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短編として書き上げたものを、短編の連載として掲載することにしました。基本的に一話完結ものですので、どこから読んでいただいても構いません。
Your precious wish is my precious treasure
作:三条司



また会おう、ドッペルゲンガー


 何故、今なのだろう。どうして、今でなくてはならないのだろう。
 
 梶井基次郎(かじいもとじろう)が生まれたのは大阪。共働きだった両親は必然的に留守がちになり、祖父と過ごす時間がその分増えた。それはあくまでも自然で、ありきたりなようでいて心地よくて、基次郎少年は祖父が大好きだった。

 第二次世界大戦だなんて、少年たちの世代では記憶の掠れてしまったものを経験した彼の祖父は、しかし、その最中に指を二本失って帰国した。
 「おじいちゃんの指は、何でやっつしかあらへんのん?」
聞いた基次郎はあまりに幼く、答える祖父はあまりに優しく。
 「おお。じいちゃんうっかりしてるやろ。忘れてきてしもてん」
 それをのちのち、すっかりそのまま復唱して、小学校の同級生にアホ呼ばわりされたのは、また別の話。

 指は八本でも生活出来るが、ヴァイオリンは弾けない。何故ヴァイオリンか?それも、また別の話。

 ともあれ、ヴァイオリンが祖父にとって大切だというのだけは、確か。欠けた手でゆっくりと少年の頭を撫でながら、かの楽器に想いを馳せる祖父に、少年は約束をする。

 「ほなら、僕が弾くわ。おじいちゃん、それやったらあかんか?」
 「粋なこと、言いおるこやのお」

 祖父は破顔し、少年は決意を固めた。固まっていないものを決意と呼ぶのかどうかは、ともかくとして。

 それから、少年のヴァイオリンとの日々が始まった。芸術をこよなく愛する両親は何の問題もなく小さなヴァイオリンを彼に与え、ぎいこぎいこと死にかけのコオロギのような音を立て始めた。

 「じいちゃん、何や、レコードと違う音やでえ?何でや?」
 素直な基次郎少年である。
 「練習、せなあかんのう、基次郎。みいんな、初めっから上手いわけと違うんやで。ちゃんと練習しおったやつだけ、音楽の神様が笑いおるんや」
 「神様かあ。僕も、一緒に笑えるようになるやろか」
 「当たり前や。じいちゃんの見込んだこやで?そないなこと、聞かんでもよろし」


 少年が手にした小さなヴァイオリンは、いつしか少年にとって大きな意味をもつものとなり、彼は音楽を人生のパートナーに選んだ。

 「僕、天才とかとは違うけど、せやけど、音楽が大好きや。もっともっと勉強したい」

 熱の籠もった瞳で関東の音楽大学受験の為に、関東の高校に行きたいと話す基次郎少年の背中を押したのもまた、彼の祖父だった。
もっとダイレクトにお金に繋がる、強いては将来の安定につながる大学に行って欲しいと願う両親に、祖父は一言、

 「行かしてやりいな」


 そうしてやってきた粂里(くめさと)高校は普通科の他に芸術科があり、それはまた、アートと音楽に別れる。めでたく、音楽科に籍を獲得した基次郎少年は、彼なりのスピードで懸命に進んでいた。

 コンクールの話が持ち上がったのは、お正月。久方振りの少年の帰省に、一家団欒を楽しんでいた何と言うことはない日常に、その電話は降って湧いたようなものだった。

 「もしもし」と半分寝惚けたような声で出た少年は、しかしやがて声に真剣味を増して、受話器を置いたあと、そっと家族を振り返った。目が潤んでいた。

 「どないしたんや、基次郎」

 ここのところ、寝たり起きたりを繰り返していた祖父が、いたずらっこのような目つきで少年を見つめながら尋ねる。

 「コンクール、出てみいひんかって。今、林部(はやしべ)せんせから連絡があった」
 「ほんで、何て答えたんや?」
 「やりますて。当たり前やんか、じいちゃん!約束したやん。僕が、コンクールで優勝して、何やもろたら、全部じいちゃんにあげるて。せやけど僕、あんまりそういう技巧があらへんやろ?林部せんせも、それがちょっと心配やて言うたはった」
 「技巧技巧て、技巧が何ぼのもんやねん。大事なんは、基次郎、お前の心やろ。ちゃあんと心込めて弾いたら、伝わるんや」
 「そんな上手いこと行かへんのや、じいちゃん。僕も自分で判ってんねん。僕が伝えたいことは、もっとちゃんとテクニックを付けてからでないとあかんねん。やけど、このコンクールに出ることで、何か、そういう日常レベルのもの以上のものを得られるかもしれへんやろ?二学期の終わりにせんせとそういう話をしててんやんか。せやから、せんせもこういう話を持ってきてくれはったんやと思うわ」
 「そこまで判ってんねやったらお前、」

