第479話 魔女の休日
翌朝。ティナ達は一頻り精霊たちのダンスを見学して部屋に戻っていたので、目覚めはふかふかのベッドの上だった。
「う、うぅん……うにゃー……」
ねこの様にカナンが目をこする。まあ伸びをした時に漏れでた声もねこの様だった。そうして目を覚ましたカナンに対して、一足先に起きていた魅衣が告げる。
「おはよ、カナン」
「ここは……あ、そっか……」
寝ぼけ眼であったため、まだ頭はしっかりと働いていなかった。居なかったが身体の方はきちんと十二分に反応してくれていた。腹の音が鳴ったのである。理由は簡単で、獣人の鋭い嗅覚でなら捉えきれる、美味しそうな朝餉の臭いが部屋にまで漂ってきていたのである。
それに、魅衣が思わず吹き出し、カナンが赤面する。まあ、それもそのはずで、部屋の前に朝食を持って使い魔が待機していたのだが。
「おはようございます、お客様」
カナンの目覚めを待っていたかの様に、ノックが響いて扉が開く。それに引きづられる様に、ティナも目を覚ました。
「うぅむ……後5分……いや、10分……」
「ティナちゃん、いい加減起きて」
「ユスティーナ様。いい加減に起床してください。ユスティエル様に怒られますよ」
「どうせババ様は今頃地下室で秘薬の調整をしておるじゃろ……怒らぬよ……なので、後20分……」
「伸びてるし!」
使い魔の言葉を聞いて尚惰眠を貪ろうとするティナに、魅衣がツッコミを入れる。なにげに一回ずつ残り時間が伸びていた。カイトが居ない――実は隣室でカイトが寝ていることは彼女は知らない――場合の彼女の朝はこんな物だった。
居た場合は朝から模擬戦を行うので、惰眠は貪らない。カイトは貪るかもしれないが。とは言え、惰眠を貪った所で今日一日は休日なので問題は無いのだが。
「はぁ……お客様。申し訳ありませんが、少々ベッドからおどきいただけますか?」
「え、あ、はぁ……」
使い魔から告げられた言葉に、カナンと魅衣の二人は怪訝な顔でベッドの上から移動する。そうして使い魔はそれに一礼して、次いでティナが横たわるベッドの敷布団に手を掛けた。
「はっ!」
使い魔は一息に敷布団に手を掛けると、ティナが転げ落ちる様に傾斜を付けて敷布団を回収する。一方のティナはと言うとどすん、という音を立てて床に落下した。
「お食事前に失礼致しました」
使い魔はティナを床に落下させると、二人に向けて優雅に腰を折った。一連の動作には淀みが無く、完璧だった。
「いたた……誰かと思えばクシィでは無いか。お主何時も手荒過ぎはせんか……?」
「ユスティエル様より、起きない場合はこのように起こせ、とインプットされていますので」
恨みがましいティナの視線だが、クシィと言うらしい使い魔の方には一切の痛痒をもたらさない。なにせ主命がそれならば、使い魔の方がその行為による非難に感情を持つ事は無いからだ。
「むぅ……せっかくの惰眠が……魅衣、カナン、おはよう」
「あ、うん。おはよ」
「おはよう」
まだかなり無念そうだったが、目が覚めてしまったのは致し方がない。なのでティナはぶつけたらしいお尻を擦りながら立ち上がり、二人に挨拶する。そして二人からの返事に頷くと、ティナはクシィに問い掛けた。
「でじゃ……今日の朝食は?」
「いつも通りのメニューになっております」
「パンにスープ、サラダに肉、紅茶か」
「左様です」
当然だが、ティナはこの館に何度も宿泊している。それ故、この館の何時もの朝食についても熟知していた。
「パンはクロワッサンか?」
「いえ、最近ユスティエル様がバケットにハマっておられますので、バケットです。焼きたてをお持ち致しました」
クシィはそう言うと、持って来ていた台車の上に乗せたトレイの覆いをどける。するとそこにはティナが言った通りのメニューが湯気を立てていた。
覆いが外された事で周囲にはコンソメスープの芳しい香りや、焼き立てだからであろうバケットのいい匂いが広がる。それは今まで惰眠を貪ろうとしていたティナでさえ、空腹をもたらす物だった。
「では、他にご用命があればお申し付けください」
備え付けのテーブルに朝食の用意を整えると、クシィが再度腰を折る。そうして、既に三人は椅子に着いており、手を合わせて朝食を食べ始めるのだった。ちなみに、二人が合掌したのでカナンが困惑してその説明に時間を取られる事になったのは置いておく。
朝食を食べ終えた後は一緒に来ていたノース・グレイス商会の女性職員の同意を得られた事で終日休暇と相成った。まあ、なったのだが、ティナに休暇は許されなかったらしい。
即座にユスティエルから呼び出しが飛んできた。ティナはカナンを魅衣に預けると、ため息混じりにそちらに向かうことにする。
「秘薬の作り方は覚えてるかい?」
「当たり前じゃ。そもそもババ様じゃぞ、それを教えたのは」
