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そしてシリーズ

そして彼女はいなくなった

作者:実月アヤ
3/15、一部修正・加筆しました。
「あなたが選んだのは、私ではないのね」

そして彼女はいなくなった。



「リオン様、またエリアーデ様とエルシアさんが」
 クラスメイトの女子の言葉に、俺はまたかと溜息をついて振り返った。ビクビクと怯えた視線でこちらを見ているのは、侯爵家の跡取り息子であり生徒会長の俺、リオン・グレイルが怖いのか。または騒ぎを起こしている俺の婚約者、エリアーデ・オルファスが怖いのか。
……両方だろうな。
「分かった。知らせてくれてありがとう」

 カフェテリアでざわつく生徒達の中に、彼女達はいた。取り巻きと共に立つエリアーデと、俺のクラスメイト、エルシアだ。
 エルシアは青い顔をして俯いている。他の生徒達はあからさまに囲んだりはしないが、興味津々という顔で聞き耳を立てているのだろう。何で誰も止めないんだ。
 俺は苛立ちのままに、彼女達に割って入る。
「何の騒ぎだ」
 青い顔で震えているエルシアは、まともに説明できそうにない。そう見てとって、俺はエリアーデに向かって問う。
「エリアーデ。エルシア一人に、君は取り巻きと何をしている」
「アイリーンとミアは取り巻きではなく、わたくしのお友達です。それにエルシアさんにお話をしていたのはわたくし一人ですわ」
 可愛げのない口調で、彼女はそう言って俺をまっすぐに見つめた。吊り気味の瞳は、彼女の顔を必要以上に鋭く見せる。
「わたくしはただ、ご忠告申し上げただけです。婚約者のいる男性と必要以上に仲良くされるのはいかがなものかと」

ーーまたか。
 エリアーデがエルシアにつっかかったのは、今回が初めてではない。伯爵令嬢である彼女を誰も止めることができず、こうして何度か俺が呼び出されては仲裁に入るのはもう何度目か。
「言いがかりだろう。俺とエルシアはただのクラスメイトだし、それ以上は君の邪推だ。そもそも俺の友人を君に決める権利はない」
 俺の言葉に、エリアーデよりも彼女の後ろにいた友人達が息を吞んだ。そのいささか過剰ともいえる反応を俺が訝しむ前に、エリアーデは小さく呟く。
「ーーそうやってあなたはいつも彼女を庇いますのね」
 エルシアを背に、エリアーデを詰問している俺は、確かにエルシアを庇っているように見えたかもしれない。けれどこのときの俺は、ただ自分の潔白を証明しているだけのつもりだった。

「ごめんなさい、リオン。きっと私がエリアーデ様の気に障る振る舞いをしているのね」
 彼女達が立ち去ると、エルシアが申し訳なさそうに謝ってきた。俺は首を横に振る。
「すまない、エリアーデも昔はあんな感じではなかったのだが」

 エリアーデと俺は幼馴染だ。一つ年下の彼女とは幼い頃から良く一緒に遊んだものだ。父から彼女との婚約を告げられたときにも、さして抵抗もなく「エリアーデならいいか」という気持ちでそれを受けた。
 16歳になって俺が高等学院に進むと彼女とは会う機会は減ったが、翌年に入学して来たエリアーデは、生徒達の中でも飛び抜けて美少女で、かつ優秀だった。
「入学おめでとう、エリアーデ」
 久しぶりに会った成長した幼馴染に、俺は緊張してありきたりな言葉しかかけられなかったけれど、彼女は嬉しそうに笑ってくれたのだ。それからは学年が違うということもあって、たまにランチを一緒にするくらいだったのだが、それでも穏やかに交流を続けてきた。

 そんな中、俺のクラスにエルシアが転校してきた。外見は華奢で可愛らしく成績優秀な彼女だが、貴族の多いクラスの中で、庶民であるために多少浮いていたのだろう。
 ペアを組む実験の時に、
「あの、グレイル様。私と一緒に受けて下さいませんか」
と俺に話しかけてきた彼女に、俺は
「リオンでいい」
と軽く了承した。生徒会長という立場もあって、教師から彼女のことを頼まれていたし、聡明な彼女との雑談は、面白かったのだ。そうして俺はエルシアと行動することが多くなった。
 それがエリアーデの目にどう映るかを失念して。