 言いかけて、二三度咳き込む。少年の母が慌てて注いだお茶を、湯飲みをしっかりと掴んで飲み干すと、

 「好きなようにやったらええがな」
 歯を見せて笑った。


 当たり前やんか!と鼻息も荒く答えたのはたったの数ヶ月前だ。

 着々と鍛錬を積んで、たまの電話で祖父に経過を伝えて、明日が本番。前日はゆっくりとすればいいと祖父に諭され、基次郎少年は、一人明日の晴れ舞台のためにゆっくりと集中し始める。

 関東出身の母の親戚宅にてお世話になっている少年。持ち前の人なつこさで、すっかりととけ込んだ雰囲気の中、夕飯を楽しんでいたところだった。電話がふいにその空気に入り込む。

 「基次郎くん、大阪からよ」

 親戚の声に、慌てて口の中のものを飲み込むと、

 「もしもし?何なん?」

 いつもの通りに、ふわふわと笑いながら電話に出た少年は、そのままの表情で凍り付いた。しぼり出すように、
 「そんなん、嘘や……」
 やっとのことでそれだけを吐き出す。その顔は、さっきの笑いが張り付いたまま一切の表情をなくして、不気味でさえあった。

 「どうしたの?何かあったの?」
 怪訝な顔で聞いてくる親戚の目をまともに見ないまま、
 「ちょっと、出かけてきます!」
 まだ夜は冷え込むというのに、着の身着のまま、少年は玄関を飛び出していった。


 何で今なんや。何で。何で。今やないと、あかんのんか?

 いやや、いやや、いやや!!それだけは、いやや!!

 「自分が為すべきことはな、自分が一番よう知ってんねん。せやから、どないしたらええねん!って騒ぐ前に、自分に聞いてみたらええんや。」祖父の言葉だ。

 そんなこと言うたかて、じいちゃん。聞いたかてわからへんときは、どないすんねん!せなあかんことが、ぎょうさんあるときは、どうすんねんな。僕、僕、まだそんなに割り切れてへんわ!大人やない!

 瞳の端に涙を浮かべて、少年はひたすらに走った。向かうは、学校。

 粂里高校。そこにある、不思議な噂。少年のようにゴシップに疎い者ですら聞いたことのある、有名な噂。迷信、と言い切る者もいる、『それ』に助けられたという者もいる。

 両手を、閉ざされた校門の隣、少し低い壁の上において、ひょいと軽く乗り越えた。こう見えても少年、運動神経は中々のものだ。
 一階の南端にある男子トイレの窓は壊れている。そこから、無理矢理体をねじこんで、校内に土足で入る。
 履いているスニーカーがきゅっきゅと廊下で音を立てる。警備員に見つかると厄介だ。
慌てて脱ぎ、両手に一足ずつもって、また走り始める。靴下は滑る。何回か転んだ。
 
 目的地は最上階、三階にある歴史資料室。もう今は使われなくなって久しいその場所が、噂の本拠地だ。
 そこには、真夜中に動き出すもう一つの生徒会があって、それは何でも願いを叶えてくれる。ただし、一つだけ。という噂。
 
 お代は、誰も知らない。

 眼前に見えるのは、古びた『歴史資料室』のプレート。朽ち果てそうな木製のそれが、黄金に見える。これが錬金術か。何でもない物質を貴重な金に見せるのは、人間だけが為し得る魔術なのかもしれない。

 「すんません!」
 言うなり少年は扉を押した。

 が、開かない。

 「へ、何でや。引くんかな。……ちゃうなあ。ほなら、ああ、引き戸か!て、開かへんやんか」

 息切れして荒い息を吐き散らしながら、少年は扉相手に色々と試行錯誤してみる。残念ながら、事態は変わらないようだった。

 「何やねん!」
 どくどくと波打つ血流のせいで、少しばかり気の大きくなった少年が、握り拳を扉に向けて叩こうとした。

 と。

 形容し難い音と共に、少年の体が扉に吸い込まれた。その感触は、例えて言うなら、ゼリー風呂。

 とっさのことに反応しきれなかった少年はそのまま、扉の向こう側に前のめりに突っ伏した。

 「いった!痛いわあ、もう……」

 鼻をしたたか打ったらしい。膝をつき床に四つんばいした状態で、鼻をさする。鼻血は出ていない。セーフ。そこへ降りかかる声。

 「ようこそ、粂里生徒会へ。今日はどういった御用件で?」

 立っているのは、漆黒の少年。粂里はブレザーなのに、何故だか黒の学ランだ。上までぴっちりと着こなして、全身黒ずくめ。カラスのような少年は、基次郎に手を差し伸べると、その身を起こすのを手伝ってくれた。