ユスティエルから呼び出されたのは、彼女の館の地下の大鍋がある薬品の調合室だった。ユスティエルが何か別の薬品を急遽作る必要が出た、とのことでティナに秘薬の調整を頼んできた――もしくは命令とも言う――のであった。
「間違うんじゃないよ。高いんだからね」
「わかっとるよ……」
ティナは溜め息を吐きつつ、大鍋をかき混ぜる棒をゆっくりと回す。ちなみに、本来の姿に戻ったティナだが、彼女も普通に魔女達が着る黒いローブを身に纏い、黒いとんがり帽子を被っている。こうしておけば誰に見られても魔女族の一人と思われる――真実そうなのだが――からだ。
「む、少し温度が高いな。下げておくか……」
ティナは時折温度を確認しながら、秘薬の調合を行っていく。この秘薬だが、完成すれば粘度の高い白色の液体になる筈であったのだが、今はまだ粘度の低い薄いピンク色の液体だった。
というのも、この秘薬は冒険者や軍人達が戦闘で肉がえぐれた場合に、肉の代わりとして塗りこんで使う物であった。それ故、粘度が高く無ければ塗り込んでも直ぐに剥離してしまうのである。使用後にはかなり違和感があるが鎮痛作用のある液体を含んでいるおかげで痛みは一気に引いていき、ゆくゆくはその人の肉となるという便利な薬だった。
とは言え、これをだれでも作れるかというと、そうではない。秘薬と言う様に、作れるのは魔女族でも極僅かだ。ユスティエルを筆頭にアルルやティナ他、数人の魔女達だけだった。それ故、使用する薬品にしてもこの里でしか作られていない物で、この里の特産品とも言えた。
「むぅ……む? ババ様」
「何だい?」
そうして調合を続けていたティナだが、ふと、何時もと臭いが違う事に気付いた。何時もはもっと薬品臭い臭いだったのだ。とは言え、後はかき混ぜるだけとなった現状を考えれば、ユスティエルが間違ったとも考えにくかった。
「薬草の調合法を変えたか?」
「おぉ、さすがだね。変えたよ。後でレシピは渡してやる。少し手順も変わってるしね」
少しの間作業をしただけで気づいたティナに、ユスティエルが満足気に頷いた。実は薬品の調合という面で見れば、二人の間柄は師弟関係なのである。
他にもティアから魔術のイロハを学び終わったティナに対してそれを魔道具等に応用させる応用を教えたのも、彼女だった。出来なかった姉に代わって、という事であった。
それ故、腕を落としていなかった弟子に上機嫌となったのだ。そうして、暫くの間沈黙が下りて、自分の作業に集中する。だが、その沈黙を破ったのはユスティエルだった。
「で、旦那とはどうなんだい?」
「む……とりあえず、両親への挨拶は済ませた」
「そうかい。幸せにおなり」
二人共、お互いにお互いの作業をしていたのでどんな表情をしているのかは見えない。だが、ユスティエルの声には祈る様な声音があり、慈しむ様な声音だった。それを受け、ティナが少し気恥ずかしそうに告げる。
「式には呼んでやろう」
「期待しないで待ってるよ」
二人共、かなり気恥ずかしそうにしていたのは自分だけの秘密だ。そうして暫く、沈黙が下りる。それを破ったのは、次もユスティエルだった。
「よし、これでいい」
ユスティエルは何らかの薬品の調合を終えると、それを大きめの瓶の中に入れていく。量としてはかなりの量で、一回に使える物では無さそうだった。
「ほら、持って来な」
ティナと秘薬の調合を交代して、顎で瓶詰めの薬を指し示す。どうやら彼女に渡す為の薬品を作ってくれていた様だ。
「あの娘がもし辛そうにしてたら使ってやりな。寝る前とかに使う様な天族の香は効き始めるまでに時間が掛かるからね。危急性が高い時には、こっちの方がいい」
「……そうか、ありがたく貰っておこう」
ティナは瓶の横に置かれていたメモから薬の名前と薬効を把握し、ユスティエルに礼を告げる。そもそもカナンの容態はかなり持ち直しているし量も多いので、確実にカナンを名目とした土産だろう。
薬としては即効性が高く効果も高い物だが、それ故にデメリットもある薬品だった。帰ってからはミースに預けるのが正解そうだった。
「さて、もう用は済んだから、後は好きに……おっと、もう出来上がったね。ついでだしプロクスんとこの副社長を呼んできとくれ。アタシはこの薬品の瓶詰めをしとくからね」
「はぁ……うむ」
この老婆の姿を偽っている女性にだけは、なぜかティナは逆らえなかった。その理由はティナはわからないのだが、心の何処かで何かが自分との関係性を告げていたのだろう。それ故、ティナは文句を言いつつもユスティエルの命令を受け入れる。
そうして副社長と一緒に居たアルルを連れて再び地下室に戻ってきた。ちなみに、副社長は瞬達に荷降ろしを依頼した女性職員だった。この場に入れる上に曲がりなりにも族長相手に商談を行うので、副社長が直々に出て来たのである。
「ほら。出来たよ」
