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河童から来て下さった方はびっくりするかもしれません。これはこれということで。お楽しみくださいませね。
花びら、ひとひら、ひとしずく
作:三条司


 小学校までは歩いてほんの十五分。その道のりに、必ず通るお屋敷があります。いかめしい外観とは違って、お庭からはいつも良いにおいがします。塀が高くて僕には中は見えないけれど、きっとお花がたくさん咲いているのでしょう。
 
 お花は好きです。学校では園芸委員をしているくらい。お花に囲まれるのは幸せです。
 
 お屋敷のお庭を、いっぺんでいいから見てみたいと思っています。けれど、ひとのおうちに勝手に入るのはとても失礼なこと。
 
 ひとりで塀づたいにお屋敷のそばを歩いていると、ついつい塀の中が気になります。だから僕はふと上を見上げてしまう。そうすると、必ず見えるものがあります。
 
 白い手。
 
 それはそれは、雪のように真白い手なんです。そしてとてもきれい。お屋敷の塀よりほんの少し上に見える部屋の窓から、その手はいつもひらりひらりと揺れているのです。
 
 はじめて見たときは、とても驚きました。まるで僕がお庭を見たいと思っているのがばれたみたいだったから。その日の夜は一生懸命お月様にお祈りしました。僕がひとのお庭を覗き見しようとしたことを許してくださいって。でも、やましい気持ちなんて何もないことをどうか解ってくださいって。
 お月様に僕の祈りは届いたのでしょうか。
 
 僕は学校を休んだことはありません。皆勤賞を、去年いただきました。雨の日だって風の日だって、ちゃんと毎日学校に行っています。そして、毎日あの白い手を見ます。
 その手は本当に白くて、もうすぐ透明になってしまいそう。もちろんそんなことはないのだけれど。窓からそっと出ているその手はいつも、不安げに、繊細に、控えめに、揺れているのです。
 
 そのうち僕は考え始めました。あの白い手は、いったい誰のものなんでしょう、と。女の人なのかしら。男の人なのかしら。いったい、いくつくらいのひとなんでしょうか。
 大人の女の人かもしれません。僕のお母さんはいつも忙しい忙しいと言っているけれど、あの白い手の持ち主は忙しくないのかもしれません。大人の男の人かもしれません。僕のお父さんは毎日お仕事でおうちを朝早くに出て行きます。もしかしてあの白い手のひとは、お仕事をしないひとなのかもしれません。だって、いつ見てもあそこにいるんですもの。
 
 毎日見るその白い手に、やがて僕は親しみを覚えるようになりました。あの白い手が窓から出て、風を撫でるようにしているのを見ると、何だかほっとします。朝夕、通りかかるたびに見えるその手は、僕にいってらっしゃいとおかえりなさいを言っているみたいです。そう感じるたびに、僕もその白い手に向かって答えます。いってまいりますとただいまかえりましたを、心の中で唱えるのです。
 
 でも、いったいぜんたいあれは誰の手なのでしょうか。
 
 お屋敷は立派な建物です。門扉は頑丈な木で出来ています。そしてその扉には美しい模様が描かれています。でも僕は、その扉が開いているところを見たことがありません。とても不思議。お屋敷には誰も入りません。誰も出てきません。ずっと見張っているわけではないから、絶対とは言えない。それでも、お屋敷は誰に触れられることもなく、じっとその場に佇んでいるのだと思います。
 
 一度、あのお屋敷についてお母さんに尋ねたことがあります。お母さんは僕よりもたくさんのことを知っているから、あの白い手についても何か知っているかもしれないと思って。ですがお母さんは僕がお屋敷の話をした途端、とてもこわい顔になって、二度とあのお屋敷には近付かないようにと言いました。
 
