第13話 悪魔と天使の間に・・・・
帰りがてら、ずっと掛けることはないだろうと思っていた番号に電話した。普通なら家に戻って夕食の後でもいいのだが、世の中には夜が早い人種というものがいる。
私から連絡があるなんて向こうにとっても予想外だろうからしばらく躊躇するものと思って油断していたせいで、コールが始まってすぐにしわがれた、しかし芯の通った声が響いた時はこちらが狼狽してしまった。
「久しぶりじゃな小娘。まさか電話してくるとは思わんかったぞい」
この人物――小此木優子の祖母――とも不思議な縁だ。よく考えてみると実際に会ったのは2回だけなのに、今の声を聞いた途端、昔からのライバルだったような気も、共に強大な敵に立ち向かった、古い言葉だが、戦友だったような気もしてくる。
「実は私も思わなかったんだ、古流の親玉。その節は世話になったな」
「ほう、礼とは……ちいとは挨拶ができるようになったようじゃの。で、用はなんじゃ」
「あんたの暗号札を売ってほしい」海千山千の女怪に小細工は通用しないから、単刀直入に頼んだ。
「ほほう、おぬしがそんな依頼をしてくるとはこれまた意外じゃのう。金沢でなんぞあったか」
電話を通じても伝わってくる楽しそうな様子は、しばらくぶりに話す幼い孫の近況を聞いているみたいだ。どうやら戦友なんて感じたのは私の思い上がりで、こいつにとっては私など、よちよち歩きの幼児くらいにしか映っていないのだろう。
不愉快ではなかった。むしろ私は、1人で立って歩いてみせたことに手を叩いて喜んでくれる人間に飢えている。
「ああ、まあいろいろあった」だから、その短い返事にはひとりでに思いがこもった。
「そりゃあ良かったの。子供はいろいろあって大人になるもんじゃ。お前さん、その辺をすっ飛ばして力だけ大人になっておったんじゃよ」
こいつは悪魔だ。言葉の中の定まっていない気持ちまでも読み取って、心に共鳴する響きで私を酔わせる。
「わかるよ。迷い道は無駄じゃないんだ」つい、いい気分になって応じた。
「それがわかっておるなら心配ない。成長したの。わしゃあ安心したぞい。じゃあまた今度な」
この辺が意図的なのか本当にボケているのかわからないところが、こいつの底知れなさだ。
「おい待て、話が全然すんでないぞ」
「話ってなんじゃったかいな。……ああ、メタタグじゃな。それがこっちも少し困ったことになっておってな。ああ、電話で話すのもなんじゃ、週末は時間があるかの? 直接こっちに来てくれるとありがたいんじゃが」
「そうすれば暗号札を売ってくれるのか」
「売らぬとは言わぬ。次の日曜日なら暇じゃから、ゆっくり話せると思うんじゃが、どうかの」
「……お前たちの家に」
私は躊躇した。何か陰謀の匂いがする。少なくとも、暗号札と引換に決して安くない代償が求められることは確かだ。だが、それ以上に私をためらわせる理由があることは言うまでもない。
「ああ、ヤサコに会うのがおっかないか。心配いらん、週末は一家で旅行じゃよ。わしは腰の調子が悪くてお留守番じゃ。ヤサコときたら『だっておばあちゃんはいつもお友達と温泉に行ってるじゃない』なんて言いおっての。温泉は腰のための、医療行為なんじゃ。あんな薄情な孫に誰が育てたんじゃあ」
「まさか暇つぶしの愚痴相手にするつもりじゃないだろうな」
「おぬしまでそんなことを言うようじゃ、この国の行く末は暗いの。じゃがな、わしにとっては暇つぶしでも、亀の甲より年の功という言葉もある、おぬしにとっては有意義な情報になるかもしれんぞ」
どのみち他に当てがあるわけでもない。私は決めた。
「わかった、日曜日にそっちに行く」
「うむ、そう答えればいいんじゃ。時に、どんな種類のメタタグが必要なんじゃ」
そう聞かれて私は考え込んだ。マチの水壁に対抗するために具体的にどんな対策を取ればいいのか、正直言ってまるで決まっていなかった。
「実は相談なんだが――」結局、手前であれこれ思案するより打ち明けてしまうほうが手っ取り早い。そう思って、正体不明の水壁について、先週からの体験をかいつまんで伝えた。
「ふうむ、水の壁のう。しばらく前に、魚の姿をしたイリーガルが現れて町中水浸しにされたことがあったがの、おぬしもそれは知っとるじゃろ」
「ああ、そいつは私も見た。しかし今度の水壁は、外見はよく似ているけれど性質は別のものだ」
「サンプルを取ってこれんかの」
「言うと思ったよ。私もできればそうしたいけれど、当てがないんだ。あまり期待しないでくれ」
実は先日来何度か試していたのだが、青騎士のガードは固く、水壁のデータに辿り着くのは難しかった。こんなことなら先週の対決の時にどうにかして確保しておくべきだった。もっともそれは今だからこそ言えることで、あの時にはそんな暇も余裕もなかったのも事実だが。
「さようか。お前さんも案外頼りにならんのじゃな」
馬鹿にするような物言いにむっとして言い返そうかと思ったが、すぐに挑発と悟った。
「悪いな。もちろん努力はするさ」
「うむ、この程度では乗ってこんか。まあええわ、こっちもできる限りの準備はして待っとるからの」
「頼む。今こんなことで相談できるのはあんただけなんだ」
本当に、それが私の正直な心だった。
「心配せんでいい。戦艦大和に乗った気分で待っておれ。なんならビスマルクでもいいがの」
「1つ聞いていいか」
「なんなりとどうぞ、じゃ」
