第375話 影の中で ――皇国の暗部――
今回でハインリッヒの関連にケリを付けたかったので、少々長いです。ご了承ください。
*連絡*
第十九章が長かった為、進出編と御前試合編で分けました。
「くそっ! 何故こんな事が起こり得る!」
最後の最後で脱落したハインリッヒは、忌々しく吐いて捨てた。これから最後の授与式になっているが、別に脱落した選手が出る必要は無かった。
と言うか、皇帝主催の御前試合である以上、皇帝レオンハルトが優勝者達に労をねぎらう必要がある。あまり数が多いと警戒がしにくい。なので授与式の参列は優勝者だけ、になっていたのである。これは通例なので、彼が去った所で問題はなかった。
それ故、授与式に向けての準備が大急ぎで行われ、後は優勝した選手たちの入場を待つだけとなった今、周囲には人影がいなかった。
「……まて、何故誰もいない?」
何時もなら、出る前には取り巻きの貴族たちが出迎えでも良い筈であった。しかし、闘技場の通路は閑散としており、それどころか闘技場の係の者さえ、何処にも見当たらなかった。そこに響く、軽いコツ、コツ、という足音。足音の軽さから、女性の物の様であった。
「……しまった!」
ハインリッヒはそこで、結界に取り込まれたことを悟る。完全に油断していたのだ。皇帝レオンハルトは当然として、この戦いにカイトを引っ張りこんだ張本人として第7皇女アンリ、他数人の皇子や皇女達もこの闘技場に来ている。
更には、参加者の一人である自分は皇族、しかも次期皇帝と目される皇子だ。それは即ち、この場で皇族に何かあれば皇国の面子に泥を塗る結果となるのである。
それ故、今この闘技場には厳重に厳重を重ね、見えない所にも何人もの警備兵達が複数配置されている。皇子達の中にも密かな政敵が居るハインリッヒとて、彼らを貶めようとは思わない状況だ。だからこそ、逆に安全であると安心しきっていたのだ。
「誰だ!」
ハインリッヒは護身用に何時も持ち歩いている両手剣を鞘から抜き放ち、足音に対して誰何する。結界内に他に気配は無く、この足音の主こそが結界の主である事はほぼ確実。警備が厳重な闘技場で皇族である自身を捕えている以上、敵でないはずがなかった。
「あら、もうお帰り?」
そうして表れたのは、メイド服の小柄な美少女だ。端正な顔付きで、十人が十人美少女と認める美少女であった。言うまでもなく、第一皇女シアだった。
「お前は……なぜここにお前が居る!」
だがそれ故、なぜこの場に彼女が居るのかが不思議でならなかった。彼女は皇城から滅多に出ないはずで、今回の御前試合にも来ていなかった筈なのだ。
「これから授与式よ? 貴方も選手なら、せめて待機場にでも居た方がいいんじゃない?」
シアはハインリッヒの問い掛けを無視し、道理を説く。それに、ハインリッヒが警戒を解いて、武器を仕舞う。彼には何かシアに掣肘される様な事をしている、という印象は無かったのだ。それ故、<<皇室守護隊>>の総隊長であるシアに対しても、警戒する必要が無い、と判断したのだ。
「ふん、そんなことを言うために結界を張ったのか……くだらん。別に俺が勝者でも無し。敗者は去り行くのみ、で構わんだろう」
警戒を解いたハインリッヒだが、それは身辺に関する事だけだ。シアの前で迂闊な言動は出来ない。それ故、彼は内心の忸怩たる思いを一切見せず、堂々たる態度を見せる。そうして、一歩歩いた所で、金色の髪が消えた。
「油断よ」
ふっ、と一瞬で消えたシアは、ハインリッヒの後ろに回り込む。そうして、そっと差し出された短剣の冷たさをハインリッヒは喉で感じた。
「何!?」
全く見えなかった、ハインリッヒの顔が全てを物語っていた。
「喉……右脇……心臓……眉間……右手……左腕……」
シアはハインリッヒに察し得ぬ速度で動きながら、彼の身体の各所へと幾度も短剣を突き当てる。全てが、人体の急所だ。それを完全にシアは捉えていた。
その間、ハインリッヒは身動き一つ取ることが出来なかった。殺気こそ乗っていなかったが、迂闊に動けないだけの威圧感が彼女の存在から感じられたのだ。
「……どう? 分かった? 貴方は皇族で最強を気取っていたらしいけど、私にも劣る程度の実力しか無いわよ」