 僕の通学路なのに。でも、それも仕様のないことです。あのお屋敷の傍の道は、本当は通学路ではないからです。学校が決めた通学路はお花が見られない道ばかりなので、僕はこっそり違う道順で学校に通うことにしたのです。もちろん、それは先生方にもお母さんにも内緒です。
 
 あれ以来、お母さんにはあのお屋敷の話はしたことがありません。白い手のお話も。あの白い手は僕の秘密。学級のこたちも、お屋敷のことは知らないみたいです。僕だけの秘密です。
 
 白い手はいつもいつも、あの窓からそよいでいるだけ。寂しくはないのでしょうか。僕なら淋しい。塀の中からはお花のかぐわしいにおいがするのです。そんなお庭が近くにあって、どうしてお庭に出ないのでしょう。窓から見える景色は、学校の窓から見える空のように四角張っているはずです。それだけで良いのでしょうか。
 
 いいえ。そんなわけはありません。もしかしたら、あの白い手はお部屋から出られないのかもしれません。
 どうして今までそれに気付かなかったのでしょう!
 きっとそう。あの白い手は病気のひとのものなのです。体調が優れなくて、だからお部屋から出られないのです。そして、少しでもお外に触れていたいと思って、あの白い手を毎日窓から差し出しているのです。
 
 それに気付いたのは国語の授業中でした。ぼんやりと白い手のことばかり考えていた僕は、先生に質問されても何のことだかさっぱり分からず、注意散漫だと注意を受けました。それほど、僕は白い手のことを四六時中考えるようになっていたのです。あの指が動く様を、まるで舞踊のように空気を凪いでいく様を。
 
 季節がめぐる速さを、夕暮れで感じることが出来ます。学校から帰るときは、たいてい夕方になります。日は少しずつ長くなっていっているようです。夕陽がきれい。
 
 薄紫が、僕のまわりにたちこめています。そんな中でも、あの白い手は変わらずそこにあるのです。夕暮れを掴もうとしているのかもしれません。
 
 かわいそうな白い手。


 
 「倉崎くん」
 
 授業が終わって、帰り支度をしていたときでした。韮沢くんが僕に話しかけてきました。
 
 僕は、韮沢(にらさわ)くんとはあまりお話をしたことはありません。たしか、少しの間入院していたはずです。僕はどんな顔をして良いのやらわからず、何故か人目をはばかるように近付いてきた韮沢くんをじっと見つめました。
 
 「倉崎くん、キミの家はどこなんだい?」
と、韮沢くんはやぶから棒に聞いてくるのです。僕は内心少し戸惑ったのだけれど、素直に、
 「花岸通りから少し裏手に入ったところだけれど。それがどうかしたの?」
 「だったら、キミ……」
 
 呟くように言ってから、韮沢くんは黙ってしまいました。口元を手で隠して、じっと教室の床を見つめています。僕はますますどうしていいかわからずに、ただその場に立ち尽くしました。長い長い何秒かのあとに、韮沢くんは意を決したように顔をあげると、僕の瞳をのぞきこみ、低い声で、
 「だったらキミ。あのお屋敷は通学路ではないんじゃないのかい」
 
 僕の心臓はそれを聞くと同時に激しく跳び上がりました。どうして韮沢くんがそれを知っているのでしょう。どうして僕があのお屋敷のそばを毎日通っていることを知っているのでしょう。
 
 しらを切ることも出来たのでしょう。でも僕は昔から嘘をつくのは苦手なのです。だからといって本当のことなど言えない。もし韮沢くんが先生や僕のお母さんにそれを知らせたら、きっと僕はあのお屋敷には二度と近付けなくなってしまう。あの白い手に、二度と会えなくなってしまう。それはとっても困ることなのです。何故って、僕はあることをもうすでに思いついていたから。それには、あのお屋敷に近付くことはとても大切なことだったから。
 
 そんなわけで、僕は韮沢くんの知的で切れ長な瞳を見つめ返せずに、またしても黙っているだけしか出来なかったのです。すると、韮沢くんはその長身を屈めて僕の耳元に口を寄せると、
 
