四、猫又
定時にかけた目覚ましを止めると蒼馬は伸びをする前に襖を開けた。狭い扉から四つんばいに這い出すと改めて伸びをする。
部屋には小雪がいつもの着物を身に纏い、蒼馬に背を向けて長い黒髪を櫛でとかしていた。
「おはようございます」
『おはよう。蒼馬。ねぇ、狭くないの? ……押し入れ』
「狭い所じゃないと寝れないんですよ」
そうなのだ。蒼馬は何故か狭いアパートの中の、更に狭い押し入れの中に布団を敷いている。
彼曰く、狭い所でないと寝れないようだが、詳しい理由は聡美でさえ知らない。
『今日は何時に帰って来るの?』
「今日、ですか? えっと、…昼過ぎには」
『そう。じゃあ、準備をしておくわ。猫又の、ね』
「……今日も、ですか?」
昨日もあの後あまり寝れてないのだ。それが今日の夜にも続くとなると、さすがに夜更かし専門の大学生も辛い。
肩を落として呟くと、小雪が優しく肩を叩いた。
『体調が悪ければ延期するけど、どうする? 延期しましょうか?』
「いえ、平気です。今日、やりましょう」
自分で自分の首を絞めたようなものだが、彼自身が決めたことなのだから仕方ない。これで今日も夜更かし決定になった。
それから朝食と通学の過程をすっ飛ばして、ここは大学構内。次に始まる授業は全学部共通の選択授業だ。
蒼馬は真ん中から少し後ろの、教授から見えにくい席に素早く座り、いち早く腕を枕にうたた寝の体制になった。その彼の頭をぱたぱたと随分リズミカルに叩く者がいた。反応を返さない蒼馬が悪いと言うように頭を叩く手は止まない。これは、その者の性格を考えれば、授業が始まっても止まない可能性がある。それを想像してしまった蒼馬はうんざりしながら顔を上げた。
「大介……」
「おはよう。ソウ。早々から随分お疲れの様子で。聡美と喧嘩でもしたか?」
「何もないって。俺とさっちゃんはいつだってラブラブだよ。…さっちゃんとは別の理由」
「なんだ、浮気か? いや、ソウ、浮気はいけない。いけないぞ。かの有名な素足に革靴を履いていらっしゃるタレントIが浮気を肯定しようとも俺は断じて許さんぞ」
「……大介、いい加減にしろ。俺はさっちゃん一筋だし、他の女の子に現を抜かす暇はないの」
「ならいいけどな」
蒼馬を横目で見て、欧米人のように肩をすくめたのは、蒼馬の親友であり、悪友である諏訪大介だ。大介は蒼馬と同期の工学部の三回生で、どんな偶然か一回生のころから必ず一つは二人とも同じ授業を取り、今では大学の中で蒼馬と一番親しい友人になっている。そしてそれは大介に対しても同様のことだった。
「なぁ、大介。突然だけど…お前、妖怪とかって信じるか?」
「ふむ、…俺は自分の目で見たものしか信じないからな。妖怪か。そうだな、存在自体を否定はしないが、信用はしない。まぁ、目の前に現れて、俺にも見えた時は、信じるかもしれんがね」
「そうか、」
「何かあったか? まさか、妖怪を見たとか?」
「あ、いや。……そういう訳じゃないんだ」
言える訳ない、と胸の内でひっそりと囁き、蒼馬はため息を吐いた。その後はどちらともなく会話は途切れ、広い階段教室に虚しく教授の講義が響いた。
授業中の睡眠のおかげで幾分かすっきりした頭で蒼馬が教室を出ると、廊下には、壁にもたれかかり入口をじっと見つめる聡美の姿があった。
蒼馬が軽く手を振ると、彼女もそれに気が付いたようで小走りで彼に近づいてきた。
「そうちゃん、ご飯行こう?」
「あ゛〜、…ごめん。今日はちょっと用事があってね」
「小雪さん?」
「あ、…あぁ、うん。まぁ」
「そう。………大変だね」
どうも彼女の誘いを断るのは気まずくて言葉を濁した蒼馬に聡美は、頑張ってね、とそっけなく言って、すぐに背を向けて歩き出してしまった。いつも仲の良かった二人が、初めて見せるぎこちないやりとりは、端で見ていた大介の言葉を奪ってしまった。
「……蒼馬っ! お前、聡美に何をした!?」
「何もしてないよ」
「だったら言葉を濁すな。聡美が不安がる。…っていうか、小雪って誰だ」
「お前に言ってどうにかなるのか?」
「何…?」
「妖怪の類を信じてないお前に言ったところで何にもならないだろう? …大介、さっちゃんの傍にいてやってくれ。こんなの、他の男には頼まないんだからな」
聡美のことだけが、一番気がかりだった蒼馬は大介に全てを任せて、これ以上の大介の言及を避けるために彼もまた素早くその場を走り去った。
「ソウ! ……ったく、約束破る気か!」