 エリアーデがエルシアに絡んでいると聞き、エルシアに事情を問うたなら、彼女は恐縮しきった顔で肯定した。エリアーデが自分の婚約者である俺に近づくなと言ったのだという。最初は俺が不用意に婚約者を不快にさせたことに反省したが、それが何度も続くうちにすっかりエリアーデに呆れ、うっとうしくなった。
 しまいにはエルシアが彼女に、庶民の娘ごときが侯爵家の跡取りに近づくな、身分をわきまえろとまで言われたと聞いて、呆れ果てた。学院では身分にこだわらず、広く交流を持つよう定められている。エルシア以上に聡明で、侯爵家の妻になる教育を受けているはずの彼女が、つまらない嫉妬で他人を貶めるなど。
 俺はすっかりエリアーデを信用できなくなっていた。
「エリアーデ様はどうしても侯爵夫人になりたいのかしら」
 ぽつりと零されたエルシアの言葉は、俺の心に黒い染みを作って。
「私なら、リオンの心を大切にするのに」
 じっと見つめて言ってくれたエルシアを可愛いと思ってしまった。

ーーどうしてこの時、エリアーデの言い分もちゃんと聞かなかったのか。


「ねえリオン。学年末のダンスパーティ、私と参加してもらえない?」
 学院主催のダンスパーティは、毎年学年末のお楽しみ行事として行われている。大抵は恋人同士や、婚約者同士で参加する者が多く、俺も普通ならエリアーデと参加するべきなのだろう。けれど。
「あなたにエリアーデ様が居るのは知ってる。図々しいとは分かってるんだけど……私、庶民だし、パートナーになってくれる人がいなくて……ずっと憧れてたの、ダンスパーティ。一度だけでいいから」
 エルシアはそう言って俺に寂しそうに笑う。
「良いよ。俺でよければ」
 友人同士で参加する者もいないわけじゃない。エリアーデは友人も多いし、彼女の従兄弟もこの学院に通っているから、パートナーに困ることはないだろう。一度くらい、と軽い気持ちで頷いた。

ーーそれがどんなに、エリアーデを傷つけたのかも知らずに。


 そして、あの日。

「エリアーデ様がエルシアさんを時計塔へ呼び出したって……」
 クラスの女生徒がそう言ったのを聞いて、俺は教室を飛び出した。
 時計塔は老朽化が激しくて、立ち入り禁止になっている。なぜそんなところにエルシアを呼び出すのか。嫌な予感がして走って行くと、高くそびえる時計塔の階段を登ったずっと先にエリアーデとエルシアがいた。二人きりだ。
「あなたは何を考えているのです。リオン様に近づいて、何を」
 エルシアにつかみかからんばかりの彼女へ、俺は思わず怒鳴るように声を掛けて彼女達の間に割り込んだ。
「エリアーデ!なんのつもりだ、エルシアをこんなところに呼び出して」
「何を言って……呼び出されたのはわたくしのほうで」
 とぼけるつもりか、と怒りがわく。彼女の言い分も聞かずに遮るように、苛立ち紛れに言葉を継いだ。
「ーー君との婚約も、考え直すべきだな」

 本気ではなかった。婚約は家同士が決めたことでも、彼女を嫌っているわけではない。けれどそのときは、つい彼女の表情を変えてやりたくて、傷つけてやりたくて。

「リオンさま、それは」
 表情を無くした彼女が何か言いかけた、その瞬間。
 バキッという大きな音と共に、俺たちの居た階段が大きく揺らいだ。
「エル!」
 俺の声にエルシアが顔を上げ、エリアーデが凍り付く。けれどその直後、また大きな揺れに三人とも階段の端に投げ出され、身を起こすこともできないまま、メリメリと大きな音がする。
「きゃあああ!!」
 階段を支えていた木が腐って折れたのだと気づいて、俺は手すりを掴み、悲鳴を上げた彼女へと手を差し出した。ーーエルシアへと。

 ひときわ切羽詰まった大きな声をあげたのが彼女だったから。
 俺から見えたのが彼女の身体が揺らいだところだったから。

 言い訳にしかならないが、そのときは、ただ目の前しか見えず。
 だから、エルシアの向こうで、彼女が宙に投げ出されたことに気づかずに。
「ーーっ!エリアーデ!?」
 咄嗟に崩れかけた階段に手を掛け、ぶら下がっている彼女に気づいて、俺は助けようとした。けれど恐怖のあまり俺にしがみついているエルシアのせいで、身体がうまく動かない。時計塔は建物5階分くらいの高さがある。落ちたら怪我どころでは済まない。もしかしたら命はないかもしれない。
「エリアーデ!」
 震える指で、階段の残骸を掴んでいた彼女は、上から覗き込んだ俺と目が合ってーー俺の腕の中のエルシアを見て。いまにも落下するかもしれない恐怖に怯えていた瞳が、ふと哀しげな色を帯びた。