シアはいつの間にか小刀を何処かへ収めると、呆然としているハインリッヒへと告げる。
「後は、これ」
緊張がほぐれて呆然となるハインリッヒへとシアは羊皮紙を手渡す。
「……これは……」
手渡された羊皮紙を見て、ハインリッヒが首を傾げる。彼の支持を表明している貴族達の一部を書き記したリストであった。しかし、彼にはそれ以外の共通点がわからなかった。
「……そ、哀れね」
彼の顔に浮かぶ疑問を見て、シアは彼が利用されていた事を改めて悟る。改めて、なのは既に把握していた事だからだ。
まあ、だからと言っても少しは慈悲を掛けてやるか、という程度にしかならないのだが。
「そいつら全員、皇国貴族関連法第13条とか色々な規約違反で捕えた貴族のリストよ。貴方の権力を傘に着て、良いようにしていたみたいね」
「なっ!?」
「最悪なのはそこの赤字ね。そいつら、奴隷売買をやってたみたいよ」
皇国貴族における奴隷売買は、見つかれば即時死刑が言い渡される最悪の罪の一つだ。一切の減刑無く、お家取り潰しは確定。全てを失う罪であった。
これは仕方が無い。皇国の興りと今までの歴史を考えれば、一罰百戒でそれぐらいの断罪が為されなければならないのであった。
「ま、それだけであった事は救いね。今貴族位を与えたいって申請がそれなりに多いから、帳尻が合うレベルよ。土地についても幾許かの空きが出るから、嬉しい限りよ」
何処が救いな物か、ハインリッヒは真っ青になりながらそう思う。そうして、シアが笑いながら続けた。
「……何が言いたいか分かるわよね?」
「くっ……!」
ハインリッヒは奥歯を噛み砕かんばかりに噛み締めた。幸い、このリストにある貴族の中には、自分の後ろ盾であるシルバリア侯爵の名前は無い。だが、しかし。
「ハプトクロエ侯爵弟ハプトクルス伯爵、シルバリア侯爵の甥シルバリエ子爵、ミニスタリア辺境伯……」
名前を聞いて、ハインリッヒの顔が苦悶に歪む。全て、リストの上部に乗っていた名前だ。侯爵の甥である子爵に至っては赤字であった。
「貴方の支持者の中でも有力貴族達の門弟。それが咎人とあっては、侯爵、ひいては貴方の求心力は低下するわ」
「何が望みだ!」
ハインリッヒが大声を上げる。その声は、叫び声に似ていた。それに対して、シアはもう一度、同じ言葉を告げる。
「既に言ったわ。何が言いたいか、分かるわよね、と」
ここは暗闘と術中権謀渦巻く皇国貴族界だ。この意味がわからぬ様では、やっていけない。彼女は言外に、皇位継承権を破棄しろ、と言っているのだ。だが、飲めるはずが無かった。
「ふん、俺以外に誰がなる!? 親父は既に四十を超え、そろそろ皇太子を指名しなければ地盤固めを出来ない年齢だ!」
シアの言葉に、ハインリッヒが怒声を飛ばす。大陸最大国家であるエンテシア皇帝の公務は激務だ。それ故、在位期間が20年も満たずに亡くなる皇帝は少なくない。
平均は15~20年程度で、現皇帝レオンハルトは既にその平均値に差し掛かっていた。まあ、これは彼の即位が早かった事もあるし、彼は武芸者として、運動も欠かさない。実際にはもっと伸びる事は確実だ。
とは言え、皇帝が激務であることには何ら変わりない。普通では50を過ぎる頃には身体が追いつかなくなり、50歳の誕生日と同時に隠居する皇帝も少なくない。これは激務に耐え切れずに急死し、政治的混乱を避ける避ける為でもあった。
そして、それを考えるなら、そろそろ現皇帝レオンハルトは皇太子を選び、その者に地盤固めをさせなければならない時期であった。
「兄貴は何処ぞのメス猫と出奔し、あんたは結婚が嫌でのらりくらりと隠居中。メルは家出の真っ最中。何処に居るのかさっぱりだ。出てきた所で貴族との政略結婚が嫌で逃げ出した奴を支持する物好きな貴族はいまい。リズは若い。フィアは変人に入れ込んで研究所に入り浸り。他にも皇位から逃げている奴は山ほど居るぞ? ほら、俺以外に誰が居る?」
シアに語りながら、ハインリッヒは次第に余裕を取り戻していく。確かに、傷は浅くは無いが、覆えぬ程では無い、と思ったのだ。そう、彼が思っているだけで、だったが。
「そ、なら5公爵の5人にもそう伝えておくわ」
