第三章(一) 満天の星空
『洋子ちゃん、村での生活も10日が過ぎて少しずつ慣れてきました。今日は、夜に降っていた雪も上がり澄んだ空気の向こうに白い帽子を少しかぶった山が美しい姿を見せてくれました。ぜひ、この美しい日本の風景を見に来て下さい』
僕は、今朝も裏山に登って「圏外」と「アンテナ1本」の間を行き来する貴重な電波を捕まえて洋子ちゃんにメールをします。
しかし、返信は夜にまた裏山にくるまで分かりません。
今日は、茜の推薦入試の日です。
茜の抜群の成績と学力であれば県内のどこの高校も合格間違いなしです。
しかし、この村から通える高校は限られていて卒業生の殆どが一番近い一ノ谷高校に進学しています。
一ノ谷高校が近いと言ってもバスで1時間、電車で20分ですから交通の不便なこの村から通うのは大変なことです。
村と隣町を結ぶ県道がトンネルで結ばれれば、かなりの時間短縮が可能なのですが。
茜が受ける虎穴高校は県内の優秀な生徒を集めて高度な教育をするために設立された新設校で、都心部に最高の設備と優秀な教員を配したエリート高なのですが、この村から通学するには片道4時間を覚悟しなくてはなりません。
茜の場合は、離婚したお父さんが虎穴高校の近くに新しい家族と住んでいるので、そこから通学する予定です。
4人でも寂しい教室の中は1人減っただけでも空気の重さまで違ってしまったかのように雰囲気が変わります。
いつもは、賑やかな双子の浩太、良太も注意してくれる人がいないと寂しいらしく大人しくテキストを眺めています。
いつも茜にくっついている幸は、トイレに行く機会さえ上手く探せないようでソワソワと外ばかり見ています。
「茜ちゃんだ」
外を眺めていた幸が、校庭を歩いてくる茜を見つけたのは最後の授業時間が終わる直前でした。
もっとも、山桜中学には昼休みの時間以外は特にチャイムが鳴るわけでも教科が変わるわけでもないので授業時間を気にしているのは僕だけで、生徒たちは夕方になって帰りたくなったら帰るだけなので終業時間は生徒の気分次第と言うことになります。
「茜ちゃん、試験はどうだった?」
良太が窓から顔を出して叫んだ声が山にこだまして「だった〜、だった〜」と響いています。
良太の声に、顔を上げて親指と人差し指で丸を作ったOKサインを出した茜の顔が、少しも嬉しそうじゃないのが気になりました。
「茜ちゃんは、頭が良いからどこの高校でも受かるよね」
教室に入って来た茜に浩太が無邪気に言いました。
「浩太は、一ノ谷高校も受からないから農家を継げよな」
良太が、勉強が好きではない浩太に向って言いました。
この双子は、顔も体つきも声さえもソックリなのですが、勉強が好きで読書好きな良太は少し皮肉屋で、浩太は純朴で人の良いノンビリ屋と性格が全く違うので話していて間違うことはありません。
正式には浩太が兄で良太が弟なのですが、親も自分たちも気にしていないようです。
「うん。勉強嫌いだから家の農業を継ぐのもいいかな」
浩太は、良太の言うことに素直に答えます。この会話は二人の間で飽きることなく日々、繰り返されているのです。
「茜ちゃんは、高校生になったら引っ越しちゃうんだよね」
幸は、茜が志望校を決めた日から毎日のように聞いているようです。
「まだ、分かんないよ。落ちるかも知れないし」
いつもは、高校に行っても遊びに来るからと幸をなだめていた茜が、今日はめずらしく弱気なことを言いました。
生徒達が帰った教室で、日誌をつけていると茜が戻って来ました。
「虎穴高校の推薦に落ちたら、志望校を一ノ谷高校に変えるからね」
茜は、不貞腐れたように教室の入り口に立って言いました。
「勿体ないだろう。茜の実力なら虎穴が駄目でも六村市高校だって行けるじゃないか」
「一ノ谷でいいんだよ」
「お父さんが残念がるんじゃないか」
茜の家は、祖母と二人暮しで両親は茜が小さい時に離婚したそうです。幼かった茜は母親に引き取られ、祖母の家で三人で暮らし始めたのですが、しばらくして仕事を探しに都会に出ていった母親は、そのまま行方不明になってしまったのです。
梅子さんの想像では、男と逃げたのではないかと言うことでした。
梅子さんは、茜と茜の父親についても教えてくれました。
茜の父親は、再婚して今は三歳になる娘と三人で暮らしているのですが、茜のことは前々から心配していたそうで、月に一度は村で一軒だけの喫茶店『カフェ・ド・パリ』で楽しそうに話をしているのは村中の知るところだそうです。
「茜が虎穴高校への進学を決めた時は、大喜びで野良仕事をしているオバアにも話してたよ」