 「キミ、今ならまだ間に合うよ。あのお屋敷に近付くのはよしたほうがいい。これは警告だからね。じゃ、またあした」
 
 真摯な口調でそれだけを言ってしまうと、僕の返事などお構いなしにさっさと教室をあとにしてしまいました。
 
 どうして、あのお屋敷はそんなにみんなに嫌われているのでしょうか。



 その日の帰り道は何だか特別なものでした。韮沢くんのことばは怖ろしかったけれど、僕はどうしてもあの白い手に会わなくては、と感じていたのです。

 お屋敷に近付くにつれ、ぴゅうぴゅうと音を立てていた風は次第に勢いをまし、お屋敷の前の通りに着くころには風は荒れ狂うようでした。

 お屋敷のお庭に咲き誇っているはずのお花たち。それが、今は風にあおられてその可憐な花びらを空に捧げていました。それはそれは幻想的なその光景を、僕は何かを見守るような気持ちで見つめていました。
 
 真白い花びらが風と一緒にダンスを踊っています。その軽快なリズムは、花びらを地面よりもはるかに上の方、空に向かって花びらを誘っているようです。夕焼けはもう終わりの方で、空のてっぺんはそろそろ闇色。花びらは優雅に空を舞い、窓へと降り立ちました。白い手の窓です。

 僕は足を止めて、窓を凝視しました。少しだけ開いたままの窓からあのか細い白い指が姿をあらわしました。そして花びらをそっとその指でつまんだのです。

 嘘じゃあありません。風はびゅうびゅうと音をたてていたけれど、それでも僕には聞こえたのです。そっとため息をつく誰かの声を。聞き間違えなんかじゃあありません。あれは白い手のため息。やっぱりお花が恋しいのでしょう。

 その瞬間です。僕が決心したのは。

 あの白い手に、お花のプレゼントをしようと僕はそのとき心に決めたのです。
 何のお花が良いかしら。あの白い手に一番似合うお花。出来れば匂いのかぐわしい、可憐でたおやかなお花。

 お夕飯を食べている間もお風呂に入っている間も、お布団に入ってからもずっと僕はそのことばかりを考えていました。

 夢の中でさえ僕はお花とあの白い手のことを考えていました。柔らかい嵐のような風にのって、僕はふわふわと宙を舞うのです。気付けば地面よりもはるかに遠いところに僕はただよっていて、周りにはそれを祝福するかのように花びらが舞っています。そして僕は唐突に気付くのです。僕は今からあの白い手に会いに行くのだと。この僕の周りにあるお花を連れて、白い手のお見舞いに行くのだと。

 目が覚めてもまだ、夢の余韻は消えずにいて、僕はまるで腑抜けたまま朝御飯を食べました。

 僕の周りをただよっていたお花は、水仙でした。不思議。水仙が舞うなんて。でも、水仙の清楚でいて芯の強そうな趣は、白い手に良く合うことでしょう。夢にみたのも何かの思し召しかもしれません。


 「倉崎くん、おはよう」

 昨日に続いてまた、韮沢くんが話しかけてきました。僕は何だか後ろめたいような気持ちで、おはよう、とだけ返しました。

 「キミ……」

 そんな僕に、韮沢くんは何かを言おうとしたっきり、口元に手をやって黙りこくってしまいます。まだ教室には人がまばらで、僕はいよいよ居心地が悪くなってきました。

 「倉崎くん、昨日はよく眠れたかい?」
 妙に不安げに、韮沢くんはそう尋ねました。

 とても言いにくそうに、でも聞かなければならないといった風に。涼やかな両の瞳は心配げに僕を見つめています。何だか僕まで不安になってしまいそう。

 「うん。とても良い夢を見たんだ。どうしてそんなことを聞くの?」
 「夢?そうか…。…いや、あまり顔色が良くないようだから。寝付きでも悪かったのかと思ってね」
 「そうかな?体の方は何ともないよ。ほらこの通り」