 「あ、おおきに。あの、ここ……」

 照れ隠しに、おもむろに話を逸らそうとする。優雅な笑みでもって頷くと、
 「僕は、会長の不知火六花(しらぬいりっか)です」
 「変わった名前ですねえ。あ、僕は…」
 「梶井基次郎くん。いつも、君のヴァイオリンを(たの)しんでいますよ」
 「へ?あ、ええと、おおきに」
 (こんなひと、クラスにおったかいな)
 「御用件は?」

 つくりものめいた微笑で問う会長。

 「あの、何て言うたらええんか…。僕、明日がコンクールなんですけど、今電話があって僕のじいちゃんが危篤なんやって。せやから、大阪に帰りたいんやけど、でも、コンクールはじいちゃんとの約束やし、そいで、僕どないしたらええかわからへんくなって」

 息を吸うのも惜しい、といったように一気にそこまで話す。そして、そいで、と一言呟くとがくりと肩を落とす。

 「梶井くん。貴方の望みは?」

 先刻と変わらず微動だにしないその瞳が基次郎少年を見つめる。吸い込まれそうな闇色に輝く瞳。それしか今の少年の心の中で輝くものは、すがれるものはないように感じた。

 「じいちゃんを、死なしたくない、です」
 「それは、無理です。残念ながら」

 むげに断られて、少年は思わず眉を顰めるが、おかまいなしに会長は続ける。

 「ご自身の人生ならともかく、他者の生き死にに関わるようなことは、不可能です」

 御法度ですから、と風紀委員の口調で朗々と言い終えると、他には?といけしゃあしゃあと尋ねる。もう少しましな物言いがあるだろうに。

 閉口したままではあかん。何か他のこと。じいちゃん!半ばやけっぱちになりながら、

 「ほなら、大阪と東京、両方に僕をいさせることは出来ひんのですか?それやったらじいちゃんの側におることも、コンクールに出ることも出来るやんか」

 無理を承知で頼む。

 「了解しました。では、席についてお待ち下さい。いま、係の者を呼んで参ります」
 係て。ここは、お役所か何かなんかあ?

 次はあっさりとOKを出した会長にいよいよ猜疑心のかたまりになって、それでも渋々と少年は勧められた椅子に腰掛けるが。
 順応性の高さをいかんなく発揮して、このみるからにあやしげな『生徒会』にも疑問を感じなくなったころ、どこからともなくカラスが現れた。誰かと一緒のようだ。

 腰を浮かしかけた少年に、カラスと共にいた誰かが声をかける。
 「あ、ええてええて。わざわざ立たんでもええよ、見慣れた顔やろう?」
 ぎょっとしたどころではすまない。立つどころか、腰を抜かして二度と立てなくなりそうなぐらい驚いた。人間、度を越すと何も言えなくなるらしい。
 
 関西弁でそう言った少年は、あろうことか基次郎と同じ顔の人間だった。顔ばかりか、いちいち全てがそっくりなのだ。生き別れた双子の弟でもこうはいくまい。

 「桂。梶井くんが驚いてるよ。ちゃんと自己紹介もしないから」
 咎めるような口ぶりで、そのくせ瞳は柔和に基次郎二世を見つめて、会長が言う。

 「梶井くん、ね。あんたの担当になった森本桂(もりもとかつら)だよ。よろしく頼むな」
 流暢な標準語を喋る自分に紹介された。少年はやっとのことで立ち上がり、まじまじと眼前に立っている桂とやらを見つめる。
 「僕そっくりなんやけど、これは気のせいなん?」
 熱に浮かされたように呟く基次郎少年と、それを聞いて吹き出す桂。

 あの…と救いを求めるようにこちらを見つめてくるいたいけな基次郎少年に、会長は優しく微笑みながら、
 「彼が、今回の君の望みを叶えます。桂は君と同じ1年生ですよ。音楽科ではありませんが」
 「いや、そういうことやのうて、この人」
 「ドッペルゲンガーです」
 「え!」

 にやにや笑いの桂。会長と桂を交互に見比べて、基次郎少年はぽつりと一言。て、誰なんですか?

