第二章 山桜中学校
僕の山桜村での一日は、キッチンの蛇口から出てくる少し暖かい水で顔を洗うことから始まります。
この村の水道は、全て地下水を汲み上げて使っているので冬は暖かく夏は冷たいと言う自然の恵みを受けたミネラル天然水なのです。
豊かな天然水で顔を洗い歯を磨くと、梅子さんが炊き立てのご飯と庭先で採れた野菜をふんだんに使ったお味噌汁、そしてこれまた、庭で飼っている鶏の産みたて生卵を持って来てくれます。
朝ごはんは、都会で食べていた朝バーガーに比べものにならないくらいに美味しいのですが、持って来てくれる梅子さんがチラチラと太股を見せてくれるのだけが問題です。
今日は、美味しい朝食の後に初登校です。
土曜日に、あのバス亭に降り立ってから3日目の朝とは思えないほど長くゆっくりとした時間がこの村には流れ、まだパソコンすら届いていない僕は、松ばあさんの死んだ息子さんの服と自転車を借りて村中を探索しましたが、コンビニも本屋も見当たりませんでした。
いったいこの村の人たちは、どんな暮らしをしているのでしょう。
学校へも自転車で行きます。
片道15分の山道を登ったり下ったりしながら辿り着いた学校は、長年の風雪に耐えた文化財のごとき木造平屋建てに瓦屋根。
僕の借りた自転車は、タイムマシーンなのではないかと思ってしまいます。
自転車で広い校庭を横切って校舎の横に自転車を止めていると、後ろから声を掛けられました。
「良く来てくれました。私は、この村の村長をしている吾郎です。沼池吾郎。この村の人間は、ほとんど沼池姓なんで吾郎でいいですから。こちらの方は、隣町の教育委員会の作治さん」
背の小さい老人は、自己紹介と隣に立っている村の景色には似合わない縦縞のスーツに赤いネクタイをした縁無しメガネの30代前半と思われる男性を紹介してくれました。
「僕は、沼池ではありません。六村市教育委員会の井上作治です」
「あ、どうも。今日から赴任してきました海野 保です。よろしくお願いします」
「まあ、3月までの短い期間だから気楽にやって下さい。僕は、忙しいのでこれで帰りますが、何かあったらEメールでお願いします」
縁無しメガネの作治さんは、名刺を僕に渡すとサッサと車に乗って帰ってしまいました。
「では、生徒を紹介しますかね」
村長の吾郎さんが小柄な身体でテクテクと校舎の中に入って行く後を、僕はトコトコとついて行きました。
校舎の中には、五つほどの教室があり僕は村長の後をついて一番奥の教室に入りました。
他の四つの教室は使っていないようです。
「んじゃ、新しい先生を紹介するからな」
村長は、教室にいる4人の生徒に向って言いました。
「沼池 保先生だ」
「村長、僕は沼池ではありません。海野です、海野 保」
「そうでありましたね。つい、みんな沼池だと思ってしまって」
「はじめまして、海野 保です。これから短い間ですが、皆さんと勉強したいと思っています。先生も村のことや学校のことが良く分からないので宜しくお願いします」
僕は、黒板に自分の名前を書いて自己紹介をしました。
「では、今度はみんなの自己紹介をしてくれるかな」
僕は、若々しい先生と言った面持ちの口角を思い切り上げた作り笑顔で言いました。
「沼池 茜です。3年です」
茜は、目がクリクリと大きく口も大きい、髪の毛が短くて色の黒い活発そうな女の子です。
「沼池 浩太です。2年です」
「沼池 良太です。2年です」
浩太と良太は双子の兄弟で、二人とも体がデカくて逞しい少年です。きっと腕相撲をしたら僕より強いと思います。
「沼池 幸、1年生です」
幸は、まだ小学生のような幼さが残る髪の毛を三編みにした色の白い女の子です。
「では、先生、後はお願いします」
村長は、全員の自己紹介が終わると、またテクテクと廊下を歩いて帰って行きました。
「それじゃ、先生は1年生から3年生を教えるのも国語以外を教えるのも初めてだから、今までの授業の方法を教えてくれるかな」
僕は、茜にむかって尋ねました。
「自習。ずっと自習」
茜は、ぶっきらぼうに答えてホチキスで止めた手作りのテキストを取り出して言いました。
「このプリントを読んで分からなかったら先生に聞くんだよ」
浩太が手作りテキストを振りながら教えてくれました。
「どれどれ」