「あなたが選んだのは、私ではないのね」
 確かにそう呟いた声に込められたのは、諦め。

 そして。
 エリアーデは手を放した。

 彼女は俺の前から、消えたのだ。



 それからは大騒ぎだった。落下したエリアーデは病院に運ばれ、意識を失ったまま。エルシアと俺は念のため病院で検査を受けたが、かすり傷程度で異常なし。その場にいた当事者として教師や警備の者達に事情を説明し、俺は生徒会長として学院の混乱を収めるために事後処理に終われ、エリアーデの様子を見に行くことができたのは3日後のことだった。

「ーー何しに来た」
 目覚めないエリアーデのベッドの傍で、彼女の兄エリックが俺を睨みつけて言う。
「君はエルシアとかいう少女を選んだのだろう。エリアーデを見捨てて」
 実の弟のように可愛がってくれていた彼が、こんな視線を向けてくることに戸惑って、言われた内容に愕然とした。
 エルシアを選んだつもりはない、ただ目の前にいたのが彼女だっただけで。けれど婚約者が寝たきりだというのに、3日も経ってから見舞いに来たのも事実。エリアーデも同じように言ったじゃないか。『選んだのは、私ではない』と。
「ーー違う……!」
「何が違う?私は学院で事情を聞いて来た。君は今までもーー」
 病室で騒ぐなどもってのほかだと気づいたのか、エリックは口を噤む。その時、細い声が聞こえた。
「お兄さま……?」
「「エリアーデ!」」
 エリアーデが目を覚ましたのだ。彼女はさまようように視線を揺らし、こちらをみてわずかに微笑んだ。
「エリアーデ、大丈夫かい?痛みはない?」
「ええ、お兄様」
 けれど。
「エリアーデ」
 俺の声に彼女は小首を傾げただけで。
「……どなた?」

 彼女は俺の存在を、忘れてしまった。


「エリアーデは記憶喪失だ。君のこととーー落ちた日のことを忘れたようだ」
 エリックは冷めた目で、俺に告げた。
「君が婚約者だと言うことは、妹には黙っている。妹が自分で思い出すまでは」
 どうしてだ、と思わず彼を見つめてしまった俺に、エリックは苦しそうな、哀しそうな、歪んだ笑みを向ける。
「エルシアとやらの前で、エリアーデとの婚約を考え直すと言ったそうじゃないか」
ーーエルシアが彼に喋ったのか。もしくは学校の誰かに話したのが彼の耳に入ったのか。
 けれどそんなことはどうでも良かった。今ここで引き下がれば、俺はエリアーデを完全に失う。
「ーーそれでも、どうか俺にエリアーデを支えさせて下さい。俺は彼女を助けられなかった。せめて、学院でだけでも」
 エリックは黙ったまま。それを俺は彼なりの了承だと判断した。

 彼は俺のことを、学院の生徒会長で、怪我をした生徒ーーエリアーデを見舞いに来たと妹に説明した。
「リオン様?ーーそうなの、生徒会会長でいらっしゃるのね。知らなかったなんてお恥ずかしいわ、ごめんなさい」
 恥じらいを込めて無邪気に微笑む彼女は、子供の頃のエリアーデのようで。けれど俺への瞳は他人を見る目で。自分でもわからないが、その事実に酷く打ちのめされて。あとは黙って帰るしかなかった。