 「おいおい、まじかよ」呆れ顔のまま、
 「有名な伝説だろうよ!自分そっくりの人間、自分とうり二つのを見ると死ぬってさ」
 「えええ。ほんなら、僕死んでしまうやないですか」
 「だから。伝説だって。勝手に人を殺人鬼みたいに言うなよ」
 桂が苦笑しながら言う。そして、
 「おれはね。鏡みたいなもんなのさ。六花みたいに特殊な例を除くと、大抵の生き物はおれの姿が、自分に見える、たったそれだけのことだ。もちろん、自分の意志で姿を変えることも可能だけどな」

 ほうほうと何度も頷いている基次郎少年を微笑ましく見つめて、会長は桂に向き直る。
 「桂。さっき説明した通り。梶井くんは明日東京と大阪の二つの場所に同時にいたいそうだ」
 「わかったよ。で、おれは必然的に大阪担当になるぜ。だって、おれ、ヴァイオリン弾けねえもん」目を細めて、桂。
 「え、せやけど、桂くんが大阪に行って、ほんで僕のふりをする、言うことですか?僕自身は大阪には行かれへんのんですか?僕やないって、誰か気付かへんやろか」
 「何を君自身とするかは、君次第」

 どこか含みのある笑みで、会長がそう言うが。どこか釈然としない。まるで禅問答だ。すると、会長が学ランの内ポケットから小さな試験管のようなガラス製のボトルを取り出す。一向に趣の変わらない笑みで、

 「では、お支払いを」
 「へ、あの、何を払ったら」
 失礼、と小さく言うなり会長が基次郎の手をもつ。そして、手の甲にぷつっと針を刺した。突然のことに、少年の体がびくんと一度震える。ぷくんと手の甲に浮かび上がる小さな血の玉を小さな脱脂綿のようなものに染みこませて、それを丁寧に手にしていたボトルに入れると、コルクのふたを閉めた。

 「面白いものをありがとうございました」
 秀麗な笑顔で言われる。怪しい。

 「それ、何しはるんですか」聞くと、
 「おいおい、野暮なこと聞くなよ。お前が聞いたって仕方がないことだろ」
 桂に諫められた。自分自信に叱られて、しゅんとうなだれる少年に会長は、
 「これは、梶井くん、君の感情のサンプルですよ。これで、僕たちが勉強するんです。人間の感情の機微を」

 ほんなら、二人は人間とちゃうのんか、とコメントしようとした矢先だ。会長が音もなく少年との距離を狭めると、ふいに手の平を少年の顔にかざした。と、唐突な睡魔に襲われてその場にばたんと倒れてしまう。明らかに異様なその睡魔はしかし手強く、もう一度目を覚まそうと四苦八苦し続けて、それが叶ったのは朝だった。

 

 どうやら夢の中で、起きよう、と藻掻いていたらしい。寝癖の残る頭で、そう解釈する少年である。用意を済ませながら、ぼんやりと昨晩を思い出す。
 
 あれは、夢やったんかな。ほんなったら、僕が大阪に行くんは叶わへんことやわ。
 やっぱり、じいちゃんのことを思うと、大阪に行きたいけど、じいちゃんの性格を考えると僕はヴァイオリン、弾かなあかんなあ。

 そんな重い諦めの様相でのろのろと支度をして、家を出た。少年は、今にも泣き出しそうな顔を必死で笑顔に変えて、いってきますだけは言う。門を曲がったら少し陰になっているところがある。そこでちょっと泣こう。

 「よ。遅いじゃん。待ちくたびれたぜ」

 門を曲がって待っているのは、桂だった。もう一度、腰を抜かしそうなほど驚いてみせる少年。さぞかし、サプライズのしがいのある相手であろう。
 「え、あれ、昨日、あれは、ゆ、夢」
 「こうしておれが目の前に立ってるわけだからさ。夢じゃねえだろ。何だったら触ってみるか?」

 こわごわ、震える手で触ろうとして、手袋をしていたことに今更気付く。それを外してそっとその頬に触れてみた。あたたかい。明らかに、生きている人間の肌の質感だ。それに、一人称がおれだというのも、基次郎ではない証拠の一つ。