梅子さんは、夕食を食べながら話を聞いていた僕の顔に少しづつ近づきながら教えてくれました。
そんな茜が、急に一ノ谷高校を希望すると言うことは、この村に残ると言うことです。
「茜は、何で虎穴高校を志望したんだ?」
僕は、ちょっとイカした先生を気取って茜の机の椅子を引いて座るように勧めました。
茜はツカツカと立っていた入口から中に入ると、僕が引いた机の横に座りました。
僕が引いたのは浩太の机だったようで、仕方がないので引いた椅子に自分で座りました。
お陰で僕と茜は黒板を見ながら話す形となったのです。
「なんで、虎穴を志望したんだ」
僕は誰もいない教壇に向かって尋ねました。
「アースが勧めてくれたからだよ」
アースと言うのは、前任の先生のあだ名で地球の大きさや美しさを、二年前の赴任した日に話したことから、アースとなったそうです。
僕のコアラよりも格好良くて羨ましい気がします。僕も赴任の日に地殻変動の話でもしてマグマというあだ名にして貰えば良かったと後悔しています。
「茜はアース先生を尊敬してたんだってな。良太が言ってたよ」
「アースは、この星は宇宙の中でもっとも美しい星だって言ってた。だけど、宇宙にはまだまだ知られていない星がたくさんあって、もしかしたら地球以上に美しい星に人間以上の文明をもった生き物が居るかもしれないって言ってた。
それは、人間の頭のように無限に広がる空間なんだって」
「え・人間の頭?無限の空間」
僕は、茜の言っている意味が分からずに聞き返してしまいました。何も書いていない黒板に向かって。
「難しくて良く分からないけど、人間の頭の中は無限の可能性があるから、知識と知恵さえあればどんな事だって出来るようになるんだよ。
人間が頭で考えられることは、必ず実現出来るんだって。だから、考えられる頭を作ることが進化なんだって。
人間が、他の動物より唯一優れているのは、考える頭だけなんだって」
「うん。なんとなく分かる気がするな」
僕には難しい話を考える頭は無いようなので適当に返事をすることにしました。今までも、難しい政治の話や科学の話の時は「分かる気がする」「その通りだな」と深く頷くことにしていました。
「虎穴高校には、天体望遠鏡があるんだよ。県内で一番倍率が高いんだ」
「それが、志望動機か?」
天体望遠鏡があるから虎穴高校に行きたいと言うのは、解り易いので理解できます。
「でも、ここから見える星の方がきっと綺麗だから一ノ谷でいいんだよ。分かった?!」
何故だか茜は、僕に説明するのが面倒になったように言い捨てて教室を出て行きました。
その晩、夕食を運んできてくれた梅子さんに、アース先生のことを聞いてみました。
「アース先生と言うのは、どんな人だったんですか?」
「変わった人だったね。毛むくじゃらで髭を生やして少し青い目をしてたからハーフだったんじゃないかな」
「へー。いつくぐらいの人だったんですか?」
「来た時に35歳だって言ってから、今は37歳かな。背が高くて、よくあそこの鴨居に頭をぶつけてたね」
梅子さんが指差した鴨居に頭をぶつけるとなると180センチは超えていたのでしょう。僕が手を伸ばしてやっと触れる高さですから。僕も、あの鴨居を頭を下げて潜ってみたいものです。
「良く、村中をシャベルを持って歩いていたよ。山に入っては色んなところに穴を掘ってたね。今は、自分で深く掘った穴に落ちて大きな病院に入院してるよ」
「なんで穴なんか掘ってたんですか?」
「なんでも、地質の調査をして地球の歴史を調べてるとか言ってね」
「ほー」
僕は、良く分からないけど難しい研究の話をされた時は、とりあえず「ほー」と感心することにしています。
「茜は、頭も良いし好奇心も旺盛だから最高の環境で勉強をすれば、すごい学者になれるって言って茜には、色んな本を貸してたよ。ここにあった本もアースさんが入院した時に茜が全部借りて行ったよ」
梅子さんが指差した本棚に、今は僕が持ってきた教育関係の本が少しとグラビア・アイドルの写真集が収まっています。
僕は、なかなか帰らない梅子さんを何とか追い返して今日も裏山に登り携帯のメールをチェックします。
未読は二通。ビデオ屋の新着案内とハンバーガーチェーンのクーポン。
洋子ちゃんからのメールは今日もありません。
「オー・ジーザス!僕の頭の中には、この無限に広がる星空と同じぐらいの想いが詰まっているのに〜」
満点の冬の星空は、今日も眩いほどに輝いています。
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