* 湊真がおなかにいる頃…9月の物語/サイト開設around5th-year記念作
extra 写真 -ローズヒップタイム-
九月最後の日曜日。暑いという言葉は聞かなくなってきて、朝夕は昼間よりもう一枚、上着が必要になる。もっとも、今日は風もあまりなく、暖かい昼間だというのにもかかわらず。
「優歌、どうだ、寒くないか」
お決まりのセリフに一言以上、いまは余計に付属してくる。
午後になって車で遠出してきた森林公園は、林のなかだけでなく遊歩道も木陰が多いけれど、心地いい温度が保たれている。実際のところ、今日はのんびり歩いているというのに、立ち止まれば背中がぽかぽかして汗ばんでくるくらい天気がいい。
「匠さん、だから大丈夫ですよ? 妊婦ってあったかいんです。石川先生にも聞きましたよね?」
匠は黙りこんだ。なんとなく心配が後悔に変わっていくのがわかる。悪かった、とかいう謝罪が口に出されるまえに優歌は続けた。
「羊水の温度が高いから、例えば、匠さんがわたしのことを抱いて眠ってくれるときと同じです。わたしはずっと赤ちゃんを抱っこしてるようなものですよ。もしかして匠さんは暖かくないですか?」
匠はゆったりと立ち止まった。優歌も合わせて足を止めると、匠は黙りこんだままであるものの、雰囲気はなぜかからかうような様に変化する。
なんだろうと思って、優歌は自分が云ったことを反すうしてみる。すると、取りようによっては酷く大胆なことを口にしたと気がついた。同時に匠は意味深な含み笑いをした。
「確かに暖かいな」
「もういいです」
即座に応じると、今度は笑い声になった。
「寒いかどうかは別にして疲れてないか」
「ちょっと重たくなっておなかも張るけど、美里さんと同じで普通のことだから。こんなふうに散歩しないとぶくぶく太ってしまいそう」
出産予定日まで三カ月を切って、もうまもなく妊娠八カ月に入る。一カ月予定が早い美里は動くのがだんだんと億劫になっているという。
「ほんとにふたりで転がるって?」
以前に自分が云ったことを持ちだした匠の口調は微妙におもしろがっている。雰囲気もそうだし、声音にもだんだんとリラックスした表情が見えてきた。
お見合いじみた日から、匠と接することが苦手じゃなく好きになっていった。伴って、匠の発言も他意のない、それどころか大切な言葉にさえ聞こえるようになった。優歌からかまえた気持ちがなくなったせいだと思っていたけれど、それは匠も同じなのだ。そして、いまはそれ以上。
一時期、ふたりの関係が危ぶまれたこともこういうことに繋がってくれたのなら、結果オーライなのだろう。かといって、匠を少なからず傷つけてしまったという、優歌の後悔は消えることがない。
「匠さん、酷いです」
「丸っこいのもいい」
冗談か本気か、見上げた匠は口もとに笑みを浮かべて付け加えた。
そんなに太ったわけじゃないのに。優歌は云い返すかわりにつかんでいる匠の小指を握りしめる。懲らしめたつもりがビクとも反応しないで癪に障らなくもない。お喋りじゃないのに達者とはどういうことだろう。
それから会話はほとんどなく、木々の間から漏れる光のなか、緑のグラデーションを楽しみながら奥へと散策した。
歩くペースが遅いからずいぶんとほかの人たちに追い越される。休日で快晴のせいだろう、子供からお年寄りまでと人は多い。公園の中央口から三〇分くらい歩いたあと、植物園のエリアに入ると花壇が開けた。
「なんだかいい香り」
「向こう側にはハーブ園があるらしい」
匠は花壇のさきにあるハーブショップのほうを指差した。
「あのお店、寄りませんか。ハーブティ飲めるって」
「ああ。休憩にちょうどいい」
外まで漂ってきていた香りは、店のなかに入るといっそう深くなって癒される。
店内はカフェとアロマ雑貨やハーブの土産店とで半々に分かれていて、外よりいちだんと人が多く、カフェはかろうじて一つだけテーブルが空いていた。
試飲コーナーでそれぞれにいくつか飲んでみて気に入ったものを注文すると、それから五分過ぎたくらいに店員がトレイを携えてやってきた。
「お待たせしました」
「これ、売ってますか」
優歌が二つのティカップをそれぞれに指差すと、店員はにこやかにうなずいた。
「ええ、ございますよ。ただ、タイムは乾燥したものだと飲みにくいんですよ。これは生を使ってますから美味しくいただけますけど」