**
「エリアーデ、学院生活はどうだ?体調は大丈夫か?」
 彼女が学院に復帰して数日後、中庭で友人と談笑していた彼女に声を掛けると、エリアーデはふんわりと微笑んだ。ベンチから立ち上がって優雅に礼をする。
「ごきげんよう、リオン様。ええ、体調はもう大丈夫ですわ。ご心配ありがとうございます」
 彼女の友人達は何か言いたげに俺を見た。彼女の記憶喪失を学院内で知るのは俺とエルシア、このエリアーデの親しい友人達らしい。エリックは彼女達と情報交換をし、学院内の様子を知ったのだろう。同時に、この友人達にもエリアーデに対して婚約の件を黙っているよう口止めしたらしい。
「そうか、良かった。何か困ったことがあれば……」
 言いかけた俺に、リオン!と声が掛かった。それに振り向く前に、エルシアが俺の腕にしがみつく。
「探したのよ!授業で聞きたいことがあって……あら、ごめんなさい。いらしたんですね、エリアーデ様」
 慌てたように言ってから、彼女は俺の前にいるエリアーデに今気づいたという顔をした。走ってくる前から見えていなかったのだろうか。それになんだろう、この距離。彼女自身が忘れているとはいえ、婚約者のエリアーデの前で、いささか馴れ馴れし過ぎる。
 俺はエルシアの手から俺の腕を引き抜いた。しかしエリアーデは全く気にする様子も無く、にっこりと微笑む。
「エルシアさん、こんにちは。あの、差し出がましいようですが、淑女が男性にそのように馴れ馴れしくするのは感心できませんわ。リオン様は侯爵家の方ですし、あなたの評判にも傷がついてしまいます」
 一瞬、嫉妬してくれたのかと思った。記憶を失う前にも聞いた台詞だったからだ。
 けれど、彼女の表情には、嫉妬や俺への恋心などこれっぽっちも無く。ただ貴族の令嬢として学院の生徒を心配している以上の意味はないのだとーー同時に、今までのエリアーデの言葉が、真に彼女が受けて来た淑女としての教育から出た言葉だったのだと気づいた。
 もちろん、以前の彼女には嫉妬もあっただろう。けれど決して、言いがかりや嫌がらせだけで出た言葉ではなかったのだ。
「あら、リオンは許してくれているのよ。私達、ダンスパーティのパートナー同士でもありますし」
 まあ、とエリアーデの友人達から嫌悪に満ちた視線が注がれた。
ーーなんだ?
 おまけにいつものエルシアらしくない強気な態度と台詞に、俺は眉をしかめた。腕を組むまでは許した覚えはないが、彼女の意図は違ったらしい。エルシアが『リオン』と強調した呼び名に、エリアーデは軽く目を見開いた。
「……ああ、余計なお世話でしたわ。申し訳ありません。お二人が親しくなさっているなら、わたくしが口を挟むことではありませんでした」
 その言い方ではまるで、俺とエルシアが特別な関係であるかのようでーー
 けれどエルシアにリオンと呼ぶのを許したのは俺自身だ。クラスメイトの男子生徒にも呼び捨てにと言っているが、貴族の令息は爵位を気にしてあまり呼ばない。女生徒はエリアーデに遠慮してもってのほかだ。

ーー婚約者であるエリアーデすら、呼ばせていない呼び方で。エルシアだけが。

 客観的に見た自分たちの状況に、いまさら気づいて動揺した。婚約している事実も、俺に特別な気持ちもないエリアーデが、誤解するのは当然だ。

「それでは、失礼致します」
 優雅にまた礼をして、エリアーデは友人と共に去って行く。その背に声を掛けることもできず、俺はただ立ち尽くしていた。
「リオン、ねえ」
と呼びかけるエルシアにも答えられずに。視線の先で、エリアーデとすれ違った男子生徒達が顔を赤くしていた。俺に気づかずこっそりと顔を見合わせて。
「エリアーデ様、お美しいな」
「最近すごく落ち着かれてるよな。以前は凛としていたが、今の儚げな感じも良いな」

 ーー何を言っている。エリアーデは昔からああだ。エルシアが絡まなければ、清廉で心優しいまっすぐな令嬢でーー
 ふとよぎった考えに、俺自身が驚く。どうして俺は、あいつらを不快に思うのか。エリアーデから目が離せないのか。