 僕は憂いを含んで眉根を寄せる韮沢くんを安心させたくて、その場でぴょんぴょんと飛んでみせました。その拍子に、僕の背負っていた通学鞄からはらりと落ちたものがあります。昨日の花びらに違いありませんでした。風に舞っていたあの花びらのひとつが僕の鞄にもぐり込んでいたのでしょう。それを見た韮沢くんははっと目を瞠ると、

 「倉崎くん。後生だから、あのお屋敷にだけは近付かないでくれたまえ。これは、キミのためでもあるんだぞ」
と、声を落として言うのです。

 そして僕がその真意を問う間もなく、韮沢くんは僕から離れていってしまったのです。



 韮沢くんのことはよくは知らないけれど、きっと良い人なのだと思います。同い年のこたちに比べると背の高い韮沢くんは、雰囲気も言動も大人びていて、みんなの憧れの的です。
 そんな韮沢くんがお屋敷に近付くなと二回も言ったのです。冗談ではないと思います。

 でもね。

 もう、決めたのです。

 だって園芸部の花壇に水仙の花が、いつもよりもずっと早くに花を咲かせたのです。本当はあと一月ほど待たなければならないというのに。

 放課後、韮沢くんの悲しげな視線から逃れるようにして僕は教室を飛び出しました。校舎の裏にある花壇から水仙を三本、手折りました。ごめんね水仙さん。でもきっと、貴方を歓迎してくれるひとに今から届けるから。

 昨日とはうってかわって風のない日でした。

 お屋敷のまわりはいつもよりも更に静まりかえって、僕の息遣いが唯一の音のようです。
 塀を見上げて、いつもの窓を見ました。が、窓はぴたりと閉じられていて、白い手もみあたりません。
 
 これは一体どうしたことでしょうか。予想していなかった出来事に僕は動揺してしまいました。白い手に、何かあったのでしょうか。無事なのでしょうか。

 塀を隔てて窓を見つめたまま、僕はどうすることも出来ずにその場をうろうろと歩きました。そうしてふと思い立ったのです。あの扉。頑丈そうなあの門扉。あれはまだ、閉じたままなのでしょうか。

 そろそろと人目を気にしながら僕は扉に向かって歩き始めました。窓さえ開いていれば、僕は白い手に向かって声をかけるつもりだったのですが。仕方ありません。だってもう、水仙は手折ってしまったんですから。人のおうちに勝手に入ろうとしている、ということに緊張してきました。悪いことをしている。その自覚があるのにまだやめようとしない、それの方がもっと悪い。だけれども。

 悩みつつも近付く僕の前に、頑丈で落ち着いた扉がそびえ立ちます。そしてそれは、驚いたことにすうっと音もなく開いたのです。少しだけ。ほんの少し。それはまるで僕を招き入れるよう。花の香りに誘われる虫のように、僕は開いた扉から中を窺ってみました。

 思っていた通り、扉からは立派なお庭が垣間見えました。色とりどりのお花は咲き乱れ、葉っぱは健康そうに良く繁り、得も言われぬ香りが僕の鼻をくすぐります。ここは季節が止まってしまったみたい。

 なるたけ扉をそれ以上開けないように、水仙を傷付けないように注意しながら、僕は体をお屋敷の敷地内へと滑り込ませました。

 白い手を、早くみつけなくちゃ。

 水仙を持つ手が汗ばんできました。早く早く。心が逸れば逸るほど、足がもつれて上手く歩けない。音をたててはいけない。頭の中はもうパンクしてしまいそう。

 そんな僕の耳にあのため息が聞こえてきたのです。消え入るような、儚げなあのため息。白い手に違いありません。聞き間違いをするはずがありません。僕は出来るだけ耳をすませて、そのため息の方向を探り出そうとしました。そこへもう一度。僕から見て左側、いつも白い手がいる窓の方角と同じです。でも、上の階にはいなかった。今だって、窓はぴたりと閉じられたきり。

