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第15話 蝿の王
 その日、私は学校からまっすぐ家に帰らず、市街地のほうに向かっていた。
 電脳水のサンプルも手に入って、本当はすぐにでも決闘場所の下見に行きたかったのだが、次の日は私のほうが空いていなかった。メガマスとの契約、いや強制で、毎週木曜日は金沢のメガマス病院で診察を受けている。第1回の先週は身体検査みたいなことと簡単な問診だけ、今度が2回目の受診だ。

「天沢さんは手がかからないから助かるわ」
最近大黒から異動してきたという看護師が私に話しかけた。
「幼児じゃないんだから当たり前ですよ」
私は少し笑顔になって答える。
「そんなことないわ。患者さんて本当にいろんな人がいるんだから。大黒にいた頃なんて、病室でサンマを焼こうとしたお婆ちゃんまでいたのよ」
「ははは、まさか」
冗談を言って私を元気づけようとしてくれるこの看護師と話す時間が、気づまりな診察の中で唯一息をつける機会だった。どうしてか、この人は他人とは思えないような気がする。
「準備ができた。来てもらって」
急に衝立の向こうから無機質な声が響いてきて、私は憂鬱な現実に立ち戻った。看護師に付き添われて診療スペースに入る。
 目前の医師の名前を私は知らない。病院の関係者なら誰もが胸に提げているIDカードを、この医師に限って付けていないのだ。それに、顔の下半分は大きなマスクで被われ、反射する蛍光灯の光でメガネの奥の目付きもわからない。唯一見えるのは、整然と、しかし無個性に整えられた頭髪だけだ。街ですれ違っても、私は彼を見分けることができないだろう。
 前回と同じ通り一遍の診察を終えて、医師が言う。
「今日と先週の診察の限りでは身体に問題はないようだ。日常生活で違和感を感じることは?」
「急に運動すると動悸がありますが、入院で体力が落ちていたせい――」
医師は手で私をさえぎった。
「君の判断まで言わなくてもいい。持久力を高める運動をしなさい」
「それは指示ですか、助言ですか」
「指示だ」
私は黙って頷く。よそよそしい雰囲気ではあるが今日も特別なことはなく終わるかと緊張を解いた矢先、何でもないように発せられた医師の言葉に私は凍りついた。
「では次に、イマーゴの力を使ってもらう」
「えっ、そんな。先生、それは危険です」
看護師も驚いたと見え、私をかばうように立った。
「大丈夫だ。万が一重篤な発作を起こした場合でも、緊急入院の手筈を整えてある」
「そんなこと言ってるんじゃ」
「黙りなさい」
医師は私に向き直った。
「君は冷静な子のようだから、率直な話をしよう。私は本社から特命を受けて、全権で君の診察を担当している。本社の指示は、優先順位の高いほうから順に、君の生命を守ること、イマーゴが人体に与える影響を明らかにすること、君の健康を守ること、だ。匙加減が難しいところだが、私は君が入院しない程度にイマーゴの記録を取ることにした。これは君の側に大幅に甘い判断だと考えているよ」
医師は私に向かって笑った、ように見えた。
「解釈によっては入院させて実験動物扱いという選択もあった、とでも言いたいのか」
かえって緊張を強めた私に、医師は淡々と応じる。
「極端な例だが、そういう可能性がなかったとは言えまい。要するに、私は本社の指示に最小限則った上で、君の自由を最大限確保しようとしている。私の指図に従うか従わないかは君の勝手だが、従わなかった場合、事態が良いほうに転がらないのは確かだ」