届かないとは知りつつも大介は、蒼馬に向けて悪態を吐き、聡美を追いかけた。
大介が食堂に着いた頃、聡美はもうすでに食事を粗方終わらせており、食後のお茶をすすっていた。
いつもの元気はどこへやら、寂しそうにうつ向く彼女は、見ている方が辛い。そして、彼女にこんな顔をさせている原因である蒼馬に対して、いらだちが増しているのを大介は感じていた。
「聡美、…ソウと何があった?」
「…何もないのよ。ただ、話にくいだけ」
「充分大事<おおごと>だと思うけどな」
「いいの。そうちゃんはやることがあるんだから」
「それだよ。聡美を置いてまでやらなきゃならない用事なんて、卒論以外であいつにあるのか?」
「……この頃、出来たのよ。もういいでしょ? この話は終わり」
忘れたがっているように、聡美は大介に強くそういった。不機嫌そうに眉間に皺を寄せているが、瞳は今にも泣きそうに潤んでいる。そんな彼女に何か言ってやりたいと思ったが、それは自分の役目ではないと思い返し、大介は出かけた言葉を飲み込んだ。
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携帯に着信。
学校を出てすぐにそれに気付いた蒼馬は携帯の履歴を確認する。番号は自宅。かけてくる人物は一人しかいないのだが、果たして彼女は彼の携帯番号を知っていただろうか?
不審に思いながら電話をすると、案の定、電話口から小雪のテンションが高い声が聞こえてきた。
『蒼馬? ちょうど良かった』
「……なんですか?」
『マタタビをね、買って来て欲しいのよ。カイン●ホームとかの大型量販店に売ってるから。よろしくねー』
ブツッ、と一方的に切られた電話を片手に蒼馬はしばし呆然と立ち尽くした。
「まぁ、いいんだけど、立場が反対な気がしないか? 日の丸」
『あいつはいつもあんな感じだ。いい加減慣れろ。……それにしても、先程の聡美嬢への態度。あれはないと思うぞ。可哀想に、泣きそうになっていたではないか』
「……大丈夫だろう? 大介に行かせたし」
『そういうのは彼女を思いやってるとは言わん』
「日の丸、お前は大介の味方か? ……しばらく黙ってろよ」
『お前は俺の主人だ。命令には逆らう気はないがお前に従うかは別だ。良く考えろ』
日の丸は口論する気にもなれないのか、早口にそれだけを言うと口を閉ざし、終いには気配さえも消した。蒼馬はやっと親しみ始めた肩の重さが消えるのを感じて、気まずそうに舌打ちをすると、それを振り払うように頭を振って自転車に跨った。
「ただいま」
『おかえりなさい、……って元気ないわね。どうかしたの?』
「いえ、なんでもないんです。少し、眠ってもいいですか?」
『えぇ、良いわよ。時間になったら起こしてあげるから。…六時くらいに起こしていいかしら?』
「はい。…すみません。お願いします」
鞄からマタタビを出して小雪に渡して、鞄を放り投げ、蒼馬は押し入れの中から襖を閉めた。
しばらく中からガサガサと音がしたが、それもやがて消え、部屋に静寂が戻った。すると、す、と音もなく、襖が開き、同属しか見えない程度に顕現した日の丸が小雪の顔を伺うように視線を上げて、傍に寄った。
『小雪よ、……お前はどう思う? 今の蒼馬を』
『頑張っていると思うわ』
『それだけか?』
『……見ない振りしたっていいでしょ?』
『あいつは今、自分のことを見失っている。…自分のすべきことを見失っているというべきか』
『欠番を集めることもすべき事ではあるんだけど?』
『あまり、急ぐ必要はなかろう?』
『知らないわよ。私は蒼馬に従うだけだわ』
小雪は日の丸のぶしつけな視線を払うかのように、肩にかかっていた髪を払い、マタタビを持って台所へと姿を消した。
『全く、……どいつもこいつも何を考えているのやら』
ため息交じりに呟かれた言葉は押し入れにいる蒼馬にも台所にいる小雪にも届かずに部屋の中の空気とともに消えていった。
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予告通り六時に起こされた蒼馬は案外寝起きもすっきりしていて、随分気分が良かった。
「ありがとうございました。随分すっきりしました」
『そう。それは良かった。じゃあ、ちゃちゃっと用意しちゃいましょう。夕飯時に間に合うようにしなきゃいけないのよ』
「どうして夕飯時なんですか?」
『うーん、それはまぁ、彼女がそういう性分だからかしら? おびき寄せて捕まえる。そんな感じね』