 お花を踏んでしまわないように、爪先立ちで僕は歩きました。ため息の方向へ。白い手に導いてくれるだろう方向へ。そして、やっと見つけました。塀の真向かい、白い手の部屋の真下、お庭に直接面したような角部屋。そこの窓が開け放たれていて、出窓になっているそこから、見慣れた手が揺れているのでした。

 「ああ……」
 僕は小さく感嘆の声を洩らします。やっと。やっと会えましたね。

 感慨深くて、何だか泣けてしまいそう。潤んできた視界を、目をこすってきれいにします。そして、僕はついに白い手に出逢ったのです。

 僕は学級でも背の低い方です。僕の額がちょうど窓の一番低い位置にあたります。だから中は見られない。でも、白い手はその細くて長い手首をしなやかにくねらせています。心臓がどきどきと音をたてています。白い手の窓辺に、僕は水仙の花を静かにおきました。
と、白い手の動きが止まります。訝しんでいるのでしょうか。ためらいがちに水仙に触れました。

 「お、贈り物です。どうか、受け取ってください」
 震える声で僕がそう告げると、白い手は今度こそ水仙を手に取りました。匂いを嗅いでいるのでしょうか。かすかな、息を吸う音がします。そして、笑い声。それは可憐で清楚な、水仙によく似合う、水仙がよく似合う女の人の笑い声でした。これに気を良くした僕は、

 「ご病気なのですか?」
と、聞いてみることにしました。
 ややあってから、
 「…ええ。そうですの」
 「ご病気が早く治られると良いですね」
 「いいえ。これは不治の病。治ることなどありませんのよ、親切なお花屋さん」
 「不治の病?」
 「治す方法があるにはあるのだけれど、それはとても難しいのです」
 「そうなのですか……」

 こんなにきれいな声の持ち主が、不治のご病気だなんて。僕は悲しくなってしまいました。治す方法がほとんどないだなんて。どんなに心細いことでしょう。

 「お花屋さん?この水仙はどこで手に入れてこられたのかしら。とても良い匂い」
 「それは、僕が育てたものです。園芸部なのです」
 「まあ、それはそれは。大切にさせて頂くわね」
 「少しでもお気持ちが晴れると良いです」

 ふふ、と微笑んで、白い手が窓から姿を現しました。優雅な仕草でおいでおいでをしています。僕はその所作に見とれながら数歩、窓に近付きました。

 「手を」
 言われるままに僕は自分の手の平を差し出そうとして、それが汗でしめっているのに気付きました。ごしごしとズボンで拭いてから、改めて手の平を窓に差し出します。それでも窓の位置は高くて、僕はちょっと爪先立ちにならなくてはなりませんでした。

 白い手が僕に触れました。冷たい手。まるで氷でできたよう。形の良い指が丸まって、何かを僕の手の平に渡しました。それは花びら。何のお花かはわかりません。見たことのないお花。薄い紫色をしたそれは、いつか見た夕陽の色です。繊細で今にも飛んでいってしまいそう。僕は慌てて手の平を閉じました。

 「ありがとう、親切なお花屋さん」

 夢見心地、というのはこういうことをいうのだと思い知った気がします。本当に、今日の出来事は現実だったのでしょうか。それほどまでに、僕は心を打たれてしまったのです。もちろん、あの白い手にです。

 帰る道すがら、僕の足はまるで大地を踏みしめることを拒否するかのようにふわふわとして、もしかしたら背中に羽でも生えてしまったのかしら、背中の通学鞄が羽に変わってやしないかしらと何度も振り返りました。その度にちらりと見えるお屋敷の塀や門扉を見つめては、ほうと切ないため息をついて足を止めてしまいます。空を見上げればもうずいぶんと暗くなっていて、その深い紺色も、ああ、何て素敵なのでしょう。