 「ほ、ほんなら、桂くんが大阪に行くん、ほんまに行くん?」
 「そういうことになっただろ。おれはそのつもりでほら、もう切符まで買ったからな。新幹線で新大阪までだっけ?」
 「あ、うん。じいちゃんのおる病院は、大阪の市内にある足立病院ていうとこやねん。場所、わかるん?」
 「それは聞かないと判らないだろうけど、まあ大丈夫だよ。多分お前が道を知ってるなら辿り着ける。そういうもんなんだよ。あ、その前に。一個、やんなくちゃだ」
 言って桂はジーパンのポケットから何やらを探り出した。それは、小さな針。
 ほな早速、とまだ手袋を外したままの基次郎少年の親指の腹に針を突き立てた。昨晩のように血の玉がそこに浮かび上がる。同じ事を自分の親指でもすると、桂はその血と基次郎の血を混じり合わせた。
 「これで今日一日はおれとお前はシンクロすることになる。覚悟は、出来てるな?」
 自分とは思えぬほど凄味のある顔で迫られる。思わずこくりと頷いたが、シンクロとはさていかに。


 その答えは桂と別れたあとすぐに分かることになった。見えるのだ。見えるだけではない、聞こえるし感じる。桂が見ている風景、聞く音、感じる風、匂い、それら全てを基次郎が感じる。おそらく同じことが桂にも起こっているのだろう。

 初めはさすがに驚いたし戸惑ったが、慣れてみると新鮮で面白いものである。コンクール会場の控え室で調弦をしているころ、桂は名古屋駅の前を通過していた。たまに桂が喉を潤す緑茶の爽やかさが、頭にダイレクトに伝わってくる。
 「梶井基次郎さん、次です」

 いよいよだ。

 (ま、せいぜい頑張るんだな。こっちはおれに任せておけばいい)
 (うん。頼むわ)

 そう、任せるしかないのだ。病院への行き方は、説明するまでもなかった。ただ、頭の中でイメージするだけで伝わったのだから。
 はい、と笑顔で返事をして、呼びに来た係の女性のあとをついて歩く。舞台袖に立つ。不思議と落ち着いていた。一人じゃない。そんな感覚。ゆっくりと、しかし安定した歩みで、舞台へ、今日のステージへ。
 課題曲は何とか上手くいった。いつもと同じに弾ければまずまず、と言ったところだと予測していたから、満足できる結果だ。自由曲を審査員にアナウンスして、もう一度調弦をする。

 (着いたぞ)
 『基次郎!あんた、何でここにいるの!コンクールはどないしたの!』
 母の声だ。きっと泣いたのだ、その赤く腫れた目が、大きく見開かれている。桂が、祖父の方に向き直って言う。それは紛れもなく基次郎の言葉であり、感情だ。その仕組みは判る由もない。
 『じいちゃんの方が大事やろ』
 色んなパイプに繋がれた祖父がうっすらと目を開いて、基次郎の姿を認めた。あほ、と口が言った気がする。祖父らしい。

 自由曲を弾き始める。意味もなく涙が出そうだった。尚も頭に響く会話。

 『じいちゃん。ごめん、帰ってきてしもたわ。でもなあ、後悔はしてへんねんで』
 そう。コンクールは受けた方が良い。それが、しなければならないことだ。でも、それはしたいこと、ではない。会いに行きたかった。大好きな祖父に。どちらも選ぶことなど出来ない。それが人生ってやつだろう。それでも、祖父がいなければ、今の自分はなかったのだから。
 『僕なあ、今更言わへんでもええんかもしれんけど、じいちゃんの孫でほんまに良かったわあ。幸せやわ。おかげでヴァイオリンにも逢えた。それだけやのうて、もっと大事なもんも教えてもろた。おおきになあ』
 祖父は最早、話せないのだろう。ただ、薄目に涙を浮かべて、こちらを見つめている。
 (それで充分や、じいちゃん。何も言う必要なんかあらへん)

 ありがとう、じいちゃん。もっと色んな孝行出来たんかもしれへん、でも、後悔はしてへんで。じいちゃんの愛したヴァイオリンは僕が、じいちゃんの分もこれからずっと面倒みたるから。僕は、これから僕の人生をまっとうするさかい。じいちゃんは先に待っててや。そっちで僕のこと、見守っててや。

 最後の和音を弾ききる。息が荒かった。どう弾いたかなんて覚えていない。ただ、感情がはちきれんばかりだった。

 控え室で結果が出るのを待つ。予定だと、あと三十分くらいだ。
 (どうなんだ、その、調子は。上手くいったのか?)
 器用な桂である。この間、桂は祖父に話しかけたり、両親とも会話しているのだから。
 (うん。どうなんやろ。じいちゃんが見えて、何やわーってなってしもたけど、けど、不謹慎かもしれへんけど、気持ち良かった。せやから、ちゃんと弾けたんやと思う)
 (何で不謹慎なんだ。お前の思ってるじいさんは、そういう風に気持ち良く弾けるようになるのを望んでいたんだろう。それを、お前も知ってんるんだろう)
 苦笑する。桂の方が、基次郎のようだ。

