サソリの毒
「ご……ごめんなさい」
そして何度目かの彼女の謝罪が、二人きりの六畳間に響いた。
そのあとは今までと同じ繰り返し。お互い無言になって、掛け時計の秒針がやたらとうるさく聞こえる静寂が訪れた。もう嫌だ。気まずいったらありゃあしない。
彼女――近藤サソリは、その凶悪そうな名前とは裏腹に、気弱で泣き虫で、常に眉をハの字にしているようなやつだった。おまけにネガティブで人見知りも激しいので、友達も片手で数えられる程度しかいない。俺だって幼馴染じゃなければ、こんなふうに彼女の部屋で勉強を教えるなんて、間違ってもありえないと断言できる。
はっきり言って、俺はサソリの事が苦手だった。冗談を言っても真に受けて涙目になるし、彼女に誘われて遊びに行っても終始無言でいる、なんてことはザラだった。お前が誘ったんだろう。少しは喋れ。
「どうだ、問題、解けたか?」
「ご、ごめんなさい。もう少しだけ、待って……」
おまけに、この謝罪連射だ。多少ならばこちらも笑って流せるが、こう口を開くたびに謝られたのでは、悪気がないのは分かっていてもイラつくのは仕方がないだろう?
そうして、一時間ほど彼女の勉強に付き合っただろうか。区切りもいいし、なによりそろそろ我慢の限界だ。俺は「じゃ、そろそろ俺、帰るわ」と軽く片手を上げて、立ち上がった。
すると、何を思ったのかサソリは服の裾を引っ張って、俺を引き止めてきた。彼女の方を向くと、俯いてモジモジとしながら「あの」とか「その」とか意味を持たない言葉ばかりを呟いていた。一分ほど待ってみたが続きを言う気配がないので、堪らず俺は彼女に強い口調で聞いた。
「何? まだなんか用?」
サソリは二、三回深呼吸をしたあと、キッと意志のこもった瞳で俺を見つめ返してきた。
「あ、ああああの、よかったら、ゆ、ゆゆ夕飯……食べていかない?」
かなり緊張しながらその言葉を絞り出したのだろう。指先は尋常じゃないくらい震えていたし、言葉は盛大にどもっていた。
「夕飯、ねえ……。まあ、別にいいけど」
本当はお断りしたかったけれど、彼女なりに感謝の気持ちを示したいのだろう。あまり邪険にするのも躊躇われたので、ご馳走になることにした。
夕飯は、サソリの手作りだった。しかもかなり美味しい。けっこう家事とか得意なんだな、と少しだけ彼女を見直した。
手料理を食べ終わると、結構な時間になっていた。窓の外を見ると、驚くほど暗い。
さすがにそろそろ帰らないとまずいだろうと再び腰を上げたが、サソリはまたしても俺の服の裾を引っ張ってきた。
「今度はなんだよ……」
俺はうんざりしながら聞いた。
サソリはまたしてもよくわからないことを呟いていたが、今度は俺が続きを促す前に彼女から口を開いた。
「あの、ね。今日、私の両親、帰ってこないの。だから、その」
そこで一旦言葉を切って、潤んだ瞳とほのかに赤く染まった頬を俺に向けてきた。
「……ひとりに、しないで」
サソリの言葉に、俺は自分の心が甘く痺れていくのを感じた。
結論から言うと、俺はその日、サソリの家に泊まった。男女でお泊りともなれば、まあ、そういうことだ。据え膳食わねば男の恥というし。
早朝に目覚めると、隣に裸のサソリが寝ていて、思わず声をあげそうになった。そのうち徐々に昨日の記憶が蘇ってきて、ああそうだった、と胸を撫で下ろした。
しかしこうして男女の仲になってみると、あれだけ面倒に思っていたサソリのことが途端に可愛く思えてくるから、男とは現金なものだと我が事ながら思う。野暮ったいと思っていた黒くて長い髪も、今になれば絹のように艶やかに見える。
何となく照れくさくなって辺りを見渡すと、ふと彼女の携帯電話がベッド脇に置いてあるのがわかった。学校が始まる前に、俺も一度帰宅しなければならない。勝手に他人のケータイを操作するのは気が引けるが、彼女が寝坊しても申し訳ないので、目覚ましだけセットしておいてやるかと、画面を開いた。
画面には、いきなり書きかけの文章が表示された。どうやら日記のようだった。きっと夜、俺が寝た後に書いて、途中でサソリも寝てしまったんだろう。
いけないと思いつつも、俺はまるで何かに操られたように画面をスクロールしていった。
そこには、こう書いてあった。
『今日は幼馴染が勉強を教えに来てくれる。というのは建前で、もちろん目的は寝ゲット。これで十八人目。あいつも私を小動物系の女だと本気で思っているから、今までの男のように優越感をくすぐってやれば、すぐに落ちるだろう。ていうか、落ちた。この文章を書いている現在、あいつは私の隣で呑気に寝息を立てている。全く、男なんてどいつも単純だしバカすぎて笑っちゃう――』
文章はそこで終わっていた。再び視線を彼女の方へ這わす。
サソリの幸せそうな寝顔を見ながら、そういえば蠍の毒は捕食の際に使われるんだっけ、と俺は心の中でぼんやりと思い出していた。
【了】
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