 お母さんは心配していたみたいです。どこかで道草をくっていたのか、それとも何か事件に巻き込まれたのかと尋ねられたので、韮沢くんという同級生とお話をしていたと答えました。咄嗟に何という嘘をついたものでしょうか。こんなにすらすらと言い訳ができたのは初めてです。お母さんはその答えに渋々ながらも納得してくれました。

 その夜。僕はなかなか寝付けませんでした。きっと、まだ僕はあの白い手との夢にひたっているのでしょう。その気分をわざわざ害することもない、と僕はそっとお布団から抜け出して障子を開けました。僕のお部屋はお庭に面しています。そう、白い手のお部屋のように。沈黙が聞こえるほどの静けさが夜を包み込んでいます。あいにく今日はお月様もお休みのよう。また元気を取り戻してきたらしい風が雲を右から左へとさらっていきます。

 やっぱり寝間着では少し肌寒い。ぶるる、と両腕で両肩を抱いて、僕はお布団の中へと戻りました。

 明日韮沢くんに会ったら、今日のことを言おうか。心配してくれてどうもありがとう。でも、あのお屋敷には何もこわいものなどなかったよ、と。そういえば、韮沢くんはあの秀麗な瞳を安堵に和らげてくれるでしょうか。



 でもその次の日。僕は学校には行けませんでした。朝、いつものように起き上がろうとしたら、体の節々が痛んで動けなかったのです。お母さんを呼ぼうと口を開けたのですが、かすれたひゅうひゅうという声しか出ません。何だか呼吸をするのが苦しい。どんどんと重みを増していく体に鞭を打って、僕は一生懸命手を差し出しました。おかあさん、と声にならない声をあげながら。

 お母さんが、いつまでたっても居間にあらわれない僕を起こそうと部屋に入ってきてくれて、僕はようやくお医者さまに看てもらえることになりました。ひとしきり僕の体をお調べになったお医者さまは首を傾げると、ただの風邪だとは思いますが……とお薬を渡して帰られました。

 お薬を一日に三回も飲んで、お母さんが作ってくれるお粥を少しだけ食べて、それでも僕の風邪は一向に治る気配を見せませんでした。連日連夜、高熱は僕の体から精気を奪い取り、自分一人では満足に食事も出来ないようになってしまいました。体の節々の痛みは止むことを知らず、視界はいつも霞んでいて、一体今が昼なのか夜なのかもわからない。咳をするほどの元気もなく、浅い荒い息が僕の口からは絶えず洩れています。

 そんな状態がどれほど続いたのでしょうか。お母さんは、僕はこの部屋から動かなければならないと言いました。どうして?そう聞きたかったのだけれど、それは言葉にはなりませんでした。

 眠りとも呼べないほどの浅い睡眠の中で、どうやら僕はおうちから運び出されたようです。気付けば、真新しい真白いシーツのひかれた洋風の寝台に横たわっていました。壁もお布団も部屋のドアさえもが真っ白です。寝具の横には小さな箪笥が置いてあって、そこに花瓶がありました。活けてあるのは白い花。水仙です。それも、三本だけ。

 ここにいればとりあえずは安全だからね、とお母さんが言っています。泣いているみたい。どうして泣いているの。安全ってどういう意味なの。僕はお母さんと話がしたかった。熱をもってじんじんする額にその手の平をのせて、大丈夫だからと微笑んで欲しかった。でも、僕が口を開こうと難儀しているあいだに、お母さんは部屋から出て行ってしまったのです。

 悲しい。そして、とても寂しい。心細い。僕は、これからどうなってしまうというのでしょうか。

 涙を流すにも体力がいるのです。そして、今の僕にはそれすらのちからも、もうない。そんな事実も、僕のこころをますます打ちのめします。どうして。どうして?