「そうなんですか」
「でも、ブレンドすれば飲みやすくなりますから。例えば、このローズヒップにハイビスカス、それからカモミールあたり。お砂糖なんかの甘味料を加えても。オリジナルでお試しになったらどうでしょう。試飲コーナーでお申し出いただければできますよ。どうぞご遠慮なく。たまに“何これ?”って相性悪いこともありますけど」
店員はおもしろ可笑しく付け加えて去っていった。
「美味しい。匠さん、飲んでみます?」
優歌は一口だけ飲んで自分のカップを差しだした。匠が受けとる間にもローズヒップの甘い香りが立ちこめる。匠は少しだけ口に含んだあとカップを優歌に返した。
「優歌っぽいな」
「どういうこと?」
「甘い香りがするけど、飲んでみると酸っぱさが残る」
「……だから、どういうことですか」
「ふわふわの見かけを侮ると痛い目に遭う」
匠は首をひねってからかった。一方で、優歌は顔を曇らせる。すると、匠まで表情を陰らせてため息をついた。
「悪気があったわけじゃない。あれはあれでいいんだ。口が過ぎた」
優歌が“後悔”と結びつけたことを悟ったらしい。優歌もまたため息をつく。
「そんなことで匠さんが謝るなんてどうかしてます。悪気があるとか一度も思ったことありません」
「一度も?」
「……あ、えっと……結婚の話が出るずっとまえは思ってたかも」
責めるような突っこみに優歌が正直に答えると、今度はなぜか楽しんでいるように匠は声に出して短く笑った。
「いい感じだ。おれも気にしてない」
よく意味がわからない。ただ、その和んだ面持ちは優歌に伝染する。首をかしげて匠が自分のカップに口をつけるのを見守った。
「タイムティはどうです? ちょっと香りが変わってるみたい。シャキッとする感じ」
「喉にいいらしいけど、少し苦い。どっちにしろ優歌は飲めない」
匠は先回りして優歌の思惑をさえぎった。それはメニュー表のせいに違いない。ハーブの効能がそれぞれ明記されていたが、タイム茶は注意書きで、妊婦の場合は医師に相談とかなんとか書いてあった。匠は『大量の常用は』という一文を無視している。
「飲まなくてもいいですけど、絶対に自然分娩です」
とうとつに話を逸らして、断固として主張してみた。案の定、わずかだが匠の眉間にしわが寄った。そして不快そうに黙りこんでしまう。
出産方法については、優歌にとって目下の難題になっている。どんな知識を得ているのか知らないが、匠にとって自然分娩は最大の危険因子らしい。帝王切開にしろ、傷の痛みとか、けっして躰の負担にならないわけではないのに。
ふとした会話のなかでそんな話になって以降、押し問答が続いている。そんなときはいまみたいに不必要に黙りこむ。優歌が違う話題を持ちだして話しかけても、ぶっきらぼうとさえ思える相づちが返ってくるだけだ。それでも譲る気はないし、怒った雰囲気になるのももとはといえば優歌の躰を心配してのことだ。怖れることは何もない。
それに、別の観点からすれば、そういった不機嫌さを見せてくれるのも進化だ。
ケンカ――というには大げさだけれど、そういうことがあっても家族として同居している以上、眠る場所は当然ながら同じ屋根の下で、そんなとき、ベッドのなかで仲直りができるのはきっと夫婦の最大のメリットだ。
そう思うと優歌のくちびるに笑みが宿り、それを見た匠がため息をついて優歌はまた笑った。
飲み終わったあとは店内を見てまわり、実家へのお土産も含めてハーブティとアロマバス用のエッセンシャルオイルをいくつか買った。いくつかというより盛りだくさんだ。混雑するなかうろうろする優歌をかばっていた匠は、はちきれそうに詰まった紙袋を呆れつつ取りあげてから、入ってきたほうとは逆の出入り口へと向かう。そのさきにはハーブ園が広がっている。
優歌は、ゆっくりとした足取りで行く匠のあとを追った。すると、日光のもとに出たとたん、眩んだような感じがする。念のため立ち止まってみるとなんともない。
また心配かけてしまう、と慄いた優歌はほっとした。また歩き始めて数歩め。
「優歌」
呼びかけながら振り向いた匠を見た刹那、その胸の高さにかまえたカメラが目に入った。次には、撮ったと云うかわりに軽くカメラが掲げられる。油断大敵と思っているのに、いつも優歌はすきだらけだ。
「匠さん、見せて!」
「優歌、走るな」
