狼男の伝言ゲーム(前)
榎沢里奈は、ただのクラスメイトだった。
バレー部に所属していて、そこでは目立った活躍をしていたけれど、その性格というのは、正直目立つようなものではない。
一年生のときに、同じクラスになった。
自己紹介をするときに立ち上がった彼女は、男子の平均身長を超えていたから、野次が飛んだ。顔を真っ赤にして、そのしなやかな体躯とは反対に、小さな声でぼそぼそと話す彼女だけは、覚えている。
でも、それだけだった。
だから、三年になって、また同じクラスになったときも、立ち上がった彼女を見てようやく気付くだけ。彼女の一緒にいる女友達は、一様に、小さく着飾ったこが多かったから、余計に目立ったのかもしれない。
休み時間も、真面目に、体育館に足を運ぶ。バレー部の練習だろう。これも、自分で気付いたことではなくて、彼女の勤勉さを謳うクラスメイトの声が、耳に入ったからだった。
そのうち、進路を決めなくてはならない時期になり、彼女が、バレー部の推薦を受けて、市外の大学への合格を決めたと耳にした。
そうか、と納得した。
真面目で、勤勉で、暗いわけではないれど、目立つところのない、彼女。
そういうやつの方が、人生っていうのは、上手くいくのかもしれない。
自分の進路も、もちろん、決めた。彼は、学校の成績は、悪い方ではない。というか、あんまりそちらの方面で苦労をしたことがなかった。運動も出来るし、勉強も苦にならない。人付き合いで悩んだこともないし、自分の将来を憂いたこともない。毎日は楽しくて、このまま、自分の人生は楽しいままなのかと思っていたぐらいだ。
そういう自分は、最近、戸惑っている。
と、いうのも、かの榎沢里奈が、推薦を蹴ったと聞いたからだ。
そのあと、どういう進路を選んだのかは、知らない。そこまで、仲良くないからだ。もちろん、話せない人間などというのは存在しないので、彼女とも言葉を交わしたことはある。だが、そこまで踏み込んだ話をするには、榎沢里奈は「お堅く」、そして「真面目」すぎた。
進路を、土壇場で変えてしまった榎沢里奈は、進路だけでなく、その性格さえも変えてしまったみたいだ。
よく笑うようになった。
馬鹿笑いというのではない。ただ、笑顔が、目につくようになった。気付けば、笑っている。
物怖じを、しなくなった。前などは、二言目には謝って、瞳を伏せていたというのに。発言が増えれば、その分、その言葉が耳に入ってくる確率も高くなる。
その声はあくまでも爽やかで、存外に、はっきりと物を言うのだと知った。
そして、彼は思った。
オレは、これでいいのかと。
そんなことは、これまでの人生で初めてだったから、驚いた。戸惑った。動揺した、と言ってもいい。
これでいいのか。
そんな心の声が聞こえてくること自体、想像の範疇を超えている。
揺れ動く自分の心を持て余したまま、数日が過ぎる。じりじりと迫ってくる期限日のようで、眉に皺を寄せることが増えた。
どうしちゃったんだ?