「お前が私の便宜を図る理由は?」私は警戒を緩めない。
「これは……しっかりした子だ。確かにいくら君をかばい立てしたところで、私に利益はない。不自然に映るかもしれんな。私が君を贔屓するのは、そう、素朴な倫理感……、いや、もっと単純に君に同情しているからだ。正直に言って、子供で実験をしているような本社のやり口は気に入らない」
信じられない。
「それなら病院を辞めて告発でも何でもすればいいだろう」
医師は自嘲気味に笑う。
「ふふ、そうできないのが私の愚かなところではある。研究者としての私にとって、メガマスはほぼ理想的な環境の提供者だ。時々君のような被験者の診察を行いさえすれば、私はここで昔ながらの学問至上主義的な研究を続けることを許されている。それに、生活者としての私から見ても現状は切り捨てがたい。実は私にも娘がいるものでね」
「日和見主義のエゴイストめ」私は軽蔑を込めて吐き捨てた。
「ああそうだ。宗教を皮肉ったことわざで、イワシの頭も信心から、というのがあるだろう。資本主義もそれと同じだよ。子供じみた所有欲が絡まり合って繁殖した虚像以外の何でもない。せいぜい豚の頭がいいところだ。私はその豚の頭をさげすみながら、それにまとわりつくことでしか生きていけない無数の蝿の1匹にすぎんよ。だがその蝿と利害が合致するなら、君がそれに従うことに異議はあるまい」
医師の言葉は自虐的なものだったが、それを話す口ぶりはむしろ挑戦的と取れた。同じ環境に置かれれば、誰であっても、たとえお前でも私と同じことをするのだと、彼は暗に語っていた。
「わかった。今のところはお前に従おう」
私は答えた。この男の言葉を鵜呑みにはできないが、メガマスが私に課した処置が存外軽いものだったことも確かだ。
「物分かりのいい子だ」医師は頷いてカルテを取る。
「では始めるとするか。今日はごく簡単なものでいい。そこにある花瓶を暗号で破壊してみてくれ」
「あんたの頭でもいいかな」
「お好きにどうぞ。いずれ経費で落ちる」
私は医師を無言でにらんだ後、花瓶へ視線を滑らせた。
 集中力を高め、思考の回路をイメージした。すぐに明確になった像を心の外部、花瓶へ移す。瞳孔が締まる。
 花瓶には変化がなかった。
 そんな馬鹿な。一瞬うろたえて、それから再度同じ行為を、1つ1つの手順を意識しながらやり直した。
 やはり何も起きない。
「どうした? できないのか」私の異変を察した医師が訊ねる。
「待ってくれ、ブランクがあったから調子をつかんでいないのかもしれない」
私は立ち上がり、にわかに立ちのぼる不安を抑えつけて、精神を統一する。針穴を通すほどに思念を細く鋭く研ぎ澄まし、それが最高潮に達した一瞬を捉えて、力を放った。
 うまくいった、会心の出来だ。そう思って花瓶を見やった私は愕然とした。
 全く損なわれていない。花瓶は私を馬鹿にしたように、つるりとした表面にうすっぺらい蛍光灯の光を映している。
「そんなはずは……そんなはずはない」呟きが半ば茫然と溢れ、私は椅子に崩れ込んだ。
 イマーゴの力が、無くなっている?
 プロメテウス。数週間ぶりににその言葉が頭に浮かんだ。そうだ、私はまだ大丈夫。最悪じゃない。
 でも待って、プロメテウスの罰とはなんだった? 永遠に続く恐怖、永遠に癒されない絶望、永遠に報われない苦しみ。永遠に? 永遠に戻ってこない力?
「天沢さん、大丈夫!? しっかりして」
視界がぐらついて、椅子から転げ落ちそうになった私の肩を看護師が支えた。
「もう1度だ。頼む、もう1度やらせてくれ」