やって来た三人に対して、瓶詰めを終えたユスティエルが使い魔達に秘薬を運ばせて来た。ちなみに、さすがに地下の調合室で商談をするわけにもいかないので、場所は館の応接室だ。
「今回の出来はどうでしょうか?」
「いつも通り、と言いたいとこだけど、ちょっと配合を変えたよ。嗅いでみな」
瓶の一つを副社長に手渡し、瓶の蓋を開ける様に指示する。別段開いた所で品質に影響は無いので、副社長は迷いなく瓶の蓋を開ける。
「薬品臭さがかなり無くなっていますね……」
「少し前にも薄めたけど、これで随分と使いやすくなった筈だよ」
「ふむ……瓶の総数は?」
「幾らだい?」
「全部で100瓶です」
ユスティエルの言葉を受けて、瓶詰めを行ってここまで運んだクシィが副社長に告げる。それを受けて、副社長が少し考えこむ。
「すいません、少し社長と相談していいですか?」
「ああ、構わないよ」
副社長は少し悩んだ挙句、プロクスと相談する事を願い出る。別にユスティエル側に不都合があるわけでも無いので、ユスティエルは直ぐに許可を出した。
それを受けて、副社長は小型の通信用魔道具を取り出し、結界の外に待機しているプロクスと相談をし始める。ティナが密かに聞き取った所によると、どうやら品質の向上から売値を少し釣り上げても良いのではないか、と提案している様子だった。
似たような薬品は無いでは無いが、どれも薬品臭さが抜けきっていない。一歩抜きん出た品質の商品が新しく出来たなら、少し高値にしても売れるのだ。
「今後量産は可能ですか?」
「ああ、可能だよ。アルルーナにも教えるから、次からは倍。それで問題無ければ他の娘達にも教えるから、その頃にはウチの秘薬は全部それだね」
「そうですか……」
ユスティエルの言葉を受けて、副社長は再びプロクスとの相談に戻る。そうして暫くして結論が出たらしく、通信用の魔道具を再び懐にしまい込んだ。
「申し訳ありません、お待たせ致しました」
「別に構わないよ、それで?プロクスはなんて?」
「はい、何時もの一割増しでどうだろうか、と社長は言っています。それでどうでしょうか?」
「……アルルーナ、ユスティーナ。お前達はどう見る?」
今度はユスティエルが消音の結界を展開して相談をする側に回る。それに、二人は一度顔を見合わせた。
「ふむ……余としては了承じゃな。悪い話ではない。一割であれば、新薬としては妥当であろう」
「私もそう見る。1.5倍では暴利だ。元々高価な薬品である以上、そのぐらいが妥当だろう」
「そうかい。じゃあ、了承だね」
そうしてユスティエルは結界を消失させると、副社長へとその旨を告げる。
「有難う御座います。では社長に伝えますので、少々お待ちください。その後、直ぐに代金をお持ちしますが、薬品の荷運びに再びゴーレム達をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「アルルーナ。案内してやりな」
「ああ。連絡が終わったら直ぐに出るぞ」
「有難う御座います……あ、社長……」
そうして再度プロクスに連絡を取り始めた副社長だが、単に商談の成立を伝えるだけなので、連絡は直ぐに終わる。
「では、有難う御座いました」
「はん、こっちも商売で売ったんだ。別に礼はいいよ」
素っ気ないユスティエルの言葉を背に、アルルと副社長は再び出て行くのだった。
「ティナ。あんたも帰っていいよ。お嬢ちゃん達を待たせてるんだろ」
「その横合いからかっさらったのはババ様なんじゃがなぁ……まあ、良い。偶にはババ孝行もせねばなるまい。では、余も行く事にしよう」
元々庭園を案内する予定だったのだが、それを横合いから呼び出したユスティエルに苦笑し、ティナもその場を後にする。
実はこうして呼び出されることは度々あった。幾ら暗示で性格を変えていようとも、ティナが心配な性根だけは変えられない。それ故、時折呼び出しては近況を聞いていたのであった。
「あ、ティナちゃん。用事終わったの? って、薬臭!」
「んぁー……はながひんまがりそう……」
どうやら長時間薬品臭い調合室に居たからなのだろう。ティナにはしっかりと薬品の臭いが染み付いていたらしく、獣人として嗅覚が強いカナンは鼻を押さえ、獣人でさえない魅衣が不快感を露わにする。
「む……しまった。香り袋は持って来とらんのじゃった……すまぬ。一度風呂に入ってくる。もう少し待て」
ようやく薬品臭い事に気づいたティナが、大慌てで部屋に戻っていく。実は何時もはあの部屋に入った後には香り袋を携帯して薬品臭さを緩和する事を欠かさないのだが、今回は急な呼び出しであった事と何時もと違う状況から、うっかり忘れてしまったのだ。
そうして、道半ばとなった今回の遠征の折り返しの一日は、結局何時もと変わらないドタバタとした一日で幕を下ろすのであった。
お読み頂き有難う御座いました。本日も断章の更新は22時です。
次回予告:第480話『合流』