自問自答してみる。そんなことさえも、初めての体験だ。
「どうしたの?」
声をかけられて、目を上げれば、かの榎沢里奈が眼前に立っていた。
「お、おお、榎沢」
「何か、眉毛に皺が寄ってるよ?悩み事でもあるの、反田?」
名前を呼ばれる。
「いや、何でもないよ。それよりさ、榎沢」
本気で心配してそうな榎沢里奈の目が、いたたまれない気持ちにさせる。居心地の悪い感じから抜け出そうと、彼は話題を逸らすことにする。
「何で、推薦、蹴っちゃったわけ?良い大学だったんだろ?」
「うん」
にっこりと、笑う。清々しいそれに、思わず目を細めたくなった。
「ちょっとね。気付いちゃったこととかが、あって」
「なに?」
「秘密」
結局、答えてはもらえなかった。半ば、本心で尋ねた質問だったのだが。
「え?何、それ。真面目に言ってんの?」
「いや、だからさ。あたしも、初めは信じられなかったんだけど。そういう、噂があるっていうのは、本当みたいだから」
クラスの女子から、榎沢里奈に関する噂を聞いた。
曰く。彼女は、ここ、粂里高校に代々伝わる話に手を出したのだと。
その話については、彼も承知のことだった。
曰く。粂里高校には、夜間部というものが存在し(そんなものが存在しないのは、周知の事実なのだが)、そこでは、自分の欲しいものが手に入るという。願いをきいてくれる存在がいるらしいとのことだが、そこは眉唾ものだ。と、いうのも、この世知辛い現代で、見返りなしに、そんな面倒臭いことをする、酔狂な人間がいないと知っているから。もちろん、その相手が、人間でないのならば、また話が違ってくる。しかし、人間以外の存在って、何だ?という話になるので、それはまたそれで、眉唾もの。
どうやら、榎沢里奈は、そこに出向いたらしい。
どこから、そんなことが広まるのかは知らないが、反田はそれに興味を持った。
昔から、気になったら、すぐに行動に移すタイプだった。
というわけで、今、反田は、件の夜間部を訪れていた。
夜の学校に侵入するなんて難しいのでは、というのは杞憂だったようだ。誰の不注意か、一階のトイレの窓が開いたままになっていた。そこから、体をスライドさせるようにして、反田は大した苦労もなく、校舎へと足を踏み入れていた。
上履きに変えるべきなんだろうか、とか思ったりもしたが、面倒臭いので、その思考を無視する。
最上階にある、使われていない歴史資料室。
そこで、どうやら、その夜間部とやらは活動をしているらしい。
おかしい話ではないか。夜間部、と銘打つのならば、少しは学業への関心を見せても良い。なのに、歴史資料室とは。あんな小さな部屋で、一体、何の授業をすると言うのだろうか。
まあ、深くは考えないでおくか。
その部屋は、予想以上に簡単に見つかった。しかも、警備員にも見つからずに、だ。楽観的な反田の予想を超える、というのはつまり、ものすごく簡単だった、ということになる。警備員の仕事は、警備ではないのかもしれない。
取っ手に手をかける。
さすがに、少しどきどきした。
押しても引いても開かない。引き戸かと思って、スライドさせようとしたけれど、それも徒労に終わった。
「ここまできて、こんなオチかよ」
呟いて、扉に背をつけて、座り込んだ。
正確に言うと、座り込もうとして、扉に吸い込まれた。
言葉にすると、明らかに胡散臭いが、それが一番正確な描写だったりする。
「え、うわ、うわわわわわ」
両手を虚空にばたばたと突き出して、そのまま、後ろに傾いた。ごん、と後頭部を床に打ち付ける。
くわんくわん、と頭の芯でタライが回るような金属音がする。
「いってぇ……」
涙目になってしまって、それが、一人だと言うのに恥ずかしかったので、目をごしごしとこすった。
「ようこそ」
「!」
指で覆った視界の上から、声が聞こえてきて、びくっとする。指を外せば、こちらを覗き見る顔があった。
真っ黒。それが、そいつの第一印象。髪も黒けりゃ、目も真っ黒だ。しかも、着ている学ランまで真っ黒だ。その中で、真っ白い肌や、やけに赤い唇なんかも目につくことはつくのだが、圧倒的に記憶に残るのは、その黒すぎる黒。
「誰だよ」
「粂里高校夜間部、生徒会長を務めています、不知火六花です」
「まじかよ」
「まじです」
黒い生徒会長は、何故か嬉しそうに微笑んだ。
使われてない割にはさっぱりと片付けられているその部屋で、反田は黒生徒会長と向き合っていた。ご丁寧に、机が一台、椅子は二脚ある。机を通して椅子を向かい合うように並べて座ると、まるで教師との面談のようだった。違うのは、どちらも学生だということだ。といっても、相手が学生なのかは、甚だ怪しいものだが。