「今まで動いていない半隠居状態のハイゼンベルグ公が、今になって動くか? 他に唯一動くとすればマクダウェル家だが……あそこだけは、俺に対する排斥にまでは踏み出せまい。皇族の廃嫡に関する提言は公爵以上の地位に与えられた物だ。その領分に踏み込む事は、あくまで代行と言い張るあの二人の沽券に賭けて、やらないだろう」
「ええ、だから言ったのよ。5公爵の5人に伝える、と。お家や代理じゃ無いわ。当人に、よ」
「……何?」
さすがに彼もこの言葉には訝しみを浮かべる。5人、という事は即ち、勇者カイトも含まれているのだ。耳を疑うのは当然だった。代行の一人であるアウラが帰還しただけで、大陸全体で大々的にお祭り騒ぎとなるのだ。
勇者本人が帰還すれば、大々的所では済まず、まずエネフィアで連日連夜の大騒ぎである。それが伝え聞こえない以上、彼の認識は未だ勇者は帰らず、であった。
「あら、気付かなかったの?」
ハインリッヒに、明らかに哀れみを含んだシアの視線が投げかけられる。
「さっきまで鉾を交えていた一人に、勇者はいたわ。ええ、勝手な想像だけどね」
勝手な想像と言う割には、自信満々に言い切っていた。しかし、勝手な想像という彼女の言葉は、ハインリッヒに冷静さを取り戻させるには十分であった。
「なんだ。単なる勘か。血の力でも使ったか? そこまで便利な物だと思っているとはな」
シアの言葉に、ハインリッヒが少しだけ嘲りを浮かべる。実はハインリッヒは、血の力は弱かった。それ故、全員その程度なのだろう、と勘違いしていたのだ。
「じゃあ、賭けてみる? ハイゼンベルグ公が本当に隠居しているか否か、勇者カイトか否か、に。そうね、私は数日後にでも、スカーレットの帰還を彼らに伝えるわ。そこから、どう動くか見てみましょう?」
「何!?」
シアの言葉は、ハインリッヒに驚愕をもたらす。これは、彼が知り得なくても仕方がない情報だった。そして嘘と考えにくい事でもあった。すでに家出して2年だ。死んでいない事は確実である以上、帰還しても可怪しくない頃だった。
皇帝から最も信頼されているシアであれば、それを知っている可能性は十分にあったのである。
一応彼も独自のコネクションを持っているが、それでも国で最高の諜報機関を抱えるシアよりは下だ。わからなくても無理は無かった。
「まだ、よ。でも帰るのは事実。もう近くまで来ているわ。ずいぶんと腕を上げた、とお父様が密かにお喜びよ」
笑いながら、シアはハインリッヒに彼唯一の対抗馬となり得る少女の帰還の情報を更に開陳して、更に、彼の考えているだろう手を潰す事にした。
「刺客を放つならやめておきなさい。少なくとも、今のあの娘は皇国で有数の暗殺者を放った所で、勝ち目は無いわ。暗殺者で勝てるとしたら、マクダウェル公爵家のマクヴェル兄妹ぐらいでしょうね。それに、姉に暗殺者を放った事がバレると、如何に次期皇帝候補の貴方といえど、廃嫡は免れない」
いくら貴族同士の定めであれど、現皇帝レオンハルトは皇族同士での暗殺を認めてはいないし、嫌悪している。と言うか、どう考えても国にとって悪影響にしかならないので、厳に禁じている。
すぐ近くまで帰還している事を皇帝が知った今、彼には手出し出来ない、ということだった。密かに護衛を付けている事は確実だからである。そうして、シアは悪辣な笑みを浮かべる。
「さあ、賭けましょう? 私があの娘の帰還を告げて、5公爵がどう動くのか。私は、彼らの義務に賭けて貴方を排除に掛かる、という方に賭けるわ。なら、今引いて大人しくしておくのが、良い手だと思うわよ? そうすれば少なくとも、婿養子として貴族としての地位は保てる」
自身の選民思想をハインリッヒは甘く見過ぎていた。これは若さ故の過ち、だろう。多くの貴族達が密かに彼を支持していたのも、それ故だ。
まだ10代後半の若者だからこそ、痛い目を見れば選民思想の矯正も可能だろう、と見られていたのである。
だが、今のままでは無理だ。選民思想があるし、支持者の失態も大きすぎる。だからこそ、ここで一度失脚させておこう、と判断されたのであった。そうして、シアは最後通牒を突きつける前に、問い掛けることにした。
「一つ、聞いておくわ。貴方、その選民思想、どこの誰に垂れ込まれたの? それとも、自分でそれが正しい、って思ったわけ?」
