったと思えてくるぜッ!! 」
雲の隙間から見えていた光明は、完全に彼らを照らし出した。ポジティブな発想に、完全に息を吹き返したのだ。しかし、彼らはすぐに気づく。先ほどの議論とは関係ない、新たな問題に。
――彼らを照らしだす暖かい光。これは、比喩ではなかったのだ。
頭上を見上げると財布のファスナーが開かれた。そこから覗かせたのは、例の親戚のおばちゃんが手土産と思しき和菓子の詰め合わせを、カウンターの若い女の子に手渡す瞬間だった。店員の声が飛ぶ。それは、ようやく打ち解け始めた彼らには、残酷な言葉だった。
「1480円になります」
彼らは凍りついた。今現在、財布の中に入っている紙幣は彼ら3枚のみ。経験則から、例の金額を硬貨のみで支払う人間は、ほんの一割にも満たない。この中の誰かが、確実に、消える。
おばちゃんの太い指が、容赦なく財布に伸びる。そうして掴まれたのは――
「あっ! ハニー殿おおおおおッ!! 」
「ちょっと待てやぁぁ! 行くな、行くんじゃねえぇ!! 」
挫けそうな心を支えてくれた恩人の姿が、みるみるうちに小さくなっていく。取り乱し、叫びまくる2枚。だが、ハニーは己の運命を受け入れ、実に落ち着きはらって別れの言葉を告げるのだった。
「少しの間でしたが、楽しかったですよ。自分という存在意義を見つめ直す、いい機会になりましたし。それに――」
ハニーは不意に、微笑んで見せた。それは優しさで溢れるような、だがどこか自嘲しているような……そんな微妙な表情だった。彼は新人にチラッと目をやると、また視線を外して言った。
「新人さんの様子が、最初の自分とあまりにも似ていたんですよ。きっとどこかで投影していたのでしょうね…… だから貴方にイライラしてしまったんだと思います、ごめんなさい。ですが、だからこそ僕は貴方に千円に生まれてきたくなどなかったと言って欲しくない。千円には千円の良い所が、いっぱいあるのですから――」
「ハニー殿おぉぉ! ありがとうでござる! どうかっ、どうかお元気で!」
「もう俺ぁ卑屈になったりしねぇから! アンタの言う千円の良い所、一杯見つけてやんよ! そんときゃあ、また喋り合おうや!! また会おうな、ハニー先輩ッ!! 」
その声はもう、聞こえているのかすら分からない。レジの中にしまわれたハニーの代わりに、つり銭を取る音が聞こえる。それがハニーの残り形見だと思うと、いたたまれない気持ちになった。この世には、数えるのも億劫になるほどの1000円札が流通しているのだ。また会おうなどと言ったものの、そんな保証など、無いに等しい。恐らく、これが今生の別れになるだろう――
――誰もが、そう思った。
「恐れ入ります、1580円頂戴致しましたので、こちら100円のお返しでございます」
「えぁ? ちょっと待ちなさいよアンタ! 私、5580円出したのよ?! 」
「え、あの…ですが確かに1000円札を頂戴いたしましたが…」
「ふざけんじゃないわよ! 私の言うことが信じられないの?! 何なの?! まるで私が泥棒みたいじゃない! 侮辱罪よこんなの! なんなのよもう…」
「えっ?」
「はい?」
親戚のおばちゃんが屈辱の形相で涙をこぼし始める。その迫真の演技は、残された2枚がハニーは5千円札だったと錯覚するレベルである。その迫力に気圧され、どうしたら良いかわからず硬直する販売員。彼女はあたりを見渡すも、どうやら同僚は休憩中なのか、それとも最初から一人だったのか、従業員は彼女以外に誰も居ない。見るからに弱気そうな彼女は、半泣きになりながらレジを開いた。
「え、これってまさか……」
「あのババァ…やりやがった....ッ!」
「大変申し訳ございませんでした、こちらのミスです…… こちら4100円のお返しでございます。本当に申し訳ございませんでした…」
「ホントにもう、気をつけなさいよぉ!! 本社に訴えるところだったわ!!」
「大変申し訳ございませんでした……」
「フンっ!」
そう言って、親戚のおばちゃんは乱雑に紙幣を受け取ると千円札を4枚、財布にしまうのだった。見ない顔は3枚。見知った顔を持つ最後の一枚はもちろん――
「おっ、おかえりでござるハニー殿……」
「よ、ようッ!! あの、まぁ…… 元気出せよ」
奇跡の再会を果たしたハニーの表情は、恐ろしいほど…無表情だった。自分の生き様を全否定され、己の芯としていたものをくじかれたのだから仕方がないといえば仕方がない。かける言葉が見つからないまま、ハニーは冷笑の中に毒を交えながら、言い捨てた。
「そうでした…僕達は所詮、金。この世に『綺麗な金』なんて、……存在しないのですよ。」