「エリアーデはいるか?」
 放課後、彼女の教室を訪れると、先ほど彼女と共にいた友人二人が声を掛けて来た。たしかアイリーンとミアだったか。
「リオン様、ちょっとよろしいですか」
 彼女達は硬い表情で、周りの生徒から目につかない階段の影に俺を連れてくると、俺を睨みつけた。
「一体何のおつもりです。あなたはエリアーデを捨てて、エルシアを選んだんでしょう?」
 アイリーンの言葉に、俺は驚いて否定する。
「何言ってる!俺は今でもエリアーデの婚約者だ」
「けれどエルシアはあなたがダンスパーティのパートナーだと言っていたじゃありませんか」
 それが何だ、と言いかけて。彼女達の非難の目に気づいた。
「わたくし達はダンスパーティは恋人や婚約者と参加するものだと認識しております。もちろんエリアーデも。彼女は入学する前からあなたと共に参加することを夢見ていたのです」
 俺は生徒会長であるがゆえに、学校行事としての認識が強過ぎていたのだ。生徒の間では実質、恋人のお披露目の場だとされていたのか。いや、うすうすは気づいていたのに、知らないふりをしたのだ。
「それなのに、あなたはエルシアをお選びになった。記憶をなくす前、それを聞いたエリアーデがどんなに泣いたか、ご存知でなかったでしょう。それなのにエルシアったら、釘を刺すように今のエリアーデにも……」
「あなたは彼女に、あなたの友人を決める権利はないとおっしゃいました。けれど、婚約者が他の女性に言い寄られているのを黙って見過ごせと?エリアーデには抗議する権利があるのですわ。婚約者たる彼女だけには。なのに、あなたはそれを否定なさった」
ーーカフェテリアで、彼女達が息を吞んだ理由が分かった。あの言葉は、俺はエリアーデが婚約者であることを否定したも同然だったのだ。

「それにあの日、エリアーデがエルシアに言っていた『婚約者のいる男性』というのは、あなたのことではありません」
 ミアが心底軽蔑したように吐き捨てる。彼女の言葉に、俺は「え?」と聞き返した。
「ーーエルシアは、あなた以外にも婚約者のいる男性に言い寄っていたのです。あなたはご存知でなかったようですけれど」
「まさか」
 皮肉気に告げられた言葉につい反論してしまったら。二人は淡々と言葉を継いだ。
「彼女はわたくしの婚約者にも、二人きりで逢瀬を重ね、腕を絡ませ、呼び捨てにしておりました」
「わたくしの婚約者にも同じことを。エリアーデはわたくし達の為に怒って下さったのよ」

ーー俺は、何も見えていなかった。

***
 侯爵家に戻った俺を呼びつけた父上は、書斎で難しい顔をしていた。
「お前……エリックがお前とエリアーデの婚約破棄を申し入れて来たぞ。どうするんだ。ただでさえこちらが頼み込んだ縁談だったというのに」
 父の言葉にひっかかり、俺は問い返す。
「こちらから?伯爵家からの申し入れではないのですか」
 エリアーデは侯爵夫人になりたかったのではないのか。そう言うと、父は苦い顔をして俺を見た。
「お前……知らなかったのか?オルファス伯爵は隣国の王妃の弟だぞ。夫人に惚れ込んで婿養子になったためにこの国でこそ伯爵だが、隣国ならうちよりずっと爵位も財産も上だ。だいたい子供の頃にお前がどうしてもエリアーデと結婚したいと言い張って、私は何年もかけてあちらを説得したんじゃないか。エリアーデ自身がお前がいいと言ってくれなかったら、婚約などさせてもらえなかった」
 つまり、爵位目当てでもなく。婚約はエリアーデではなく俺の言い出したことで。エリアーデの意志がなければ、婚約など簡単に破棄されてしまうのか。

ーー嫌だ。

 初めて明確に浮かび上がった、想い。
今まで彼女の好意に甘えていた婚約という繋がりさえ、本当は酷く脆いものだったのだと知って。
エリアーデは何を言っても俺から離れないとでも思っていたのか。

 俺は、エリアーデを失いたくない。彼女のことが、こんなにも。

誰かをこんなにも強く意識するのは、初めてだった。緊張も、苛立ちも、うっとおしさも、罪悪感も、焦燥も、嫉妬も、執着もーー愛おしさも。
俺の強い感情は、いつだってエリアーデが引き金で、彼女だけに向いていたのだ。それこそ、子供の頃から。
いまさら。いまさら気付くなんて。


 思い立ったら抑えることなどできない。俺はその足でオルファス伯爵家を訪ねた。いささか非常識にも当たる時間だというのに、エリックは苦い顔をしつつ俺を迎え入れてくれた。
「ーー最後のチャンスをやる。君ではなく、妹の為に」