「何……? それは……俺の……考えにきまっている」
問われた意味がわからない、とハインリッヒ首をひねるが、それでもはっきりと自らの意思であると述べる。それに、シアがため息を吐いた。
「……そ。それさえも、分からない……哀れね。姉として、最後に教えてあげる。この皇国では、何があっても貴族達に選民思想を許容しない。それは、どれだけ小さな物であっても、よ」
「……それほど、だったか?」
「これでもわからないのね……貴方はもう一度皇国の成り立ちから勉強し直しなさい……いえ、そう感じる様に非魔術で洗脳された?……まあ、良いわ。後で調べるもの……とりあえず、あなたはここで失脚する。再起出来るかどうかは、あなた次第」
言われて尚、理解出来ないハインリッヒに、シアは幻滅する。そうして、彼女は今では皇族にのみ現在も伝わる真実を語ることにした。
「貴方は言ったわ。生まれで全てが決まる、と。そして、高貴なる身分は始めから決まる、と」
彼女も騒動の全てを聞いていた。それ故、彼の言葉を全て把握していた。そして、支持者達の暗躍も把握している。
だからこそ、彼女は動いた。貴族達に支持者達の事が知られ、初代皇王が敷いた叛逆許可が使われない為に、だ。今の彼の言動を含めれば、彼は支持者達の行動を敢えて見過ごしている、と取られかねないのだ。
ここで失脚させるのはある意味、姉としての慈悲でもあった。第一条が適用されれば、生命さえ危うい。それを避けるのなら、ここでの失脚は必要だった。
「私達の始祖は異なる世界の高貴なる身分にして、この世界で実験動物に落とされた存在。最底辺の最底辺にまで落ちた者。そして、その立場に落とされた元凶を嫌というほど理解していたわ。貴族主義と選民思想という、全ての発端もね」
そこで、ハインリッヒははっ、となる。彼は、漸く理解、いや、思い出した。自分は皇国初代皇王が敷いた暗黙の了解にして、絶対法に挑んでしまっていたのだ。
元凶、と言う意味であれば、初代皇王が実験動物に貶されたのは奴隷制度だ。しかし、その歴史を紐解けば、選民思想が原因だった。
だからこそ、初代皇王は奴隷制度を禁止し、暗黙の了解として選民思想をなるべく排するよう、貴族達に命じたのである。
遺憾なことに、その来歴を忘れた数代後に奴隷制度は復活し、300年前の英雄たちが撤回するまで続く。
しかし、確かに、そこで思い出されたのである。再び思い出されたが故、もう一度は有り得ない。貴族の義務として、許されるのは一度だけだ。二度目は許されない。
その一度目はもう終わったのだ。もうどの貴族も容赦はされない。誰よりもハイゼンベルグ公ジェイクが容赦しない。それは、喩え皇族であっても、であった。
だからこそ、これは慈悲であり、皇族の自己浄化が働いている、という必要不可欠な見せしめだった。
「分かった様ね。もう、貴方は終わっているの。すでにハイゼンベルグ公が5公爵と共同で動いている。貴方達は全員泳がされていたの。貴方は後ろでこそこそと犯罪を犯す貴族に気付けなかった。それは皇帝となるなら、有ってはならぬこと」
実は、選民思想云々は、失脚の切っ掛けにもなっていなかった。それに加えて、支持者達が奴隷売買という最悪の罪を犯した事に対する幕引きが、彼の失脚だったのである。
「彼らが動くにも、きっかけが必要だっただけ。それが、勇者カイトという、闘技場で負けなしという武を誇る貴方を簡単に叩き潰してくれる相手だった、というに過ぎないの」
真っ青になるハインリッヒへと、シアは告げる。確かに倒したのは瞬だが、彼が負けても、公衆の面前でカイトが叩き潰すだけだった。必要だったのは、彼の求心力を低下させる赤っ恥だったのだ。
彼女は依頼や嘆願をしていたわけでは無い。シアは彼に、今の彼では皇位継承が無い事を告げに来ただけであった。そうして、彼は全てを把握した。もはや自分に勝ち目は無い、と。
「フィニス、連れて行きなさい」
万策尽きて呆然としているハインリッヒをもはや見る事無く、シアはいつの間にか側に控えていた従者へと告げる。フィニスは小さく一礼すると、何らかの術式を使用してハインリッヒの意識を刈り取った。