僕は浩太のテキストを見てビックリしました。それは小学生で習う漢字やら算数やらの問題と浩太が書いたと思われる汚い字がグチャグチャと書いてあるのです。
「これは、簡単過ぎないか?」
僕が浩太に尋ねると、今度は良太がテキストを見せてくれました。
そこには、中学生としては標準的なレベルの問題が書かれています。次に幸のテキストを見ると小学生低学年から高学年までの問題が幅広く書いてあります。
最後に、茜のテキストを見てみると高校を通り過ぎて大学入試レベルの問題と細かく記入された回答。
どうやら、前任の先生はひとりひとりの能力に応じて問題を作っていたようです。これは、教育指導要領に反することで教育委員会が問題にしないのは、それだけこの村が見放されている証拠でもあります。
このまま続けて僕まで問題教師にされては、たまったもんではありません。
「じゃあ、とりあえず今日は自習ということで」
僕は、今後の指示を受けるために裏山の頂上まで必死で自転車を漕いで携帯の通じる場所に急ぎ、息をゼイゼイさせながら教育委員会の作治さんにメールをしました。
すると、すぐさま『あと2ヵ月だから放っておいて下さい』丁寧な言葉で適当な内容のメールが返信されました。
僕は、このメールを自分に問題が降りかかった時のために大切に保護をしてから、自転車に跨りブレーキを鳴らしながら坂道を下って学校に戻りました。
教室に戻ると、茜は真面目にテキストにシャープペンを走らせ、浩太と良太は漫画の本を読みふけっています。
幸は、画用紙を出して何やらお絵書きです。
「今って休み時間?」
僕は、漫画を読んでいる良太に聞いてみました。
「山桜中学校に休み時間は無いよ。お昼の時間以外は自分で決めて自分で勉強するんだよ。ねえ、茜ちゃん」
良太に話かけられても茜は無視して答えようとしません。
「保先生の絵を描いたよ」
幸が、そう言って見せてくれたのは、髪の毛を真ん中分けにした丸い顔に丸い目をした僕でした。上手な絵ではありませんが、自分で見ても良く似ていると思います。
「幸は絵が上手いんだね。良く似てるよ」
僕が絵をのぞき込んで言うと、「どれどれ」と良太も浩太も幸の絵を見に来ました。
茜が机から幸の絵をチラっと見て「コアラ」ひとこと言った時から僕のあだ名は「コアラ」に決まりました。
言われれば、確かに僕の顔はコアラっぽいかもしれません。
その日の僕は、授業中は机の周りをグルグル歩いたり窓から見える針葉樹の山を眺めたりしながら過ごし、昼休みには梅子さんが作ってくれたお弁当を食べ浩太、良太と校庭で十年ぶりのサッカーをして汗を流しました。
この生活を続ければ、春には引き締まった身体になり洋子ちゃんとの恋が予感から実感に変わるかもしれません。
こうして、僕の赴任1日目は無事に過ぎていきました。
家に帰ると僕の荷物が囲炉裏付きのダイニングに運び込まれ、何故だか開封までされて衣類は竹竿に通して干され、少ない本類は机の上に大きい順に綺麗に並べられていました。
そして、大切なノートパソコンも本と一緒に立て掛けられていたのです。
「こ・これは、誰が勝手にひとの物を・・・」
愕然とする僕の前に現れたのは、1月の寒い夕方に胸の大きく開いたキャミソール姿の梅子さんです。
「ちょんと整理しておいたからね。私って案外、片付け上手」
「しかし、勝手に人の物を・・・」
「いいの、いいの気にしないで。エッチな本は押入れに隠しておいてあげたからね」
梅子さんは、朝見たときよりも明らかに大きくなった胸を揺らしながら僕の横に擦り寄ってきました。
「あれは、グラビアアイドルの写真集でエロ本じゃありません!」
僕は、梅子さんを見ないようにして本棚のノートパソコンを机の上に開きました。
「残念ねえー。インターネットの回線は村役場にしかないわよ。エッチな動画も見れないわね」
「そ・そんな」
「我慢できなくなったら言ってね。お風呂ぐらい覗いても怒らないから」
「そういう問題じゃありません!」
僕は、モバイルカードを差し込んだノートパソコンを持って裏山に駆け上りましたが、いつもの検索サイトの画面が見えることはありませんでした。
「オー・ジーザス」
僕は、ノートパソコンを満天の星空に掲げて叫びました。
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