「何故沈んだ船なんだ」
「役にも立たんことを覚えとる暇があったら、年長者への敬いを学ぶことじゃな」
電話は切られた。
家に着くと、もう6時半を回っていた。小学生の帰宅時間としては大いに遅い部類だ。早めにメールでも入れておけばよかったのだがずるずると引きずってしまって、結局母さんには何も伝えてない。
そっとノブを回して音をたてないようにドアを開ける。滑り込むようにして玄関に入り照明を点けると、そこに母さんが立っていたので心臓が止まる思いがした。
「ただいま」小声で言って脇を通り抜けようとしたが、行く手をふさがれた。
「勇子」硬い声が今にも崩れそうな感情をせき止めているかのように響いた。後ろめたさを覚えかけて、すぐに、ちょっと遅くなったくらいでそんなに怒らなくていいじゃないかという言い訳がましい反感がそこに覆いかぶさった。
「あなた、どうして遅くなったの」
「ごめん」
目を合わせずに謝って無理に行き過ぎる私の腕を、母さんが捉える。
「人の質問に答えなさい」
「だから謝ってる。離して」
私は子供っぽい強情を張って母さんの手を振りほどこうとした。
「きちんと答えるまで離さないわよ」
母さんはしっかりと腕をつかんだままだ。
「ただ話し込んでただけ。もういいでしょ」
「誰の家に何時までいたの」
「そんなこと母さんに関係ない」
「関係なくないわ。話しなさい」
「うるさい! 子供扱いするな!」
かっとなって強引に腕を引いたせいで、華奢な身体が安定を失ってよろめいた。咄嗟に自由なほうの腕を伸ばしたが、それは届かずに空をかいて、母は派手な音を立てて壁にぶつかった。
床に崩折れたままの姿勢で母は動かず、それでも腕だけは縋るように離さずにはいたが、肌に感じる力は冷たく弱いものだった。
私は謝る機会を失して立ち尽くしていた。少しでも動いたら母さんの手は私からぼろりと外れ、そのまま深淵に落ち込んでいきそうで、怖かった。いや、怖かったのはそれだけじゃない。顔を見せずにうずくまる母が私の理解できない情念に埋没していることが、私には恐ろしかった。黒々としたそれが腕を伝ってやって来ることがたまらなく嫌で、気持ち悪くて、しかも全く見も知らぬ感情であることが私を怯えさせた。
気がつくと粘っこいあぶくのような負の思いが音を結び、音が綾を成し言葉を象って、母さんの口から溢れていた。
「だからあの時も私は、すぐに病院に行ったのに。信彦が死んで、それでも私はあなたのそばにいたのに。私は泣かずに手を差し出したのに。でもあなたは泣いて、私を拒んだ。どうしてなの。どうしていつもそうするの」
母さんが涙で顔を汚していることに戸惑い、同時にこの世から消えてなくなりたい程の罪悪感が吹きあげて、私は身をよじらせた。でも、母がここにいて私がここにいるという事実を作りかえることができるはずがない。
悪いのは私だ。だから私が。
ほとんど義務感から空いているほうの手を伸ばし、見たこともない生き物に接するようにこわごわと、ふるえる背中においた。触れられたことに気付いた母は身を縮こめ、それは拒否の仕種とも取れたのだが、知らないふりをしてそのまま背をさすり続けた。手のひらから染む感情の温度に凍えながら、それでもそうしなければならなかった。
どのくらい経ったろうか。
母が顔を上げた時どんな顔をしていたのか、私自身もわからない。ともあれ、私を見て少し安心したように目を細め、彼女は私の腰に手を回した。
抱き寄せられた瞬間ちらと先の怯えが心をかすめた。母のなすがままに身をゆだねるべきなのか、それとも一旦間をおいてその中にわだかまる感情の正体を見極めるべきなのかわからなくて私は躊躇し、体が不安定に硬直した。
にわかに母さんが腕に力を込めたので、私はよろけてつんのめった。あやうくぶつかりそうになったが素早く上体をひねって身をかわして、床に尻もちをついた。
「ごめん」膝立ちになった私の胸に母さんが顔をうずめた。
母さんの体はまるで熱というものを感じさせず、冷たかった。もしかすると、ずっと玄関に立って私を待ち続けていたのかもしれない。それは、私に差し伸べた手を母さんが引っ込めていないから? 自らを支配する情念に耐えて、私を愛そうとしてくれているから? もしそうであるなら、私が母さんの心と体を温めてあげなくてはならない。
急速に恐れは影を潜め、心を満たしたある思いが私を動かした。
ぎゅっと抱きしめると、不思議なことにどこからか優しく凪いだ心もちが訪れた。その温かさを幸福と名付けても構わないのかもしれない、そう思って見た母さんの頭が私の胸の中でこくんと頷くように動いた。
それが本当に嬉しかったから、夕焼けに溶けてまどろむのと同じ懐かしさと甘やかさが私たちを抱擁して、私は母さんと2人、脈打つように鈍く光る柔らかなものの中に沈んでいった。
夕食はすっかり冷めてしまっていた。
「今日はどうせあり合わせの物ばかりだったから、わざわざ温め直さなくてもいいわよね」
油揚げと大根の味噌汁でご飯をかき込みながら、ふと目があってほほえみを交わす。それはなんだか共犯者じみてもいる。
母さんの笑顔は幸福な物語のように現実味を欠いて、まるで天使だった。
世界は2人だけで満ち足りて完結しているのではないか、そんな安寧に私たちは包み込まれた。
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