「それで」
いつまでたっても、にやにやと微笑んだまま、何も言おうとしない黒生徒会長にしびれを切らして、反田が口を開いた。
「ああ、汐藍。ありがとう」
しかし、黒生徒会長は、反田の方には見向きもしないで、明後日の方向へ頷きかける。この部屋には、自分と彼以外、いない筈。訝しんで振り返ると、いつのまに居たのか、一人の小柄な少年が立っていた。手には、マグカップのふたつ乗った盆。
ビーグル犬の耳くらいたれた目をした少年は、人なつこく、反田に微笑みかける。
「こんばんは」
「こ、こんばんは……」
あまりにも自然なその挨拶に、どこから現れたのかとか、どこからその飲み物を持ってきたのかとか、色々突っ込むことも忘れて、素直に挨拶を返してしまう。
「粗茶ですが」
新妻の微笑みでそう言うと、たれ目少年は、ぺこりとお辞儀をする。そして、すうっと消えてしまった。
「えええええ!」
大声を上げて、ついでに立ち上がって、反田は全身で驚きを表現したのだが、黒生徒会長は一向に意に介さない。どころか、反田のそんな挙動を、興味深そうに眺めているだけだ。
「今の、やつ、さ」
それだけを必死で絞り出す。
「空生汐藍。会計です」
「あ、ああ、そう……」
そこじゃないんだけど。
「どうぞ」
完璧すぎて虫酸が走りそうな笑顔で、たれ目少年が置いていったマグカップを勧める。ほんのりと湯気を立てるそれは、このトンデモ部屋において、唯一、見慣れた、そして期待通りのものだったから、反田は安心してそれに手をかける。
さて。
どうして切り出せば良いのだろうか。
マグカップの中身は、何の変哲もない、ただの日本茶だった。ますますもって、どこでいれてきたものなのか、理解に苦しむ。ここは、最上階。家庭科室はこの階下だが、この部屋からは随分と離れている。何より、ここへ入るには、どうやったってあの扉を通って来なければいけないわけだから、気配をまったくさせなかったどころか、あの少年は物音さえ立てなかったということになる。それは、まさか、もしかして、例の噂の、ありえないとは思うが、あれだろうか。その、人間じゃない、とかっていう。
なんてことを考えて、心の中でじっとりと嫌な汗をかいていたから、黒生徒会長のにやにや笑いに気がつかなかった。それが、自分を至近距離で見つめていたことにも。
「な、何すか」
相手の年齢は分からないし、年上には見えないのだが、年下にも見えない。黒目の多い、その大きな瞳が、いやに威圧的で、ついつい先輩と話すみたいになってしまった。いかんいかん。もっと、普段の自分でいないと。見くびられるだろう。
「反田将矢。粂里高校普通科、三年C組。成績優秀、運動神経も良いので、多方面からの部活動への誘いが絶えないが、本人は三年間、部活動には属せず。ついこの間の進路相談では、市外の国立大学への推薦入学を希望した」
絶句する反田に、尚も張り付いた笑みを深くして、黒生徒会長は小首を傾げる。
「ですよね?」
「だ、誰なんだよ、あんた」
「僕は、不知火六花。それ以上でも、それ以下でもありません。とにかく、今宵のお客様は、反田さん。あなたです。僕のことは、ええと、こういうときは……」
すらすらと話していたかと思えば、その細い指を唇にあて、考え込む。
「思い出しました。僕のことは、棚に上げてしまいましょう」
「?あ、ああ……」
使い方が、違う気がする。
「それで?」
黒生徒会長は、依然、毛穴を観察出来そうなくらいの近距離のまま、反田に何かを促すように言う。
「え?」
何のことか分からずに、聞き返すと、
「ここへ、何をしに来られたのでしょう?」
「そ、それは」
頭をフル回転させて、反田は考えを巡らす。
「その前に、質問が、ある」
「ええ。なんなりと」
「ここは、自分が欲しいものを見つけられる場所だと聞いた。間違いは、ないか?」
「なるほど。今は、そのようにして、人間の口では呼ばれているのですね。こういうのを、何と言うのだったかな。尾ヒレに肩ロース?」
「尾ひれ背びれがつく、だろ」
「そう、それだ。ありがとうございます」
粛々と、頭を下げられた。いや、どういたしまして、と口の中で呟いたのだが、聞こえただろうか。
「その、尾ひれ背びれがついてしまっているみたいですね。元々、この夜間部というのは、僕が設置したものなんです」
「だよな。だって、粂里に夜間部なんて存在しないから」