 窓辺に佇むエリアーデは美しかった。夜の闇に溶けそうな横顔と、室内の明かりに照らされてる背中が儚くて、思わず声を失ってしまうほどに。
 ああ、彼女はよくこういう顔をしていた。心細げな、迷子のような顔を。けれど次に会う時にはいつも、咲き誇る花のようににっこり微笑んでくれていたのだ。
「エリアーデ」
 やっとその名を呼べば、彼女は振り返って、驚いたように目を見開く。
「まあ、リオン様。どうされたのです、こんな夜更けに」
 もう夜着に着替えていたのか、ガウンの前を掻き合わせて恥ずかしそうに笑うと、彼女はそう言った。
「君に、謝りたい事がある。それと、伝えたいことがある」
 俺の言葉に、彼女は表情を無くした。その顔が、時計塔から墜ちる瞬間の彼女の表情に重なって、俺は思わず彼女の手を掴む。エリアーデは力なく俺を見上げた。
「わたくしとの婚約を破棄して下さい」
 息が詰まった。
「わたくしがあなたの目の前で墜ちたりしたから、責任を感じていらっしゃるのでしょう。もう大丈夫ですから、わたくしにかまわずとも結構です。あなたの想う方のところへ」
「エリアーデ、思い出したのか」
 俺の言葉に、彼女は静かに頷き、口を開く。
「ーー少し前に、思い出したのです。あなたのことも、あの日のことも」
「ではどうして黙って……」
「もう、思い出したくなかったのです。私はあなたに選ばれなかった。彼女に嫉妬する醜い私も消してしまいたかった。あの瞬間に、リオン様の婚約者エリアーデは死んだのです」
ーー私が、殺したのです。あなたへの気持ちを。私自身を。
 そう言って、エリアーデは小さく微笑んだ。たまらなくなって、俺は彼女の手を握りしめる。
「俺はエルシアを選んだのではない。いや、そう思われても仕方なかった。助けられなかったのは本当にすまなかった。君を信じられずに、酷い態度をとったことも。けれど俺は君を失いたくない」
 みっともなく縋ってもいい。いまさらと詰られても仕方ない。このまま彼女を失って後悔するより、耐え難いことなどない。
 だから俺ははっきりと告げた。

「愛しているんだ、エリアーデ」

俺の心が動くのは、エルシアにではない。エリアーデにだけ。エルシアが糾弾されていたからではない。彼女に対峙していたのが、他ならぬエリアーデだったからーーこんなことに気づくまでに、俺は一番大事な少女を取り返しがつかないほどに傷つけていたのか。

 彼女は茫然と俺を見上げて、しかし見る見るうちにその瞳に涙が溢れていく。
「嘘……もうやめて。あなたは私の言葉など信じなかったじゃない。それにあの時ーー階段が崩れた時、あなたは一番にエルシアを呼んだわ」
 言われて思い出す。最初に階段が傾いだとき、俺が咄嗟に叫んだのはーー
「エル、だろう。君のことだよ、エリアーデ。幼い頃はそう呼んでいただろう?」

 お互いに子供で、上手く名が呼べなかった頃。俺は彼女をエルと呼んで、エルは俺をリィと呼んでいた。
危機を感じたあの瞬間に呼んだのは、彼女の愛称だったのだ。自分でも気づかない間も、俺は確かにエリアーデを愛していた。

「ーーそんな」
 俺の言葉を聞いて、エリアーデはぽろぽろと涙を零す。それが美しくて愛おしくて、俺は彼女の眦に口づけた。
「頼む、エリアーデ。俺の前から二度も消えないでくれ。俺への気持ちを消さないでくれ」
 ただ懇願する俺に、彼女は淡く微笑んで。涙の残る顔で、言った。
「あなたは何にも執着しない人でした。誰にも親切で公平だけれど、それゆえに人の心を探ることも諦めている。わたくしはそれが怖かった。いつかわたくしも、あなたに必要なくなるのではないかと。エルシアがあなたの唯一になるのではないかと」
告げられた彼女の想いに、胸が痛む。彼女はこんなにも俺を見ていてくれたのに。エリアーデをずっと不安にさせて、こんな顔をさせたのはその俺なのだ。
「でもあなたは、わたくしを欲しいと言ってくれるのですね……あの幼い日のように」
彼女の涙を拭って、俺は願う。残酷で身勝手な願いだと知りながら、それでも。
「もう一度、君の側にいる許しをくれないか。ただそれだけでいい」
どんな形でもいい。婚約者でいられなくなったとしても。ただ、エリアーデのそばに。