「彼にはかの勇者帰還の可能性についてを教えたわ。その記憶は消しなさい。今はまだ広く知られるべき時では無いわ」
シアはフィニスに記憶の削除を命ずる。皇子に対する非人道的な行いとカイトの帰還が表沙汰にならない利益を考え、皇子を捨てたのである。そうして、彼女は更に続ける。こちらの方が、重要だった。
「それと、誰に選民思想の萌芽を植えこまれたのか。それを調べなさい。選民思想が刷り込まれているのは問題よ。それは侯爵である以上、絶対に知らないはずがない。確かハインリッヒは侯爵家が教育者を選んだはず。彼のあずかり知らぬ所で、誰かが入れ知恵をしているはずよ。必ず、その尻尾をつかみなさい」
「かしこまりました。記憶の精査が終了次第、すぐに侯爵家周辺に調査員を派遣します」
「そうして頂戴」
フィニスの答えを受けて、シアが頷く。皇族に選民思想、という時点で、実は5公爵の誰もが可怪しいと考えていた。激昂したカイトでさえ、落ち着いて考えてみて、裏に何かがある、と思ったぐらいだ。
今の今までハイゼンベルグ公ジェイクに動きが見えなかったのは、それ故だ。敵が居る可能性がある以上、動きを隠していたのである。泳がせていた、とも言える。
「後、各諸侯に内々に連絡する用意をお願い。どちらにせよ、監督不行き届きの幕引きは必要よ。失脚は確定。時期については追々指示するわ」
シアは更に幾つもの手筈を整える。当たり前だが、最有力候補が失脚するのだ。混乱は免れない。それを抑えるのなら、幾つもの準備が必要だった。
そうして、それが終わった所で、結界が解けて、外の声が聞こえてきた。何時までも結界を展開していれば、誰かには気付かれる可能性があるからだ。
『んじゃあ、これで御前試合の全工程は終了! いや、まさかニホンのガキ共がここまで健闘するたぁ思わなかったぜ! 全員、こいつらを拍手で見送ってやろうぜ!』
珍しいヴォイスの健闘を讃える声に、観客たちが大声援と拍手をもって送り出す。もう少しすれば、ここにも観客や選手たちが溢れかえる事だろう。なので少女は、その前に帰る事にした。
「まあ、当たり前よね。彼は勇者。目の前に立っても気付かないハインリッヒが皇族として可怪しいだけよ。血の力が薄いから、仕方が無いのだけれども……それが尚更、選民思想に拍車を掛けたのかも知れないわね……まあ、幼いアンリだって気付いたのだから……ね?」
シアは横を向いて、幼いドレス姿の少女にくすり、と笑いかけた。ハインリッヒは途中から、アンリが来ていた事にさえ、気付いていなかった。
「はい、お姉様。いい具合に隠蔽になってくれましたの。あのおかげで、勇者カイトは皇族の血の力が弱まっている、と勘違いしてくれましたの」
彼女もまた、カイトが勇者であると気付いていた。だからこそ、優雅な動作に見惚れたフリをして、驚きを隠したのだ。その程度、幼子であれ皇族である彼女に出来ぬはずが無かった。実は現代の皇族も、カイトが思う以上に、初代皇王の性質を受け継いでいたのである。
とは言え、ハインリッヒは、その中でもかなり薄かった。というわけで、カイトにはそれを平均だ、と思い込んで貰ったのである。
「よく分かったわね。よろしい」
アンリの言葉に、シアが満足気に頷く。この幼い皇女は、シアの考えに気付けていた様子だった。そう、ハインリッヒは、体の良い偽装工作になってくれていたのである。
他にも誰も反応しなかったおかげで彼を平均値だ、と思い込んで、カイトから皇族に対する幾許かの油断が生まれていたのだ。意図しない事であったが、これは嬉しい誤算だった。
「これで、策は成った。流石に遊んでいる程度でも剣士・ササキコジロウを相手に戦い抜ければ、どの貴族達もこぞって縁を得ようとする。それは道理。そして貴方は懐の内側に入り込まれれば、弱い。手の中に入られると、それを守ろうとする。喩えそれが敵でも、ね。私の旦那様は貴族にしては、聞いている通りに、難儀な性格ね」
シアはくすり、と笑みを浮かべて大昔の仲間の手のひらの上で踊らされているカイトに密かに告げる。
そうして、フリルの付いた可愛らしいメイド服を翻し、金のツインテールを揺らし、最後の手筈を整えに行くのだった。
お読み頂き有難う御座いました。
次回予告:第376話『ノブレス・オブリージュ』