「なるほど。俺も何か手伝いますよ」
それから二人はいつも通りの夕飯の準備を始めた。
机に乗っているのはご飯を盛った茶碗が二つと味噌汁、マタタビで漬けたきゅうりの漬物。それからコロッケと、日本酒。
『彼女は誰かと食事をするのが好きなのよ。後、晩酌もね。話をつけるのはその後になりそうだけど、蒼馬ってお酒強い?』
「あまり強くはないですが、大丈夫でしょう」
『それで、この漬物だけは食べないでね。人間にマタタビってどうなるか分からないんだけど、念のために、ね』
彼女が、台の上に箸を置いた瞬間、ドアのインターフォンが鳴った。蒼馬が扉を開けると、そこには彼の胸元までしか背のないふくよかな老婆がいた。
彼女は薄い小豆色の着物を綺麗に着こなし、年齢とともに白に染まったのだろう髪を後頭部でまとめていた。小さな眼鏡の奥の瞳は優しく、幼い頃の祖母を思い出した。
『なんや、招待されてるみたいやからね。ちょいとお邪魔しますよ』
「えぇ、どうぞ」
蒼馬が彼女を中にいれると、玄関まで来ていた小雪がその先を受け持った。
『あらぁ、雪ちゃんやないの。…お久しぶりね』
『えぇ、どれくらい振りかしら? お元気でした? それと、私今、小雪、といいます』
『お元気でしたよ。……そう。あの子が新しい主人かぃ。そうすっと、誠吾は亡くなったか』
『えぇ、そうみたいです』
『そうか、寂しくなるなぁ。で、今日は何の用だい?』
『分かってますでしょ?』
『ひとまず、おもてなしをお受けするとしようかね』
彼女は小さな机の前に座ると蒼馬を見て、手招きをした。
誘われるように彼女の前に座ると、手を合わせるように促された。
『いただきます』
「……いただきます」
しばらくの間二人は、口を開かずに目の前の飯を咀嚼していた。
その間、蒼馬は目の前の老婆をさりげなく観察してみたが、見ている分には普通の老婆で、どこをどうやって見ても猫又には見えなかった。
『なんや、私のことが気になりなさるかぃ?』
「ぁ、すみません。…あの、貴方は、本当に猫又なんですか?」
『そうさね。ホラ』
「……っ!?」
掛け声をかけた彼女の頭の上から猫の耳がぴょこんと飛び出し、左右が別々に動いた。
『まごうことなき天然物さ。どうだい? 驚いただろう?』
「本当、なんだ」
『そうさね。それであんた、名前はなんというんだい?』
「伊上蒼馬です。伊上誠吾の孫で、祖父は一昨年、亡くなりました。大往生だったって、臨終間際に自分で言ったそうです」
『そうかぃ。良かった』
「貴方は何故、離れていたんですか?」
茶碗をお猪口に持ち代えて老婆は快活に笑った。お猪口に酒を注ぎながら、蒼馬は話の続きを待った。
『なぁに、ちょっとした見聞さ。あんたが現れたら、戻ってくるつもりでね』
「そうですか。…俺は、特に貴方の行動を縛るつもりはないんですが、どうでしょう? 戻ってきていただけますか?」 言い終わった後、蒼馬は彼女をじっと見つめた。しかし、当の彼女は蒼馬なぞ目にも入っていないかのように、淡々と酒を煽り、息を吐いた。
その間が惜しい気がして、彼が口を開きかけたのを老婆が手を出して口を塞いだ。
『まだ、帰ってやるわけにはいかないね。今のあんたじゃあ、役立たずだ。もっと他にやることがあるだろう。…焦ったって、上手くいくことなんてないんだよ。誠吾がなんて言ったかは知らんが、私はまだあんたの下につく気はないよ』
上手くいくと思っていた。彼女は蒼馬に好意的だったはずなのだ。いや、好意的だった。
なのに、彼に向けられた言葉は厳しい。まさか、この状態で断られることはないと思っていた蒼馬は驚きに言葉を失う。
『今日はありがとうね。ご馳走様。今度は酒さえ用意してくれさえすりゃあ、お邪魔するから。…まぁ、たまにはじっと立ち止まって考えることも必要さね』
おいとまするよ、と言うと彼女は蒼馬の肩をぽんぽんと二回叩いて部屋を出ていった。蒼馬はそれを目で追い、彼女が出ていった後も閉められた障子をじっと見つめていた。
半ば呆然としている彼に、声をかけるべきかやめるべきか、迷い、口を開いたり閉じたりしたが、かける言葉を見つけることができずに結局、小雪は口をつぐんだ。
『これが、あいつに対する第一の試練、なのかもな』
ぽそりと呟かれた言葉は日の丸の他に聞く者はおらず、言葉の波は夜の空気を少し揺らしただけだった。
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