「はい。でも、夜間部は、存在していましたよ。ずっと昔から。あなた方人間には、迷惑をかけないようにと、なるたけ接触を少なくしてきましたから、気付かれなかったのも、無理はないと思いますが」
またしても、意味の分からないことを言われる。眉根を寄せ目を凝らして、聞き直すジェスチャーをしてみたのだが、どうやら伝わらなかったらしい。反田の仕草に、目を見開いて喜んだ風に笑うと、黒生徒会長は、また語り始める。
「ここでは、あなたの望むものが、ひとつだけ手に入ります」
「ひとつだけ?」
「はい。ひとつだけ」
「何でも?」
「はい。何でも」
「いくら、するんだ?」
「はい?」
「だから。その、願いとやらをさ。叶えてもらうには、払わなきゃいけないわけだろう、お金とかさ。いくらかかるんだって」
「ああ、そういう意味ですか。ええ、それは、一銭も頂きませんよ」
「嘘くさいなあ」
「でも、本当の話です」
「本当かよ」
一人ごちるように言うと、笑顔のままの黒生徒会長は、懐からおもむろにメモパッドとボールペンを取り出した。反田の存在をまったく無視して、そこに何かを書き込む。
「ちょっと。何やってんだよ、それ」
思わず声をかけてしまった反田に、ゆっくりと瞬きを二回すると、黒生徒会長は、純真無垢な笑顔を作った。
「メモを取っています」
「わかってるよ、そんなことは。何で、今、メモを取ってるのかって聞いてるの」
「それは、もちろん、今、反田さんが、メモすべき言動をお取りになったからですよ」
「オレが?」
「ええ」
「今?」
「ええ」
「意味わかんない」
「ええ」
まったくといって良いほど、話がかみ合わない。少しばかり、不安になってくるが、そこはそれ、気を取り直すと同時に顔を上げた。
「じゃ、ただなんだな?」
「ええ。お金の類は、僕たちは必要としていませんから」
「は?ってことは、他の何かは必要としているのか」
「……ええ」
「それは、一体、何なんだ?」
「それは、お答え出来ません」
「何で」
「あなたの望みごとによって、変動しうるものだからです」
「何だよ、それ」
「さて。あなたのお望みは?」
「それは……」
言い淀んでいると、黒生徒会長が、先ほどのメモを取り直すと、ぱらぱらとそのページをめくった。そこに何が書いてあるのかは、清々しいほどに不明だが、そこに何かが書かれているのは確かだ。何かを探すようにページをめくり、そして、お目当てのものを見つけたらしい。
「反田さんの欲しいものは、女ですか?それとも、お金?それとも、権力?」
「どういう質問だよ」
「あれ?違いますか?おかしいなあ。人間というのは、大体、このみっつが欲しいのだと聞いたのですが」
「政治家のおっさんじゃないんだからさ。オレ、まだ、高校生だよ?」
「年齢が、関係してくるのですか?それとも、職種?」
「どっちも」
好奇心、と瞳に彫り込んであるのか、黒生徒会長が、その頬が触れそうに近い距離で聞いてくる。男のくせに妙に整った顔が近付いてくると、男だと分かっているのに、少しどきどきしてしまって、そんな自分に幻滅してしまって、つい投げやりに返してしまう。
「なるほど……」
それでも、真摯に頷くと、黒生徒会長は、そのメモ帳にまた何かを書き込んだようだった。
「オレの欲しいのは、そうだなあ、何だろう」
オレは、オレが分からない。
自分に、呟いてみる。
オレは、何を考えている?オレは、何で迷っている?どうして、迷っているのか。これから、どうすればいいんだろう。楽しいままで、ここまできたのに。どうして、楽しくないときが、最近はあったりするんだろう?
「オレと、向き合いたい。今、オレが、あんたとこうして話し合ってるみたいにさ」
なんてな、と一笑にふした。
のだが、黒生徒会長は、ふいにその眼差しを真剣なものにすると、反田の瞳をのぞき込んだ。吸い込まれそうな漆黒の瞳が、こちらを見ている。見透かしている、と感じた。自分の顔よりも、自分の表面よりも深いどこかを、この男は見ている。そう思った。
するりと、黒生徒会長の体が離れる。
そこでようやく、圧迫感を感じていたことを、反田は知った。
「今、係の者を呼んで参ります」
優雅に会釈をして、反田の側を通り過ぎると、扉の向こうに、消えていってしまう。不思議と、足音のようなものは聞こえなかった。
残ったのは、机が一台に椅子が二脚。その上に乗った、冷めた日本茶の入ったマグカップがふたつ。そして、反田。
今、自分が感じているのは、何だろう。
期待?
不安?
それとも、虚無感?
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