走っているわけではなく、足早になっているだけなのに。そう思った直後、やっぱりさっきと同じ感覚に襲われる。加えて、躰がきつくなった。
匠とはそう離れていたわけではなく、傍にたどり着くなりその腕をつかんだ。園内にところどころベンチが置いてあるのが目につく。
「匠さん、座っていいですか」
それだけで鋭く察したらしい匠の顔が心配に陰る。
「歩けます!」
かがみかけた匠を素早く制した。そこまでくらい大丈夫、と続けると、尊重してくれたのか、匠はうなずく。優歌の腰に手を添えて近くのベンチにつれていった。座ってほっとしたものの、極度の疲労感を覚えてどうにも耐えられない。
「横になっていい。つらそうにしてる」
「はい」
匠の支えを借りて躰を倒すと頭をその腿の上に預けた。優歌がいらないと云ったにもかかわらず、匠が持ってきたストールが肩から腿までを覆う。そのまま匠の左腕が守るようなしぐさで優歌の躰にのった。
ほっと落ち着いたことと情けないことが相俟って、優歌の大きく吐いた息は震えた。
「泣くことじゃないだろ」
「泣いてません」
即答すると、空を向いた耳の上のほうから匠のくぐもった笑い声が降ってきた。
それでまた安心した。
疲れがたまるのか貧血なのか、以前にも二回あって、そのときは慌てた匠も慣れたんだろう、否応なしで病院に行くとは主張しなくなった。
「明日、病院に行きます」
優歌のほうが率先してそんなふうに云うからかもしれない。いまも匠は、そうしたほうがいい、と答えるだけでそれ以上は何も云わない。
優歌は躰から力を抜いて目を閉じた。しばらくすると、だんだんとらくになっていく。すべてが遥か遠くからのように聞こえていた人の声も遠近感が戻ってきた。
目を開けて横になったままハーブ園を見渡すと、そのわずかな動きがわかったようで、匠が声をかけてきた。
「どうだ」
「よくなってきました」
「もう少し休んでいく」
「はい。……匠さん、こういうこと、わたしだけじゃありませんから」
「云いたいことが違ってそうだな」
その声はどこかあきらめたようにも聞こえた。匠は優歌の具合が悪いとへんに譲歩する傾向にある。いや、優歌にとってはへんではなく好都合だ。決着はいまかもしれないという打算が動く。
「不必要な医療行為って躰に負担になるんですよ。最後の手段でいいと思います」
「一端だ」
「だめですか。もうあと三カ月だし、手術が怖くてストレスになりそう」
ストレートに云ってみると、匠はこれまでになく深くため息をついた。
「条件がある」
やっぱり譲歩案が出た。
「なんですか!」
勢いこんで問いかけると苦笑いが降ってくる。
「立ち会う」
思いがけなかった。優歌は首をまわして匠を見上げる。
「でも……」
「何?」
ためらった優歌を匠が促す。なんとなく匠のほうがきつい思いをするんじゃないかという想像がつく。
「手伝ってもらってばかりだから、出産くらい独りでがんばりたいです」
「ストール、持ってきて正解だっただろ」
会話はまったく咬み合わないけれど云いたいことはわかる。
出産までまだ三カ月。優歌の意向は通ったことだし、説得する時間はある。とりあえずいまは良しとしよう。
「匠さん」
「何」
「匠さんてタイムみたいですね」
「どういうことになる?」
「きりっとしてなくちゃ気がすまなくて苦言が多いから」
はっ。
匠が短く吹いた。優歌もくすくす笑いだす。すると、お決まりで――。
「たく――っ」
止める間もなく、匠が上半身をかがめながら優歌の頭を抱えるようにして、それから匠のくちびるが優歌のくちびるをかすめた。恥ずかしくて周りは見ないことにする。
「動けないときにずるいです」
「ずるいのは優歌だ」
いま、それは否めない。
「タイムはローズヒップをブレンドすると飲みやすくなるかもって、うれしい感じです」
「けど」
「わかってます。産むまでは飲みません」
「……“苦言”、やっぱり多いな」
匠がうんざりしたようにつぶやいて優歌は可笑しくなる。
実を云えば、それも楽しんでいる――と打ち明けるのはずっとずっとあとにしよう。
また耳を空に向けて、優歌はこっそり笑った。
- The End. - Many thanks for reading.
コメント(非公開)にご利用ください⇒ JunaiJouleメッセンジャー 返信はこちらにて
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