 (せやなあ。うん。やから、悔いはないなあ。おおきにな、桂くん。じいちゃんに最後にちゃんと会えて良かったわ)
 (ま、それが今回の依頼だからな)
 (なあ、桂くん。じいちゃん、桂くんのことをほんまに僕やと思ってるんかな)
 (多分な)
 (その、桂くんにこうやって大阪に行ってもろて、ほんまに感謝してんねん。でもな。じいちゃんを騙してることにはならへんやろか)
 (それを決めるのはお前だよ。他の誰でもない)
 (うん…)
 (お前の人生は、お前のものだよ。例えその中で何を選んだとしても、それはお前だけが為し得る選択だろう)
 (せやな。僕はもうこの道を選んでしもたんやもんな。なあ桂くん。ほんまにおおきにな。短い間やけど会えて良かったわ。楽しかった)
 (何改まってんだよ。言ったろ、これはおれの仕事…)
 (また、会えたらええなあ)

 桂は何か言おうとしたのだろうが、そこで急に音信が途絶えた。一日は保つと言われたシンクロが力を失ったらしい。かろうじて、相手の見ている風景と音声が伝わる程度で、桂の感情は、もう基次郎には届かなかった。



 「で?」

 何かを期待するような、きらきらした瞳で会長が問う。眼前に立つのは黒の学ランに身を包んだ、長身で髪を金色に染めた少年だ。彼は、一瞬の迷いを見せたあと、ばつが悪そうに、

 「でって、六花も意地悪だな。結果は知っているだろう」
 「うん。梶井くんは、コンクールで優勝。梶井くんのおじいさんは、何とその報告を君がした途端に息を吹き返して、今は元気にしてる。それが、君の言う結果?」
 はあ、とけだるそうにため息をつくと、金髪の少年は、両手を広げて見せる。
 「知ってるんならさ…」
 「桂」
 
 真摯な眼差しを金髪の少年に向けると、静かでいながら奥に熱いものをもった声で、
 「僕が聞きたいのは、そこじゃない。もちろん、今回の結果は興味深いものだったけれどね。人間の生き死にとはまったく…。それより、梶井くんとたくさん話したらしいじゃないか。どうだった。人間と会話をするというのは、どういうものなんだろう?」
 「ああ、そういうこと。どういうものって言われてもなあ。あいつ、何かやたらありがとうって思ってたよ。色んなことに。だってさ、おれがあいつの手助けをしたのは、仕事じゃん?なのに、何回も御礼を言ってた」
 
 桂の返答を聞いて、満足げに会長は頷いて、そして、懐のメモ帳に何やら記した。それを覗き込みながら、桂が、
 「何書いたの?」
 「人間は、よく御礼を言うって」
 「そこを書くんだ?」桂の呆れ声。
 「え、どうしてだい?」
と、小首を傾げるさまは、まるで小鳥のようだ。純真そう、というか。

 「あいつは、ちょっと特殊なんじゃないのかなと思ってさ。あ。いっこあるか、知らされていないもう一つの結果」
 「それは?」
 「あいつのじいさん。途中であいつと音信が勝手に消えただろ。で、あいつが優勝したのは見えたから、実はコンクールにはもう出てしかも優勝したって、即興で話を作り上げてじいさんに言ったらさ。あいつの母親がが席を外した時に、じいさんがおれに言ったんだよ。おれが基次郎じゃないってことは判ってる、あのこを助けてくれてありがとうなて。いやあ、あれは流石のおれも驚いたな、まさか人間に見破られるとは思わないじゃん?面白いじいさんだったな」
 「ふむふむ。老人、特に男性は面白い」
 「いや、だからそこじゃないだろ」
 ぼそりとつっこんでから、ふと基次郎少年に良く似た微笑みをその顔に浮かべると、桂はま、いっかと呟き直す。

 夕焼けが窓の外の世界をうめつくす。それを見つめて、会長は窓際にそっと立つ。微笑んで、振り返る。
 「ねえ桂。今晩は誰が来るんだろうね」

 それにも、桂はふわりと微笑むのみ。そうそれはまるで、人間のよう。












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