 「倉崎くん」

 絶望に目を閉じた僕の耳に、声が聞こえてきました。聞きなじみのある声。久しく聞いていなかった声。

 韮沢くん、と僕は言いたかった。だけれど僕の声はあまりにも細すぎて、扉を後ろ手に閉める韮沢くんには届かなかった。

 「警告、したはずだよ、倉崎くん」

 苦々しいといった風に韮沢くんが言いました。眉間に寄せられた皺は今まで見た中で一番深く、その顔は苦渋に満ちています。

 「どうして」

 どうして。それは僕が尋ねたかった言葉。

 「どうして、このお屋敷に近付いたんだ。あれほど、ここには来るんじゃないと言ったろう。ぼくが冗談を口にしていたとでも思ったのかい」

 このお屋敷。つまり、僕がいるのはあのお屋敷なのです。いつも見つめていた、白い手のお屋敷。僕はゆっくりと首を回して、花瓶の中の水仙を見ました。これは、僕があの白い手に渡したもの?

 ではあの白い手はどこに行ってしまったのでしょうか。

 「いいかい、倉崎くん」

 押し殺した声で言いながら、韮沢くんが扉から僕の方へと向かってきます。体を機敏に動かせない僕への配慮なのか、韮沢くんは水仙の隣、僕の目の前に立つと、

 「キミの病は風邪じゃない。誰も治せない。どんなご立派なお医者さまでもだ。ただし、それを治す方法がひとつだけ、ある」

 そこでぐっと韮沢くんは僕に顔を近付けると、怖ろしいほどに真剣な目で言ったのです。

 「誰かの手に触れるんだ。キミの手が誰か他のひとに触れれば、キミは助かる。そのかわり、このままでは、キミは……、死ぬ」
 「……」
 「なんだい?ぼくはここにいるから、ゆっくり言いたまえ」

 聞きたいことはたくさんあった。どうして僕はそんな病に冒されてしまったのか。どうして誰かの手に触れるだけで僕は助かるのか。どうして韮沢くんはそれを知っているのか。そしてあの白い手との関係は一体なんなのか。

 「しろい、て…」
 「キミは見たのだろう、この窓から出ていた手を。そしてそれに触れてしまったのだろう。しかも花を媒介にしてまで。この病の奇っ怪なところはね、ただ手に触れるだけじゃだめなんだ。花を媒介にしなくてはならない。その媒介を通して病は人から人へと移っていくんだ。つまり、キミはその白い手からその病を譲り受けてしまったんだよ」
 「にら…さわ…くん、どうし…て」
 「どうして、僕が知っているのかって?」

 つと、自虐的に韮沢くんが口唇を歪めました。それはとてもやるせなくて哀しくて、何かぶつけられない怒りを内包した微笑み。一瞬、僕から目を逸らした韮沢くんは、しかしもう一度僕の瞳を真正面から見つめて、

 「それはね。僕も、この病にかかっていた者のひとりだからさ」
と、呟くような声音で言ったのです。

 「あのこはね、韮沢くん。キミがこの美しい水仙を渡したあのこは、僕が花を渡したこなんだよ。結果は真逆なものだったけれど。僕はそのおかげでこうしてまだ生きている。キミはそのせいでこうして死にかけている。
僕は、キミにはこんな思いを味わって欲しくなかった。だけれど、あのこの命が助かる機会をみすみす奪うことも出来なかった」

 ぽたり、と僕の頬にしずくが落ちてきました。そして、また一滴。韮沢くんは流れ落ちる涙を拭おうともせずに、僕を強く抱き締めると耳朶に囁きました。

 「後生だよ、倉崎くん。お願いだから生きてくれ」



 だからね、これを読んでいる君。もし君が、窓から物欲しげにその指を彷徨わせている手を見かけたら、花を一輪持って触れて欲しいのです。出来れば水仙がいいな。














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