第一章 赴任
僕が、この何もない山間部の中学校に赴任することになったのは、失恋の痛手も癒えて新しい恋の予感を感じ始めた一月の終わりでした。
そもそも、異動願いを出したのは失恋により自暴自棄になった僕自身なのですが。
「辞令 海野 保 山桜村立 山桜中学校に赴任を命ずる っと」
薄毛で小太りの校長は、トレードマークの大きな丸い黒縁メガネをずり上げながら気楽な口調で言いました。
「校長!なんで一月なんて変な時期に異動なんですか?」
校長室に呼ばれた僕は、季節外れの異動に気色ばんで校長に詰め寄りました。
「急に、前任の先生が怪我をしてしまったんだから仕方ないよね。今度、赴任する学校には教師が一人しかいないから」
校長は、呑気に少なくなった髪を鏡で見ながら言うのです。
いくら横の髪をもってきたところで髪が増える訳でもなく、ハゲであることには何ら変わりはないのですが、本人はかなり誤魔化せていると思っているようです。
「まあ、三月の卒業式が終わったら廃校になるから、少しの間の辛抱だよ。
じゃあ、僕は漏れそうだから」
校長は、すだれ頭の間隔を整え終わると満足気に鏡を机の中にしまい、僕に辞令と新しい宿舎の住所を渡してベルトの上に乗せたお腹を擦りながらトイレへと急いで行きました。
都合が悪くなると便意をもよおす便利な身体で、これまでも幾多のピンチを乗り越えてきたのです。
不良達が、授業を抜け出して先生方が探し回っていた時も、後で問題になってPTAの方々が学校に押し寄せた時も、トイレで籠城していました。
そんな校長の後ろ姿に
「四月から、またこの学校に戻して下さいね〜!」
そう叫びましたが、校長は軽く手を上げて困ったようにずり落ちそうな黒縁の丸いメガネをずり上げて立ち去りました。
僕には、どうしてもこの学校に戻らなくてはいけない理由があるのです。
それは、この学校にいる事務の洋子ちゃんと新しい恋の予感をヒシヒシと感じているから。
「オー!ジーザス」
僕は赴任先のバス停について思わず叫んでしまいました。
聞きしに勝る田舎です。
都会から電車で二時間、そこから日に四本のバスに揺られて一時間の山桜村は、県内にもこんな秘境があるのかと思う程に時間の止まった場所です。
「先生の身の丈は?」
バスを降りた僕を待っていたのは、腰の曲がった老婆でした。
「はあ?なんですかあ〜」
言っていることが分からない僕は、老婆の耳元で大きな声を出して聞き返しました。
「うるさい!耳がおかしくなるわい。身体の大きさを聞いているんじゃ」
「身長は170センチで体重は60キロですが」
老婆は、ジロジロと僕を眺めて言いました。
「本当は?」
「すいません。海野 保 28歳、168センチで68キロです。最近、ストレスで太りまして」
「ふん。その背格好なら息子の服で合うじゃろう。わしは、松じゃ、先生がこれから寝泊まりする所の大家じゃ」
松ばあさんは、「ついて来い」という素振りで首をクインクインと捻りました。
そして、案内されたのが古びた農家の離れです。
家の中は、土間になっているキッチンと囲炉裏のあるダイニング。
そして、分厚い掛け布団が二枚あるベッドルーム。
これを、1DKと呼んでよいのでしょうか?
「お待ちしてましたぁ」
妙に鼻にかかった声に振り向くと、キッチンの入り口には目の周りに隈取りをしたのかと思えるほどにグリグリとアイラインを入れピンクのチークも鮮やかな40代前半の女性が、茶髪の軽い縦巻きをいじりながらミニスカート姿で僕に流し目を送ってるではありませんか。
「あの〜どちら様でしょう?」
僕は、目を合わせないように尋ねました。
「せ・ん・せ・い・の・お・世・話・がかり」
またもや、鼻にかかった声で、しかも一文字ずつ区切って言いました。
「出戻りの孫の梅子じゃ。今日から、先生の食事や家の掃除をするように言ってある。分からんことは、遠慮なくコレに頼むといい」
松ばあさんは、そう言うと母屋に帰っていきました。
「じゃあ、後でご飯を持って来てあげるからね」
巻き巻きミニスカの女性は、軽くウインクをして老婆の後について行きました。
僕の脳裏には、昔読んだ民話で吹雪に迷った旅人が宿を借りると、夜中に山婆が包丁を磨いでいる挿し絵がヒューと言う吹雪の音と共に鮮明に浮かんでしまいました。
まだ、送った荷物が届かない僕は、前任の先生が使っていた机の前で座椅子に座り携帯をポケットから取り出して無事に着任地についたことを洋子ちゃんにメールすることにしました。
「圏外!?」
僕は、表示された圏外の文字を見て愕然となり、家中を携帯の電波を求めてウロウロと歩き回りましたが見事に全てピクリともしない圏外。
仕方なく庭先に出て、右に左に電波を探し求めましたが愛しの電波さんは出てきてはくれません。
「先生、ご飯を持ってきましたよ」
電波を探す僕に梅子さんが腰を振りながら近づいて来ます。
「梅子さん、電波は?電波は?」
僕は、携帯をかざして叫んでいました。
「あ〜ん。携帯は、裏の山まで行かないと使えないわよ」
梅子さんは、小高い丘の上を指差して教えてくれました。
僕が猛然と人ひとり通るのも狭い、草に覆われた坂道を一目散に駆け上がると、電波さんは恥ずかしそうにアンテナを1本だけ立ててくれました。
「オー・ジーザス」
僕は、思わずカラスが飛んでいく夕焼けを見つめながら叫んでしまいました。
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