 同じ台詞を何度繰り返しただろう。少なくとも10回以上は試みと挫折を繰り返した頃、ついに体が震えて花瓶をまともに見ることもできなくなった。
「もういい。やめよう」扉が閉じる重い音で医師が言った。
「よくない……できるんだ、やらせてくれ。信じてないのか」私の声は上ずっている。
「信じていないのではない。だが、無理に続けても意味がないということだ。今の君の精神状態では、データを取ったところで一般的なものとしては使えない」
「そうよ、今日はもうゆっくり休んで、また来週にしましょう」
顔を両手で覆った私に、看護師がいたわりの声をかける。
「はい」喉から絞り出すように返事をした。私は目を閉じて、どれだけ否定しても次々に生まれるどす黒い絶望と必死に戦い続けた。

 それからしばらく時間の感覚がなかったから、どれだけ経ったかわからない。医師の質問の声が耳に入って、私は我に返った。
「答えられるようなら教えてくれ。最後にイマーゴの力を使ったのはいつになる?」
「……1ヶ月くらい前」
小学校のビルで倒れたあの日以来、イマーゴは使っていない。
「君はこれまで、それほど長く力を使わなかったことがあるかね?」
「ない」
「今までに、スランプを起こしたことや能力が使えなくなったことは?」
「そんな経験はない」
「力に好調不調の波はあった?」
「ないわけじゃないが、あくまで調子がいい、悪いくらいだ」
「君の入院は表向き階段から落ちたことだが、実際にはイマーゴの副作用だね。入院のしばらく前から身体への影響が起きていたと思うが、それと君の能力の間には相関がなかったのか?」
「なかった。ここ数ヶ月で頭痛や胸の痛みが始まって、急に激しくなったのは確かだけど、それと私の操れる力の大きさ自体には関係がない」
話していると少しずつ気持ちが落ち着いてきて、私は頭を上げることができた。
「すまない、取り乱した」
「構わんよ。今日はこれくらいにしとこう。調子が戻るまで控室のベッドで休んでいってもいいが」
「いや、大丈夫」
「そうか、ならこれを」医師は回数券のようなものを差し出した。
「タクシーチケットだ。どうせ今後も使うからまとめて渡しておく。私用に使っても構わん、経費で落ちる」
「ああ」受け取りがてら、意を決して訊ねた。
「私の能力、消えてしまったのだろうか」
「わからん。今まで私はイマーゴの子供を何人も診てきたが、力が消えたというケースは経験がない。いずれにせよ即断はできない」
医者らしい慎重な返答の後、彼は付け加えた。
「仕事も研究も離れた私個人としては、君の能力が消えていることを望むよ」
「わがままなご意見ですね」
看護師がぴしゃりと言ってのけ、医師は渋い顔をしたようだった。

 部屋を出て振り返った時、衝立の隙間から医師の横顔が覗いた。看護師と話しているらしい。光の加減か、メガネの向こうが垣間見えた。
「無理もない。まだ子供だ」
憐れみの眼差しが私を突き刺して、扉が閉まった。

 病院の帰り、1度はタクシーに乗ったけれど、その狭苦しさとガソリン臭く澱んだ空気に息が詰まってすぐに降りた。ぐらぐらと揺れる地面に何度も倒れそうになりながら必死で歩いたことを覚えている。
 気がつくと私はマンションのエントランスの前に座り込んでいた。顔を上げた先、壁画の怪物から流れるどろどろした得体の知れない塊が絵を越えてまとわりついてくるみたいで、すぐにうつむいて逃げ出した。
 やっと苦しさを免れたと思って家の扉を開けると、しかし今度は別の闇が私を捕えた。媚を売るようにしんねりとしたヴァイオリン。母さんは、今日はリビングで音楽を聴いている。
「ただいま」聞こえないくらいに小さく声をかけると、
「お帰りなさい」母さんは目を閉じたまま微笑んで、書斎から引きずってきたらしいソファの片側を空けるような仕種をした。とても音楽に集中できるような気分じゃなかったけど、仕方なく隣に座った。
 先のヴァイオリンの旋律をいくつもの楽器が引き継いで、薄笑いの仮面の中にやんわりした拒絶をひそませた夜の歌を奏でている。途切れることなく絡みついてくる音をじっと我慢していると、ギターだろうか、1音ずつゆっくり弦をはじく余韻が夜に飲み込まれ、その先から立ち上がった低弦のメロディがふと仮面を外して、私にその真っ暗な内側をのぞかせる。怖い。やめて。
「ごめん。部屋に戻っていい?」
不思議そうに目を開けた母さんは、それで初めて私の様子に気がついたらしい。
「どうしたの? ひどい顔。病院で嫌なことでもあったの?」
「ううん。違うの」
母さんは大黒でのことを知らない。だから話せない。
「本当?」
私を見つめる色の薄い瞳。私は答えない。
「そう……でもね」
母さんは私を引き寄せて、肩にあごを乗せた。
「私はあなたが大事だから、何かあったら教えて」
「うん」いっそ母さんにすがって泣いてしまいたかったが、何かが胸につかえて涙が出なかった。
 背筋に力を入れて相変わらず温度のない母さんの体を抱き止めながら、私は堅く目をつぶった。


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