その言葉に、彼女はそっと頷いた。
「わたくしはずっと、あなたを愛しておりました。リオン様。わたくしと同じく、その心は今も生き残ってしまっておりますわ」

****
「エリアーデを時計塔に呼び出したのは、君の方だったんだな、エルシア」
 俺の言葉に、エルシアは怯えた顔で首を横に振る。
「何言ってるの、リオン。私はエリアーデ様に」
「もう演技はいい」

 どうして見抜けなかったんだろう。落ち着いてみれば、こんなにも彼女の態度は白々しいのに。
 エリアーデと友人達、他のクラスメイト達に話を聞けば、エリアーデが今までエルシアにした忠告は、記憶を無くしていた時に中庭で注意したのとそう変わらないものであったらしい。エルシアの言ったように庶民云々などと言いがかりをつけたことなどなく、ただ貴族相手の淑女の礼儀としてどうか、と注意したのだとか。それも再三聞き入れてもらえず、彼女の親しい友人の婚約者にまで手を出したために、カフェテリアでの騒動になったらしい。
 しかも彼女の為に、人目につかないところで話しましょう、と移動を促したエリアーデの配慮を蹴って、エルシア自身が騒ぎを大きくしたのだという。クラスメイトの女生徒も言いくるめて、さもエルシアが被害者のように俺を呼びつけて。どうりでいつも呼びにくる生徒が同じ顔ぶれだったわけだ。
「騒動が大きいほど、か弱く見えるエルシアに有利ですもの。あなただってわたくしが彼女をいじめていると思い込んだのでしょう?」
 エリアーデに少し拗ねた口調で言われて、俺は何度目かも分からない謝罪を繰り返したのだが、それは余談だ。


 俺とエリアーデがしっかり手を繋いでいるのを見て、エルシアは言い逃れできないと悟ったらしい。はあっと大きな溜息をついた。
「あーあ。せっかく良いとこまでいったと思ったのに。あなただってまんざらでもなかったはずよ、リオン」
 そう言い放った彼女はもう儚げな少女などではなく、ただの悪意溢れる女の顔をしていて。自分が本気でだまされていたことに、苦い気持ちになった。
「侯爵夫人の座が欲しかったのは君なんだな。エリアーデではなく」
「そうね。侯爵夫人でも、公爵夫人でも、王太子妃でも良かったんだけど……あなたのおかげで全部パアね、エリアーデ様。あのとき落ちて助からなければ良かったのに。まあ思ったよりも派手に崩れて、私も危なかったけど」
 クスクスと笑うエルシアに罪悪感など無く、あの事故さえも彼女が仕組んだことなのだと知って戦慄した。彼女の前で青い顔をするエリアーデの肩を抱き寄せて、俺はエルシアを睨む。
「俺はエリアーデを愛している。もう君の思い通りにはさせない」
 俺の言葉が終わる前に、踏み込んで来た警備の者達に、エルシアは笑みを消して。
 連行されて行く彼女は口の端を歪めてポツリと呟いた。
「ダンスパーティ、出たかったな……」

*****
 エルシアへの処罰は王の判断を待つこととなった。事は伯爵家令嬢に対する傷害罪どころか殺害未遂にまでなったのだから、穏便にという訳にはいかないようだ。
 エリアーデは減刑を王に請うた。お人好しだとも思ったが、まっすぐな彼女らしい。それに俺にも責任がある。俺も彼女と共にエルシアへの恩赦を願い出た。おそらく命は助かるだろう。学院追放は決定となったが。そして、彼女はいなくなったーー俺達の前から。
「だって、彼女はきっと、本当にあなたのことをーー」
ぽつりと呟いたエリアーデの手を強く握った。

両家の俺への信頼は地に堕ちたし、エリックは今でも苦い顔をして俺を見る。許されていないのはわかっている。俺はそれだけのことをしたのだから。
エリアーデもきっと、俺を信じてくれたわけではないだろう。それでも彼女は、壊れた心を掻き集めて、俺が側にいることを許してくれている。けれど、それに甘えてはいられない。いつか、またエリアーデが俺を信じてもいいと思ってくれるまで、努力を重ね続けていくしかない。


 そうしてやっと落ち着きを取り戻しつつある学院の中庭を、エリアーデと二人で歩く。
 お互いに言葉は少ないが、繋いだ手は放さずに。もう二度と、彼女を見失わないように。
 そうして。

「エリアーデ、俺とダンスパーティに行ってくれないか?」
 俺の言葉に、彼女はふわりと微笑んで頷いた。
「はい、喜んで」
エリアーデ視点と後日譚「そして彼はここにいる」も投稿しました。

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